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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年1月20日(家庭集会)

「新年言志」 箴言 15:13〜15
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉箴言 15:13〜15

13:心に喜びを抱けば顔は明るくなり 心に痛みがあれば霊は沈みこむ。14:聡明な心は知識を求め 愚か者の口は無知を友とする。15:貧しい人の一生は災いが多いが 心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。

 
 

○「新年言志」について
 それぞれの教会に、特徴的な新年行事というものがあるようです。早稲田教会でなら、婦人会主催の「ぜんざい会」や、教会学校と早稲田奉仕園の留学生の合同で行っている「新年おもちつき」などが、そうした行事になるでしょうか。  
 かつて奉仕しました山口信愛教会では、「初週祈祷会」というものが行われておりました。年の初めの週・翌週に連続で家庭集会を行い、ホストの証しを伺い、祈りを合わせるという祈祷会でした。千葉の四街道教会では、新春「今年の聖句」という、いろいろなみ言葉をおみくじのようにして礼拝出席者に渡しているとのこと、吉凶は関係ないけれど、辛口聖句も沢山入ってるようで、一年、与えられた聖句を大事に生きていこうと、教会で申し合わせて行っているようです。
 山口信愛教会と同じ地区にあった小郡教会では、「新年言志」という新年行事が行われていました。この「新年言志」、小郡教会を創設なさった牧師が始めて、以後ずっと教会の伝統としてきた恒例行事だそうです。年の初めにあたり、聖書のみ言葉から示しを受けて、新年に歩み出すにあたっての想いや祈りを皆の前で証しするというものです。小郡教会では1月は毎週、礼拝後にこれが行われていました。ある時、たまたまその一回を見聞きすることができました。
 
○ある方の「新年言志」
 ある男性信徒は「ペトロの手紙一」5章7節から示されたと語られました。プリントにコピーしておりますみ言葉で、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」というものです。
 その方は、「あなたはいつも不機嫌な顔をしている。何に怒っているのか、恐ろしくて近寄ることができない」、そんなことを言われるのだとのこと。中学の教頭先生をしていらした、実に真面目で、誠実な方です。生真面目さの故でしょうか、そんな誤解を受けることが多いというのです。そう言われる度に、「私は別に怒ってなんかいない。これは私の普段の表情なのだ、それのどこが悪いのだ」とむきになって反論して、相手からさらに「やっぱりあなたは怒っているではないか、恐い恐い」、そんな風に言われるというのです。
 これは自分に何か問題があるんではないか、改めて自分を冷静に見つめ直されたとのこと。こう語られました。“40歳になったら自分の顔に責任を持たないといけない、世間ではそう言われている。さらに年月を経ている自分の顔に、果たして責任が持てているのか。振り返ってみて、自分の心には、事柄が思ったようにうまくはいかないという思いわずらいが満ちている。こうした思いわずらいが、知らず知らずの内に私の表情となって、顔をこわばらせているのかも知れない”。
 年の初めに、聖書から「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と読んで、神がこの私をも確実に顧みてくださっている、その感謝と喜びを確かにし、思いわずらいから解放されての歩みを、この1年、志していきたいとのこと。少しでも笑顔で、明るい顔で人と接し、一年を通じて、あの人は変わった、随分と穏やかになったと言われることを目標としたい、そんな証しを伺うことができたのです。
 この証しを聴いて、実に後ろ向きでネガティブな自分を反省し、私も思い煩いを神に委ねて笑顔で生きることを目標に、また心を整え、それを表情や態度に結びつけていく、そんな信仰に歩まねばなと、今から10数年前につくづく感じました。そのことを、「新年言志」という行事があったことに合わせて、この新年に改めて思い起こしたのでした。
 
○心からの「和顔施」に生きる
 「箴言」に15章13節以下に印象的な言葉が置かれています。
 「心に喜びを抱けば顔は明るくなり 心に痛みがあれば霊は沈みこむ。聡明な心は知識を求め 愚か者の口は無知を友とする。貧しい人の一生は災いが多いが 心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」。
 イスラエルの人々は、それぞれの人生の経験を踏まえて、心の状態がその人の顔つきを規定する、この事実を知恵の言葉として語り残しました。
 「心に喜びを抱けば顔は明るくなり 心に痛みがあれば霊は沈みこむ」、また「心が朗らかなら 常に宴会にひとしい」と語られています。それぞれがどんな心で生きているのか、直面するさまざまな出来事をどうその心で捉えているのか、そしてその心を反映したどんな表情を示しているのか、考えさせられます。
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 仏教でいう「布施」、これは、慈悲の心をもって他人に財物などを施す実践徳目だそうですが、その「布施」に関して「無財の七施」が特に大切にと言われているそうです。財力や智恵のあるなしにかかわらず、誰もが日常生活の中で励む善行として「無財の七施」と、次の7つの行いがそう語られているそうです。
 1. 眼施 :やさしい眼差しをもって人に接する
 2. 和顔施 :やさしい微笑みをもって人に接する
 3. 愛語施 :思いやりを持った言葉で人に接する
 4. 身 施 :身をもって思いやりを示す
 5. 心 施 :心を込めて思いやりを示す
 6. 床座施 :人に場所や席を快く譲る
 7. 房舎施 :人に宿泊や休憩の場所を快く提供する
 これは単に仏教の教えというのではなく、キリスト教にもほぼ全てが共通しているかと思います。「和顔施」とあり、私たちの表情が問題とされています。
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 見せかけで、やさしい微笑みを顔に貼り付けるというのではなく、その表情を生む私たちの心が問題です。見方、語り、思いやり、譲歩などなど、記されている事柄一つひとつを通じて、私たちの真実、その心がどのような状態なのか、やはりこれが問題となることでしょう。
 かつて一人の方がその証しで取り上げられた「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」というみ言葉を、私も改めて深く深く心にとめ、思い煩いから解放され、神の愛を信頼しての歩みを進めていく、そうした中で、自分の表情や見方、言葉、そしてその時々の態度などを、御心に添って整えていく、とかく牧師は横柄になりがちですが、そうした自分を常に戒めながら、律しながら、この一年を生きていきたい、このことを私の「新年言志」としたいと思います。