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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年2月11日

「発破技士としての神」 ローマの信徒への手紙01:01〜17
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉

01:キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、??02:この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、03:御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、04:聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。05:わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。06:この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。??07:神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
08:まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。09:わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、10:何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。11:あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。12:あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。13:兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。14:わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。15:それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
16:わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。17:福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 
  ○ローマの信徒への手紙とは
 本日は、ローマの信徒への手紙1章から少し長く読んでいただきました。本日から始まる第41期の「教会聖書講座」では、この手紙を学びながら、選定した小冊子の感想を分かち合うという計画になっています。「教会聖書講座」を始めるにあたって、ローマの信徒への手紙とはどういうものであるかについて、ごく簡単にではありますが、今日の箇所から共に学びたいと願っています。
 ローマの信徒への手紙は、パウロが起源56年頃に認めた手紙です。彼自身が筆をとったというのではなく、テルティオという人物に口述筆記してもらったことが、この手紙の最後、16章22節に記されています。
 手紙を宛てたのは、当時の世界の中心地、ローマにいるキリスト者たち。この手紙には、「聖徒たちへ」という表現しか登場しませんので、まだローマ教会というような統一的な組織体は誕生していなかった考えられています。ローマ帝国の都に生き、暮らしていたキリスト者たちは散在しており、定期的に集まって行う集会も形成の途上にあったことだろうと言われます。
 この手紙は、たぶんコリントで書かれたと考えられています。エルサレム教会のために集められた献金を携えて、エルサレムに赴こうとしたパウロはコリントに3ヶ月ほど滞在し、その時に書かれたのではと言われています。
 エルサレムの聖徒たちを助けるための献金を届けたなら、パウロはローマへ行って伝道を行い、続いて世界の果てと考えられていたイスパニアへ行きたい、そう強く願っていました。イスパニア伝道に当たっての支援拠点をローマとして、その地のキリスト者たちに自らの業を支えてもらうことを期待していたのです。
 未だ一度も訪ねたことのないローマの地、そこに生きているキリスト者たちに、自己紹介の意味も込めて、パウロは自らの福音理解を提示して、自らを、何よりもキリストの福音を詳しく知ってもらおうと、この手紙を執筆しました。
 通常、パウロの手紙には各教会の抱える問題への具体的な勧めが記されていますが、それらとは違い、このローマの信徒への手紙では自らの福音理解を順序立てて解説しているため、教理的で難しく、読みづらい文書となっています。

 
○手紙の冒頭部分
 手紙の冒頭で、パウロは自らを大きく見せるような書き方は一切せず、1節を見ていただくと、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と自分のことを記しています。
 「僕」とは奴隷を意味しますので、私はキリストの奴隷とされ、神の福音を宣べ伝えるために召命を受け、使徒の一人とされた、この事実を感謝しながら、イエス・キリストに真実に仕えている、それが私なのだという自己紹介から始めています。
 続く2節から4節の言葉は、初代教会の最も古い信仰告白です。
 「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。
 こう告白されています。神の御子としてのキリストの誕生は古くから預言者によって約束されていたこと、その御子はダビデの系譜に属する者であること、聖霊の力によって復活を遂げたイエス・キリストこそが待ち望んできた御子である、こうした初代教会の信仰告白に自分も立っていることを記しています。
 信仰告白を記した後に、自らが異邦人伝道のために神に召されたこと、広く異邦人をも救いに導きこうとの神の御心が、遠くローマの信徒たちも及んでいることが述べられ、7節以下にはローマの信徒に改めて挨拶し、近い将来、ローマを訪ねて、実際に信徒のみんなと出会いたい旨が語られていきます。
 ローマ訪問を望みながらも何度も計画が頓挫しての今日だが、ぜひともそちらへと至って、“霊”の賜物を分け合って力になりたい、互いに持っている信仰によって励まし合いたい、主にある実りを得たい、広く人々に福音を告げ知らせたい、そのようなパウロの祈り・願いが立て続けに記されています。
 
○「わたしは福音を恥としない」
 続く16〜17節、ここは1章の中心聖句、あるいはローマの信徒への手紙の「鍵の言葉」として重んじられてきました。再度、ご一緒に確認したいと思います。
 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。
 「福音を恥としない」、少々不思議な言い方です。パウロの歩みや信仰を考えると、「福音を誇りにしています」と書く方が自然ではないかと思うのですが、パウロは「福音を恥としない」と自らの信仰について証をしたのです。
 当時のギリシャ人にとって、ローマ帝国の極刑、十字架により処刑された一介のユダヤ人、ナザレのイエスを救い主と崇めるというのは、何とも信じがたいことでした。極悪人として処刑された者を、神の子、救い主と崇めるというのは恥ずべき行為だと、皆が嘲笑っていたのです。ローマ帝国の首都に生きていたキリスト者たちは、このような罵詈雑言に常に取り囲まれていたに違いありません。
 そのような事情を推し量りながら、この周囲の見方を踏まえた上で、私は恥とは思わない、そして自らの生き方を通じ、福音を恥としないあり方を求め生きている、自らの信仰をパウロはこうした言い方で証ししました。
 「わたしは福音を恥としない」という言葉に、力強い証が続きます。17節です。
 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。
 主イエス・キリストの出来事、その教えや生き方は福音という良き知らせであり、馬鹿にして嘲っているギリシャ人たちの侮りをも打ち破り、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」なのだと、パウロは語っています。
 
○「神の力」 = デュミナス → ダイナマイト
 ここに登場する「神の力」にdunamis(デュミナス)という言葉が用いられています。このデュミナスという言葉から、ダイナマイトという爆薬の名称が導かれました。アルフレッド・ノーベルが発明した強力な爆薬、ニトログリセリンを珪藻土にしみ込ませることで安定化させ、実に強い爆発力を有しながらも、人間がコントロールできる爆薬となりました。ノーベルは自らが開発したこの爆薬に、「神の力」(デュミナス)から導いてダイナマイトという名前を付けました。
 今日の箇所で、またこの手紙全体を通じて、パウロは、人間の弱さや偏見、さまざまな障壁などを打ち破っていく、「神の力」をこそ宣べ伝えようとしています。
 イエス・キリストの福音、その生き方や教え、十字架の死と復活、それを恥と受けとめてしまう者たちがおり、同じような感覚が自らの内から拭い去れない私やキリスト者がいる、その不信仰や弱さをしっかりと見つめながら、それをも打ち破っていく爆発的な力をパウロは「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と、確信してここに記したのです。
 
○不信仰を打ち破って働く「神の力」
 先々週の土曜日に、池袋西教会の会員の葬儀に参列しました。A・Tさんという男性信徒で、若い頃、早稲田奉仕園の学生会でも活躍された方です。早稲田の予科から、早稲田ではなく音楽大学へと進まれ、卒業後は、玉川聖学院中高で音楽の先生、池袋西教会の聖歌隊の隊長として奉仕されました。私は支区の委員会を通じて長く親しくさせていただいたので、夫婦して葬儀に参列しました。
 葬儀では、Aさんの愛唱聖句、ヘブライ人への手紙10章35節から11章3節が読まれ、式辞が語られました。その箇所の中心を今日の招詞といたしました。10章37節から11章1節を読みます。
 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない」。しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
 旧約聖書のハバクク書からの引用で「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とあります。ローマ書1章17節にも「正しい者は信仰によって生きる」と少し違った言い方ですが、やはりハバクク書から引用されています。今日の聖書箇所を心に、同じ言葉の引用にはっとさせられながら、葬儀の式辞を拝聴いたしました。
 Aさんは極めて真面目に信仰を追い求められ、若き日々には、自らの信仰の不十分さに深く悩まれたとのことで、そうした証の文章が、教会文集に残されていると伺いました。信仰の実存とは何か、神に喜ばれる、強く揺るぎない信仰とはどんなものか、このことを常に追い求めながら、自らが理想とする信仰にまでどうしても到達できない、そんな自らを恥、長く悩み続けられたというのです。
 ある時、ヘブライ人への手紙10章から11章に至る箇所を読みながら、「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とあるが、正しい者として信仰に自力での到達は無理だ、そう気付かれたというのです。それではどうするのか、信仰を諦めるのか、自らの力の限界は認めざるを得ない、しかしながら不信仰を打ち破って神の力は必ず働かれる、とすれば自らの不信仰を恥じるのではなく、全てを突破していく神の力をこそ信頼しよう、そのように思いを変えられ、以降、84年の生涯の最期までこの確信を抱き、神の力を信頼して歩み通されたというのです。
 この方の想いの転換、今日、ご一緒に読んだローマ書1章を通じてルターもほぼ同じ体験をしたと伝えられていますが、Aさんの歩みもまた「福音」としての「神の力」の真実を証ししているものだと思わされました。
 
○発破技士としての神
 発破技士という国家資格があります。建物や道路を造ったり、採石のために、ダイナマイトなどの爆薬を使って山などを切り開く、そんな働きを担うために、発破技士という資格が設けられています。とにかく爆破、破壊ではなく、必要に応じて火薬量を調整したり、どのように爆薬を仕掛けるのかを判断して、後の工事や建造物に向けて適度な爆発を導く、そのための資格だそうです。
 今日の箇所に語られている「神の力」、それからダイナマイトの名称が導かれたことを思いながら、神はあたかも発破技士のように、私たちの弱さや欠け、心に築いている壁の厚さなどを推し量って働き、必ずや信仰への導きの道をそれぞれに拓いてくださることを思いました。
 私たちは、聖書で神が求めておられる信仰に真っ直ぐに至れない弱さを抱えています。しかし、私にも、またここに集う一人ひとりに神が力をもって臨み、歩みを拓き、導いてくださいます。Aさんが悩みの末に到達なさった思い、自らの力の限界はある、しかし不信仰を打ち破って神の力は働く、不信仰を恥じて信仰を諦めるのではなく、全てを突破していく神の力にこそ信頼する、このあり方を、今日のパウロの言葉からも聴き取り、私たちの祈りとしたいと願います。