HOME | 説教 | 説教テキスト180401

説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年4月1日(イースター礼拝)

「その熱は今も」 ルカによる福音書24:28〜35
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉

28:一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29:二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30:一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31:すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32:二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33:そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34:本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35:二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

○「エマオ途上」の物語
 今日、私たちは2018年度のイースターを迎え、主イエス・キリストの復活を記念しての礼拝を捧げています。激しい受難を経験し、十字架に磔られて死んだ主イエス・キリストは、三日の後によみがえり、真の希望を私たちに与えてくださいました。こうした主の復活に感謝し、この出来事に表された真の希望を味わいながら、神を心から賛美し、この礼拝を捧げてまいりたいと願います。
 今日は「ルカによる福音書」から、「エマオ途上の物語」の後半の部分を読んでいただきました。復活の主イエスと弟子たちの出会いを描いた物語、実に印象的なこの出来事の最後の方だけを読んでいただきました。
 物語は、「ルカ福音書」24章の13節から。次のように語り出されています。
 「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった…」
 イエスに従い、この人こそイスラエルを解放する預言者であると期待をかけてきた弟子たち。そのイエスが捕らえら、十字架という、当時、極悪人にしか下されなかった刑罰によって処刑されてしまった、血を流し、苦しみ抜いて死んでいった…、このような事態に遭遇し、弟子たちは絶望を抱き、自分たちもまた何らか罰せられるのではないか、そんな恐ろしさで散り散りになったのです。
 ここでエマオへと歩みを進める弟子たちも、他の弟子たち同様に、深い悲しみと大きな失意とを抱えていました。暗い想いを抱え、遅々と歩みを進める、こうした二人に近づき、共に歩む一人があったと、この物語は証言しています。
 
○情景が心情を余すところなく表現
 この二人の弟子たちは西に向かって歩んでいます。エマオというのはエルサレムの西方、約11キロの距離にある町です。状況から考えて、西方のエマオに向かって彼らは夕暮れに、沈みゆく夕陽を追いかけて歩んでいるのです。次第に暗くなっていく静寂を歩みながら、二人はこの間の出来事を互いに語り合っていたのです。
 この時の弟子たちの想いはどんなものであったでしょうか。非常に暗い、どうしようもない失意や深い絶望感に支配され、その足取りも重かったに違いありません。全てが終ってしまった、そうした暗い想いを払拭することはできなかったことでしょう。このような想いを抱えて歩んでいる弟子たちが、次第に夕闇に包まれていく、実に虚しく、侘びしい情景が目に浮かぶ、そんな場面です。
 そうした時、いつの間にか誰かが自分たちの側を一緒に歩いていることに、二人は気がつきます。誰だか分からないその人に、弟子たちはこの間にエルサレムで起こった事を語ります。話を聞いてたその人は、二人に聖書全体について熱く説きあかしたというのです。
 日も暮れたので、彼らは宿屋に入ります。そこで一緒の食卓に着いた時、パンを祝福して割くその人の姿に、彼こそが甦りの主イエスであると気がついた、その時、イエスの姿は見えなくなったと証言されています。
 
○じっくりと静かな燃え方
 甦りの主との印象的な出会いについて、弟子たちは32節にこう証言しています。
 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
 弟子たちが語った「心が燃える」とは、失望・絶望に支配されていた心に、新たな希望が備えられ、生きる力が与えられたのだという証言です。
 ある人は、ここで語られている心の燃え方とは、ぱっと火がつく、即に燃え上がるというものではなく、炭火が長時間燃え続けるような、じっくりと静かなものだったと解説しています。全てが終わった、そんな暗い暗い想いで歩んでいる道筋において、そっと寄り添うように近づいておいでになった復活の主イエス・キリスト。この甦りの主イエスに伴なわれることにより、弟子たちは絶望から希望へとその歩みの方向を次第に変えられていったのです。
 彼らの希望とは、その場だけのこと、この出会いの瞬間のことだけだったのではありません。後々まで、弟子たちのその後の一生に亘って、この希望の火は燃え続けたのです。与えられた熱によってあたためられ、復活の主イエスに確かな希望を置いて、彼らは生き続けました。聖霊の導きを得て、迫害によって命を狙われる中にも、今度は逃げることなく、果敢に復活の主を宣べ伝え続けました。こうした弟子たちの働きにって、教会が誕生し、キリスト教が成立していきました。
 その後の事実を考え合わせると、この時の心の燃え方は、ぱっと火がつく、即に燃え上がるというものではなく、炭火が長時間燃え続けるような、じっくりと静かなものだったと理解できます。復活の主と出会いによって、弟子たちの心には消えることのない希望の火が確かに灯されたのでした。
 
○愛する牧者の召天
 今年の2月11日、大塩清之助という牧者が、91歳で天に召されました。
 昨年末に心筋梗塞で倒れ、危篤状態にあった大塩先生。さらに症状が悪化して初めて連絡を受け、2月12日にお見舞いする予定でしたが、間に合いませんでした。
 私の連れ合いの悦子は、聖学院小学校に入って板橋大山教会に通うようになり、この大塩清之助牧師から受洗しました。私たちの婚約式も大塩牧師の司式の下、板橋大山教会で行っていただきましたが、先生はその準備を極めて丁寧に行ってくださり、私たち夫婦は心から感謝しています。
 戦争体験を経て、戦後、熊本の医専に入り学んでいた大塩先生。その過程で召命を受け、神学校へと歩みを変えられます。信濃町教会での神学生生活、信濃町から派遣されての板橋での開拓伝道。30年間、板橋大山教会を熱心に形成され、その後、さらに開拓伝道して町屋新生伝道所を形成。80歳を越えたため、10年前に隠退。牧師として、ずっと開拓伝道の業に励ました誠実な牧者でした。
 大塩牧師は、教区・教団、その他多くの社会問題とも真摯な関わり続けておいでになりました。教団が1967年に当時の議長・鈴木正久名で公にした「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」の起草者の一人として、広く知られています。その熱心な信仰と祈りをもって幅広いお働きを担われ、常に弱い立場の人々と共に歩み続けた方でした。
 
○「伝道(愛)のエネルギー不滅の法則」
 ある時、悦子は、大塩清之助先生から次のような証を伺ったとのこと。
 “私は長い間、これも一つの伝道だと信じて様々な問題に関わってきました。しかし、時として自分のやっている業は、本当は無駄ではないのかという想いを与えられることもありました。誰も分かってくれない、何も変わらない、そんな現実に直面して、もうやめてしまおう、そう思ったことが幾度となくありました。
 しかし、熱き祈りを抱いて関わったことは、本人や事柄自体に変化が見られなくても、波及効果が起こされ、新しい仲間を与えられたり、信仰の道に入る者たちが、関わっている事柄の周辺から起こされたりもしました。
 こうした経験を通じて、昔、物理で習った「エネルギー保存法則」を思い出したのです。一つの事物に注いだエネルギーは、かき消えるのではなく、熱となって保存されるという法則です。自分が心血を注ぐように関わってきて、何ら解決の糸口さえ見えない状況であっても、誰も分かってくれないように見えても、自分が注いだエネルギーが熱としてこの世に残るならば、それは決して無駄ではない、いつかは何かが変わるかも知れない、そう思うようになったのです。
 主イエスは私たちを愛し、絶えることなく新しいエネルギーを送ってくださいます。そうであるならば、その愛を受ける自分が、容易に愛に疲れてはならない、愛を諦めてはならないと思うようになりました。これを私は、「伝道のエネルギー不滅の法則」「愛のエネルギー不滅の法則」と名づけているのです”。
 悦子を通して聞いたのではありますが、忘れることのできない証です。
 * * * *
 マルティン・ルターは、神と人間との関係を火と鉄に譬えたそうです。鉄はそのままであれば真っ黒で冷たく、また強固な固形物ですけれども、火によって熱せられ続けると、熱を帯びて真っ赤になり、ついには流れ出します。人間は罪と不真実の存在であるが、神の愛を受けることでいつしか愛へと変えられ、ついにはその熱を伝えるべく動き出すのだと、ルターは語ったとのこと。
 人間を熱し続ける神の愛の真実は、今日の箇所に証言されている弟子たちと復活の主との出会いの物語にも豊かに証されていることを思います。
 弟子たちはこう証言していました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。絶望と恐れ、失意の内に都落ちしていく彼らの心のみならず、身体や思考、信仰、存在の全てが熱せられて、そこに消えない火が灯され、突き動かす熱が与えられたというのです。
 
○熱を伝えられた者として
 大塩清之助牧師の葬儀は、2月18日の日曜日の夕刻から、日本聖書神学校のチャペルを会場に行われました。悦子、大塩牧師から受洗した妹の智子と一緒に私も葬儀に参列し、大塩牧師の信仰の人生に想いを馳せ、先生への感謝をもって、ご家族と共に先生を天へとお返ししました。
 葬儀の場で、私は大塩先生の証、「伝道のエネルギー不滅の法則」「愛のエネルギー不滅の法則」の話を思い起こしていました。
 “事物に注いだエネルギーは、どこかにかき消えていくのではなく、熱となって保存される…何ら解決の糸口さえ見えない状況であっても、誰も分かってくれないように見えても、自分が注いだエネルギーが熱としてこの世に残るならば、それは決して無駄ではない、いつかは何かが変わるかも知れない…”。
 大塩先生が語られた通り、彼が生涯を通じて注がれ続けた伝道のエネルギーは、良き交わりを与えられた私たちの内に熱さとして今も残っている、そのことに感謝しつつ、私たち夫婦がどう生きていくように示されているのかを、先生の葬儀の場で深く思わされたのでした。
 * * * *
 キリスト教は、復活の主イエスのいのちが弟子たちの内に燃え続けたことによって出発しました。主イエスの十字架の死で全てが終わったのではなく、この悲しみと絶望の出来事が、新たな希望やいのちへと変えられたのでした。この恵みを記念し、感謝するのがイースターです。
 復活の主は今も生きて働き、さまざまな形で私たちに出会い、寄り添い共に歩んでくださいます。そうした出会いや寄り添いを通じて、私たちに失われることのない熱をその愛によって与え、備えてくださいます。
 大塩清之助牧師の内にも復活の主イエスが確実に働き、愛の熱によって、牧者の誠実な生き方を支え、導かれました。この牧者の信仰と生き方を通じての証により、神の愛の熱は私たち夫婦にも分け与えられました。こうした出来事の背後に復活の主イエスの働きがある、そう私は信じています。
 日々の歩みに嘆きや虚しさを強く感じることがあるとしても、この復活の主の寄り添いと励ましによって力を与えられ、諦めることなく自らの心を燃やして、周囲・社会をあたためる愛に生きたいと思うのです。それぞれの現場でのこうした業へと向かって、復活の主イエスと共に歩み出したいと願います。