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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年4月22日

「戦場としての自己」 ローマの信徒への手紙7:13〜25
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉ローマの信徒への手紙7:13〜25

13:それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。14:わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。15:わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。16:もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。17:そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。18:わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。19:わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。20:もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。21:それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。22:「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、23:23わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。24:わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25:わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 

 
○「聖書」とはどんな文書なのか
 私たちの教会の原点である学生寮・友愛学舎では、毎朝、「朝の会」というものを行っています。これは、友愛学舎の中心的な活動で、早朝に皆で聖書を学ぶという会です。昨年は旧約聖書の「エレミヤ書」から学び、今年は新約聖書から「コリントの信徒への手紙一・二」を一年かけて読むと、舎生たちが決定しました。
 毎年4月には、「朝の会」開始にあたり、新舎生に向けて聖書入門を行います。今年は、「聖書とは何か」「旧約聖書入門」「新約聖書入門」「朝の会の発表の準備の仕方」と4日連続で、私が担当しました。一回30分ですので、到底、聖書全体をきちんと学ぶことはできず、入門の入門、少し舐めるくらいで終わってしまいます。それでも、友愛学舎に入って初めて聖書に触れるという学生もありますので、そのような舎生のために、また上級生も一緒に学び、心新たに「朝の会」を始めることができるよう祈りつつ、4月9日(月)から12日(木)まで4日連続で行いました。月・水は朝6時45分から、火・木は朝7時からの奉仕でした。
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 その際の学びを踏まえ、「聖書とは何か」をご一緒に確認したいと思います。
 聖書とは英語でバイブル(BIBLE)です。これはギリシャ語のビブロス(b?blos)から派生した言葉で、ビブロスは本(book)一般を意味しています。ギリシャ・ローマの時代、パピルス(紙)を輸入したフェニキアの港町をビブロスと呼んだことに発して、本(book)の内、最も大切な一冊をビブロスから派生させてバイブル(BIBLE)と称するようになりました。
 キリスト教は、聖書は正典としています。正典とは、宗教において、公式に信者が従うべき基準として確立されている文書です。経典、聖典などの呼び名で基準となる文書を表す場合もありますが、キリスト教は概ね正典と表現しています。
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 聖書とはどんな文書でしょうか。新共同訳聖書の巻末には付録として「読むためのガイド」が置かれています。お持ちの聖書の巻末、「聖書について」という文章をご覧ください。地図に続いて記されていますが、第一段落を読んでみます。
 “「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(列王記上17章1節)。
 エリヤ物語の初めに見られるこの言葉は、聖書の全内容を表している。聖書は、神と人間との歴史における出会いの物語である。この体験物語は、東地中海の諸国を舞台に、アブラハムとその子孫を中心に展開し、千有余年に及ぶ。唯一神への信仰は、紀元一世紀の終わりには、東地中海のあらゆる国に向けられ、多くの民族に、ついに全世界に伝えられることになる”。
 記されているように、今も生きて働いておられる、天地創造の神を証しているのが聖書で、神と人間との出会いの歴史と物語が記されているというのです。
 こうした神と人間との出会いの歴史と物語から、キリスト者たちは神の啓示(メッセージ)を受け取ってきました。人間とは何か、神に対する人間の立場はどのようなものか、神は人間に何を期待しておられるか、こうしたことを聴き取って、一人ひとりが神の前にどう生きるのか、聖書の言葉を通じて学び、自らの実存をかけて考え、学び取ったあり方に具体性を伴って歩み続けています。
 
○罪の赦しとしての新しい契約
 聖書は旧約聖書と新約聖書とで成り立ち、旧約・新約の「約」は、契約を表します。
聖書では、神と人間との確かな約束を「契約」という言葉で表現します。
 契約について、日本語辞書は次のように解説しています。“二人もしくはそれ以上の当事者を結びつける誓い、約束。当事者が等しくない社会的地位の場合の契約は、当事者どうしの将来の関係について、その性格と条件とを定める”。
 神は、イスラエルの民との間に契約を結んで、神と民の結びつきを確かなものとされました。原初である旧約聖書の契約には、条件として律法の遵守が伴い、律法を守ることによってこそイスラエルは神(ヤハウェ)の民とされたのです。
 旧約聖書で最も大切なのは「シナイ契約」。これはモーセを通じて神とイスラエルの民全体とで結ばれ、「出エジプト記」19章から20章に記されています(旧約聖書124ページ)。エジプトを出て三月目に、イスラエルの民たちはシナイの荒れ野に到着しました。モーセはシナイ山に登って、次のような神のみ声を聞きます。
 「3bヤコブの家にこのように語り イスラエルの人々に告げなさい。4あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。5今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。6あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」。
 「わたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば」との条件の下で、「あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる」「あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる」と約束されています。
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 しかしながら、この契約を人間は守ることができませんでした。旧約聖書には多くの歴史文書が含まれ、預言書も数多くありますが、それらにはイスラエルの民や指導者が、律法を守ることができなかった様が縷々書き記されています。
 神との契約を人間の側から一方的に破っていく、ここに人間の「罪」が露わになっています。キリスト教の言う「罪」とは、神の御心に的外れで、神に従い得ない欠けや弱さを意味しています。こうした「罪」を聖書は克明に描き出すのです。
 契約を一方的に破る、そんな相手との関係を、神は解消されたのでしょうか。関係解消は当然のところですが、神はイスラエルを見捨てはしませんでした。
 神の忍耐と愛を証したのが、「エレミヤ書」の「新しい契約」です(旧約1237ページ)。
 「31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
 神は「新しい契約」をイスラエルと結び、人々の心に律法を授け、記す、人間の罪や悪を厳しく問うのではなく、それらを赦してくださると約束されています。
 この「新しい契約」は、イエス・キリストにおいて成就しました。聖餐制定のみ言葉、「コリントの信徒への手紙一」11章23節以下に、杯に関して、主イエスの言葉が次のように残されています。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」。
 主イエス・キリストの十字架、そこで流された血によって、イスラエルのみならず、広く全世界の人間の罪の全てが贖われるという、愛と赦しの「新しい契約」が締結された、それにより神との関係が再び切れることのな、確かな状態へと導かれた、これがキリスト教の基盤にある理解・捉え方です。
 
○内面的な戦いから逃げずに
 今まで申し上げたようなキリスト教の基礎、特に神と人との契約、そこに表現されている神の愛と赦しを踏まえて、今日の聖書箇所を共に味わいたいと願います。と申しましても、もう時間がありませんので、要点だけ語ります。 
 今日の箇所は、「ローマの信徒への手紙」で大変良く知られている箇所です。ここには、パウロの正直かつ真摯な告白が登場します。15節以下を再度読みます。
 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。
 パウロは自らの内面、その真実をここまで正直に告白しています。ただ自らのことを語っているというのではなく、人間である以上、誰もこの罪の力の支配からは逃れることができないのだと、自らを人間代表として告白しています。この箇所を、代々のキリスト者たちは自分自身の嘆き・呻きだと受けとめてきました。
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 22節以下にもこう告白されています。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。
 ここには「戦い」と「とりこ」という戦闘の用語が用いられています。「戦い」には、激しく対立している相手と戦略を立てて戦うあり方が、「とりこ」には槍で脅して無理矢理に引いていくという言葉が用いられています。
 罪から逃れられない五体(そのままの自分)と、内なる人(信仰に生きようと祈り願う自分)との厳しい戦い、これはパウロのみならず、私や皆さんの内でも繰り広げられている戦いであることを思わされます。神を見上げる信仰者であっても、この熾烈な戦いを自分の内にずっと続けながら歩み続けるのだと思います。
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 こうした告白の最後に、パウロはそんな自分をも赦し、救ってくださる神の恵みを賛美しています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」。
 自分の内面を見つめながら、「ローマ書」7章を読み進めると、何とも重い、またしんどい思いで一杯になるのですが、この最後の2節に深く大きく救われる感じを与えられます。
 これは神の恵みへの心からの感謝、賛美です。と同時に、私たちはここに、パウロの確かな決意の響きも聞き取りたいと願います。
 これほどに惨めで、死を定められている自分を、神は、キリストを通じて、その十字架と復活の恵みで救おうとしておられる、そうであるならば、自らの内に深く根ざしている罪と戦う、生きている以上、その罪の力から完全に自由になれないとしても、この罪と戦い抜いて生きていこう、諦めて全てを罪に明け渡して、御心から離れていくのではなく、自らの内で戦いながら一歩ずつであっても進む、これが誠実な信仰の歩みなのだ、そんなパウロの決意や祈りが伝わってきます。
 私たちもまた、イエス・キリストを通じて、神の救いの恵み、「新しい契約」に与りながら、自らの内に働く罪との戦いを続けていく者とされ、真実な信仰者としての歩みを形成していきたい、そう願います。