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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年5月6日

「南洋に漂いつつ」 ローマの信徒への手紙 8:26〜30
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉ローマの信徒への手紙 8:26〜30

26:同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27:人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。28:神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29:神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30:神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 

 
○「共に」「代わって」「重荷を引き受ける」
 今日読んでいただいた「ローマの信徒への手紙」8章26節以下は、さまざまな苦難や試練を経験した、あるいは現在、痛みや苦しみの最中にある人々によって繰り返し読まれ、彼らの支えとなって、深い慰めや励ましを届けてきたみ言葉です。
 パウロは、今日の箇所にこのように宣べ伝えていました。26節から28節を再度お読みします。
 26同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。28神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
 これらのみ言葉に希望をおいて、神の御心と聖霊の執り成しとを深く信じ、このみ言葉に支えられながら人生を歩み続けたキリスト者が、かつても今も沢山いらっしゃいます。
  *  *  *  *  *  *  *  *
 日本キリスト教会の蓮見和男牧師は、新約聖書全巻を私訳し、注釈をつけ、小説教となすという業を長く続けてこられました。「マタイによる福音書」からお始めになり、「ヨハネの黙示録」に至るまで、新約聖書全巻に対してこうした業をお続けになりました。
 この蓮見和男牧師が、「御霊のとりなし」と題して、今日の箇所を私訳・注釈の上で、小説教として、ここに響くメッセージを展開していらっしゃいます。
 26節に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」とありますが、ここに「共に」という言葉が記されていることを指摘し、次のように私訳していらっしゃいます。「御霊も同じように、わたしたちの弱さを共に助けてくださいます」。
 この訳語の註にこうあります。“「共に助ける」は、原語で「共に」「代わって」「重荷を引き受ける」の三語からなっています。それは、御霊が、わたしたちの弱さを知り、共に、代わって重荷を負って下さる、という意味なのです”。
 新共同訳聖書では「“霊”が弱いわたしたちを助けてくださいます」とさらりと訳されていますが、この短い言葉の中に、パウロは聖霊が実際にどう働くのか、詳しく言い表しているというのです。
 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」には、私たちの弱さを受けとめ、その弱さを共にし、もう担えないと嘆かざるを得ない重荷や課題を私たちに代わって背負ってくださる、そんな聖霊の恵みが語られているのです。
 
○「ある人のために」「只中で」「出会う」
 続く26節の後半にはこう宣べ伝えられています。
 「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。
 ここでパウロは、私たち人間の「弱さ」が際だってしまう状態・状況を想像しつつ語っています。予想外・想定外の事柄、特に突然の苦難や越えがたい困難、病などに出遭った際、私たちは迷い・戸惑い、どうしたらよいか分からなくなります。こうした状態の中で、神を疑い、見失うということが起こってきます。
 このような時、私たちの口から出てくるのは、神への賛美の祈りでもなければ、神への切実な求めでもないことでしょう。そうした時に私たちの口から発せられるのは、言葉にならない嘆き、“うめき”です。虚無と絶望とに支配された私たちの内から漏れ出てくる“うめき”、これは間違いなく後ろ向きな響きを伴っており、悲しみや恐れのただ中での心の揺らぎがから発せられるものでしかありません。パウロは、こうした私たち人間の“うめき”をも聖霊は共にして、執り成してくださるというのです。
 蓮見牧師はこの「執り成し」にも註をつけていらっしゃいます。この言葉は、新約聖書では唯一ここにしか登場しない特殊なもののようですが、これも三つの言葉を合体させたものだと記されています。その三つの言葉とは、「ある人のために」「只中で」「出会う」、これらの言葉が合体されている語が、ここで「執り成し」と訳されているものなのです。弱さ故に事態を後ろ向きにしか捉えられず、言葉さえ失っている者のために、その事態の只中で聖霊は私たちに出会ってくださるのだというのです。そして、改めて神へ、神の御心に対する導き手として働いて下さる、そして神との間に立って仲介の役を果たす、それが「執り成し」手としての聖霊だと語られています。
 このような聖霊の働きに支えられてこそ、私たち一人ひとりは、28節にある通り、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」との信仰の実感へと導かれる、そうパウロは語っています。実際に神を見失い、御心を疑う程の厳しい苦難・困難にもかかわらず、また容易にそうした不信仰に陥っていく私たちであるにもかかわらず、聖霊は、神と私たちを深く執り成してくださいます。そして、この聖霊の執り成しの内に、今自分が経験している苦難や困難も神のご計画の内にあるのだと信じて生きていく、そうした信仰のあり方を、パウロは今日の箇所を通じて強く宣べ伝えているのです。
 
○山口信愛教会に迎えられるにあたり
 私は、神学校を卒業の後、この早稲田教会で3年間、伝道師・副牧師としての奉仕を許され、その後に、故郷は山口県の山口信愛教会という小さな教会に13年仕えました。山口の教会への赴任は、今から25年も前、1993年の春のこと、私もまだ32歳、悦子は20代半ばでありました。
 いわゆる「お見合い」のため、1993年1月に悦子と共に初めて山口信愛教会を訪ねました。礼拝には20数名の方々が集まっておいででしたが、ほとんどが高齢の兄弟姉妹で、それまでは主に青年たちと関わるというのが伝道師・副牧師としての私の役割でしたので、ここでやっていけるのだろうかと随分と心配になりました。
 そんな私に、礼拝後の役員面談の時、次のように言ってくださった70代の男性役員がありました。「今から10年前、前任の牧師を若くして迎えた時、私は退職して間もないこともあり、まだ元気でしたので、若手牧師の目や足や手になって、彼を助けながら一緒に奉仕しよう、そう祈りながらこの10年を過ごしてきました。今回、再び若い牧師を迎えるにあたり、想いや祈りは何ら変わらないのですが、私も70代となり、若手牧師の目や足や手になって助けたいと思っていても、実際には足手まといにしかならないかも知れません。それでも、自分の賜物や力を教会のために活かして、新たに迎える牧師と一緒に歩みたいと願っています」。
 この方の語りに大いに励まされて、私たち夫婦は赴任を決断できたのでした。この男性役員はMKさんという方で、背がすらっと高く、実にオシャレな方で、伺ったところ、元外国航路の船員で通信士をされていたとのことでした。
 
○MKさんの証
 私が赴任して何年かして、信徒奨励の際、MKさんが今日の聖書箇所から証をなさいました。
 戦争中の話でした。軍事物資の運搬を強制され、MKさんもフィリピンやマレーシアへ向かう軍用船に通信士として乗らざるを得なかったとのこと。実に熱心なキリスト者家庭に育ち、幼少期からずっと教会に通ってこられたMKさんですが、戦時中は自らがクリスチャンだとは公にはできず、内諸にせざるを得なかったとのこと。それでも信仰の証として、胸ポケットに小型の聖書を忍ばせて、人目につかないところで、時々開いて読んで、祈りを捧げておられたというのです。
 ある航海にて、連合軍の潜水艦からの魚雷攻撃を受け、乗っていた船は沈没し、彼ら船員は皆、海上に散り散りに投げ出されてしまったというのです。
 海上に浮かぶ船の残骸、一つの板切れに必死につかまり、孤独の中、南洋上に一昼夜漂われたとのこと。どう考えても死を覚悟せざるを得ない状況、それでも胸ポケットにあった聖書を必死に握りしめ、海水でふやけてもう開くことも出来ないその聖書を頼りにしてながら、「神さま、どうか助けてください」、何度も何度も海の上で祈ったというのです。
 夜を迎え、腹も減り、喉も渇き、体力の限界を迎えます。意識も朦朧としてきてもう祈りも組み立てられない状態となり、真っ暗な洋上でついには気を失ってしまったMKさん。
 翌日、気を失ったまま海上を漂っている彼を、友軍の船舶が偶然にも発見し、収容してくれたことによって、奇跡的に一命を取り留めたというのです。
 この体験を振り返りつつ、今日のみ言葉を深く思わされている、そのようにお話になりました。
 26節にこうありました。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。続く27節の後半にも「“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とあります。
 命の危機に瀕し、また疲れ果て、まさに「どう祈るべきかを知」らない状態に立ち至っていたけれども、そんな自分を「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって(神に)執り成してくださ」った、それで助かることができたと感謝している、そのようにして与えられた命をどう用いるべきか、仕事を通じても、引退後の生活にあっても、神のために用いようとの想いで歩んできたとの証でした。
 お見合いの時に語られた、「若手牧師の目や足や手になって助けたいと思っていても、実際には足手まといにしかならないかも知れません。それでも、自分の賜物を教会のために活かして、新たに迎える牧師と一緒にと願っています」との言葉。それがどんな祈りや願いから生み出されたものか、証を伺って分かったように思いました。聖霊の執り成しによって助けられた自らの命をどう用いるべきなのか、このことを祈り続け、熱心に、誠実に奉仕してこられたMKさんの信仰が込められている、そんな語りであったことを思わされたのです。
 MKさんは、80代となられて、病に倒れ、施設や病院で過ごされるようになられるまで、常に教会の中心にあり、前向きな奉仕を続けられたのでした。
 
○聖霊の助けはどんな時にも
 パウロは、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」との語りを通じて、聖霊が私たちと「共に」あり、私たちに「代わって」「重荷を引き受け」てくださる恵みを宣べ伝えました。また「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と、聖霊による「執り成し」のあり方を示しました。ここには、その「人のために」、苦難や試練の「只中で」、私たちと「出会」い、寄り添ってくださるという、聖霊の恵みが証されています。
 私たちも、さまざまな苦難や困難に出遭ったり、また癒されぬ病を抱え込んでしまったりを、その人生において経験します。実に厳しい事態に直面して、ただただ嘆きと呻きの中に埋没し、どう祈って良いのか分かりあぐね、神から遠ざかり、神に躓く、そんな不信仰に陥ってしまうことがあります。
 どんな時にも共にいてくださる聖霊の助け、また私たちの呻きをも執り成してくださる聖霊の恵みがあることを、今日の聖書箇所からしっかりと学び取りたいと願います。そんな聖霊の働きに支えられ・導かれて、どのような時であっても私たちは神の計画の内に憶えられていること「万事が益となるように共に働く」ように、神が取り計らってくださることを信じることができればと願います。