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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年5月20日

「背中を押されて」 使徒言行録 2:1〜13
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉使徒言行録 2:1〜13

1:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3:そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4:すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5:さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6:この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7:人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8:どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9:わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10:フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11:ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。12:人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13:しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 

 
○ペンテコステ(五旬節)とは
 本日、私たちはこの年度のペンテコステ礼拝を迎えました。
 ペンテコステは、五旬節と呼ばれ、元来は農耕の祭りで、小麦の収穫祭でした。後に、モーセへ十戒(律法)が授与されたと、ユダヤ教的な意味づけがなされます。巡礼の祝祭で、ユダヤ人たちはエルサレム神殿を巡礼するため祖国に戻ってきて、神からの賜物として小麦の収穫と律法授与を感謝する礼拝を捧げていたのです。
 このような祝祭であった五旬節は、新約聖書の時代に新たな意味を与えられます。この日に、主イエスの弟子たちに聖霊が降り、聖霊の力を受けた彼らは使徒へと変えられ、福音を宣べ伝え、各地に教会が誕生していったからです。福音の宣教開始と教会誕生の記念日として、ペンテコステは今も大切にされています。
 
○聖霊により新しい歩みへ
 「使徒言行録」の1章8節(新約213ページ)には、こう証言されています。
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。
 主イエスの十字架、これはローマの極刑でしたが、十字架に主イエスが処刑されたことから、自分たちも罰せられると恐れて、エルサレムに隠れ暮らしていた弟子たち。彼らの下に現れた復活の主イエスが語られたのが、このみ言葉でした。
 ひっそりと隠れて、生き延びていた弟子たちには、エルサレムはおろか、ユダヤとサマリアの全土まで出ていくことなど、予想すらできませんでした。彼らは、ただ主イエスの教えと思い出とを仲間内でこっそりと温め合め、周囲に自分たちの存在を知られないように生きていたのです。
  *  *  *  *  *  *  *  *
 しばらくして迎えた五旬節。エルサレムがお祭り騒ぎになったその時、彼らは実に不思議な体験をしたというのです。今日の箇所にこう証言されています。
 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。
 聖霊が降臨し、その力に満たされることで、使徒へと変えられた弟子たち。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語られた通り、彼らは隠れ暮らし、恐れから固く閉ざしていた家の扉を開いて、外の世界へと果敢に歩みを進めていきました。
 聖霊に与ることで背中を押され、それまで思ってもみなかったまったく新しい歩みへと踏み出していく、聖霊の力を受け、聖霊に導かれる者たちの姿をここに見ることができます。
 
○「呼び出されていく」大切さ
 宗教の「宗」という字の成り立ちについて、面白い解説を聞いたことがあります。
 「宗」という字は、「ウ」かんむりに「示す」という字の組み合わせで成り立っています。「示す」とは、祭壇にいけにえを献げ、それを清めるために注いだ水や酒が滴り落ちている様子を表しています。このように「示す」という漢字は本来、宗教的な儀式を表し、時として神そのものを表すこともあります。そして、「宗」の「うかんむり」は、家や家の屋根を表しています。
 このように漢字「宗」は、家の中で神に生け贄を献げている様を表しています。
 この漢字の起源は、家や宗教施設等の中で礼拝している、悪く言えば、建物の中に閉じこもって神と関わっている様子を表していることになります。
 とかく私たちは、宗教という字が示す、家や宗教施設に閉じこもって礼拝している、そんな様に留まっています。礼拝の姿勢だけではなく、私たち自身の信仰のあり方も、どこか閉じこもりがちで、心の平安だけを求めてたり、自分たちの交わりにこだわったりの状態で、安穏としていないでしょうか。
 そのような私たちもまた「聖霊」によって押し出され、遣わされる場に呼び出されていく、そこにペンテコステの真実の意味が、課題があります。
 
○既存の枠を踏み越えて
 「使徒言行録」2章4節には次のように証言されています。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。
 ユダヤ教では、神を語ることは唯一ヘブライ語のみで許されていました。現在でも世界各地のシナゴーグ(会堂)では、ヘブライ語で礼拝が献げられています。
 シナゴーグはウィークデイは学校の役割も果たし、ヘブライ語学習の場とされました。ヘブライ語のみ、それ以外の言語では神を語らないのがユダヤ教の伝統です。また異国でも純血主義を貫き、宗教的伝統を守り、民族を維持してきたのです。こうした歴史を通じ、強烈な選民意識が育ちました。同胞を大切にし、異国の人々と自分たちを峻別し、自分たち(ユダヤ人たち)の共同体だけを大切にする、彼らの礼拝や交わりにはそんな負の側面、特徴があります。
 ところが、聖霊降臨によって「使徒」に変えられた者たちは、「ほかの国々の言葉」、様々な言葉を用いて主イエスの福音を証するようになっていきました。ここに既存の枠を大きく踏み越えていった、彼らのあり方の変革を見ることができます。
 代々のキリスト者は、ペンテコステを経験しての「使徒」たちの変容から、自分が抱え込んでいる様々な枠やこだわりを踏み越えて、多くの人に伝わる言葉や関わりへと開かれていく、あり方へ強い示しと促しとを受け取ってきました。
 
○多様な聖霊の働き
 「聖霊」の働きについて、ある神父さんがこどもたちに向けてこう語っていらっしゃいます。
 “聖霊は目に見えないので、どういうお方なのかわかりにくいかも知れません。
 聖霊は、いろいろな他のものにたとえられます。たとえば風。風は目には見えません。でも木の枝がゆれていたり、波がさざめくのをみると、「ああ、風が吹いているんだな」とわかります。それと同じように、人びとが神さまを賛美したり、立派な行いや、愛にもとづいたよいわざを行っている時、そこにたしかに聖霊が働いておられるといえます。ちょうど吹く風が木を動かすように、聖霊が人びとによい行いをするように働きかけ、はげましておられるのです。
 聖霊は火のようです。火は、寒さの中にあってわたしたちを暖めます。また暗闇の中で周りを明るくします。また、熱のエネルギーにもなります。つまり、わたしたちが、暗い気持ちで元気がないとき、聖霊の助けを祈るならば、力づけられ、また新しい勇気がわいてきます。
 聖霊は、鳩のようです。鳩は、平和のシンボルです。争いや憎しみのあるところに、聖霊が働くとき、お互いがゆるし合い、わかり合うことができるようになります。
 …このように考えると、聖霊はわたしたちが神さまの子として元気に生きるためのあらゆる助けをくださる方であることがわかります”。
 目にはみえないけれど、私たちに多くの力と助けとを与え、私たちの賛美、行い、愛の業、そして勇気・励まし、許し、理解、その全てがこの「聖霊」の導きにあることを、感謝して受けとめたいと思います。また、自分自身で気づいていなくても、この「聖霊」の恵みを私たちは今も沢山受けています。このことに少しずつ気づきながら、「聖霊」を送って下さる主イエス、そして神への感謝の想いを確かにしていきたいと願います。
 
○“ふしぎな風が びゅうっとふけば”
 今紹介した神父さんによる「聖霊」についての話を写し出したような讃美歌が、「こどもさんびか94」の「ふしぎなかぜが」という賛美歌です。説教後に共に賛美しますが、1番にこう歌われています。
 “ふしぎな風が びゅうっとふけば なんだがゆうきがわいてくる
 イェスさまの おまもりが きっとあるよ
 それが聖霊のはたらきです 主イェスのめぐみは あの風とともに”
 この歌詞に触れる時、前任の山口信愛教会で受洗されたひとりの婦人のことを思い起こします。50代のお連れ合いをガンで亡くされ、彼が経営していた会社の運営を急遽任されることになった彼女は、お連れ合いの病の悪化の最中に教会に通うようになられ、彼を看取った翌年のイースターに受洗されたのでした。
 受洗の際の信仰告白で、ご自分の信仰がどのように導かれてきたのかを証されましたが、受洗するかどうか、かなり長く悩んだ、そんなことも語られました。
 どうしよう、そんな悩みを抱えて散歩の途中、さあっと風が吹いてきて、その風に背中を押されたとのこと。その時に、新しくキリスト者と生きていくようにと、神から押しだされたように思った、聖霊の後押しを感じた、そう語られました。
 聖霊の力を受けて、キリスト者とされ、連れ合いから託された会社経営にも恐れることなく立ち向かっていきたい、そう信仰告白なさったのでした。
 こどもさんびか94の3番にこうあります。
 “ふしぎな風が びゅうっとふいて 心の中までつよめられ 
 神さまのこどもに きっとなれる 
 それが新しい毎日です わたしの命も あの風とともに”
 
○聖霊の風に押されて
 私たちに勇気を与え、強めてくださる聖霊の風、それは今も豊かに吹いて、私たち一人ひとりの背中を押してくれる、そう信じたいと思います。
 私たちも迷い、逡巡し、一歩を踏み出せないことがあります。自分の内に閉じこもるようにして、新しく扉を開くのを恐れていることがあります。
 そんな時に、聖霊の風が豊かに吹いて、あの神父さんが語っておられたように、私たちの賛美、行い、愛の業、勇気、励まし、許し、理解が導かれていく、そんな不思議な恵みに出会っていきたいと願います。