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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年6月3日

「ボッーと愛してんじゃ…」 ローマの信徒への手紙 8:31〜39
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉ローマの信徒への手紙 8:31〜39

31:では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。32:わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。33:だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。34:だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。35:だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。36:「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。37:しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。38:わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39:高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

 
○ロマ書の第一部の「第二の部屋」
 今日は「ローマの信徒への手紙」8章の最後の部分を読んでいただきました。今日ご一緒に学ぶ箇所も、この手紙の中でよく知られているみ言葉です。代々のキリスト者たちに広く読まれ、多くの人々に励ましと力とを与えてきました。
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 「ローマの信徒への手紙」は大きくは二部構成になっています。
 第一部は「教理編」で、1章から11章まで。この「教理編」に、パウロはキリスト教の真理を詳しく説き起こしています。
 第二部は「信仰の実践・生活編」で、12章から16章まで。教理を実践としてどのように展開するのか、キリスト者はその生活の中で信仰をどう具体化していくのか、この課題を展開するために、第二部には数々の勧めが記されています。
 手紙の第一部「教理編」は、さらに三つの部分に分けて捉えられてきました。ある牧師は、ローマ書の第一部の三つの部分を、三つの「部屋」と表現しています。
 「第一の部屋」は、1章18節から3章20節まで。ここでは、民族や出自に拘わらず、全ての人が神の御前に罪人であることが語られています。
 「第二の部屋」は、3章21節から8章39節までです。この「第二の部屋」でパウロは、民族やその生きている時代を問わず、世界の全ての人がどのように罪から救われていくのかを語っています。全ての人が罪から救われる、そこにキリストがどう関わっているか、この教えがキリスト教の真理です。これをパウロは「キリストの福音」と呼んで、この手紙の中心主題としています。この「キリストの福音」=救いの道筋が明らかにされるのが、「第二の部屋」です。
 そして最後に「第三の部屋」、9章から11章までです。この「第三の部屋」では、神の選びの真実が明らかにされます。神に選ばれたイスラエルの民族、その救済の歴史を通じて、神の恩寵という恵みと同時に厳しい審きが語られていきます。
 ということで、今日ご一緒に学びますのは、第一部「教理編」の「第二の部屋」の最後。この手紙の中心主題を扱っている部分の最後には、主イエス・キリストを通じて示された溢れるばかりの神の愛と、このキリストを信じて生きる者たちに、どんな場合にも与えられる勝利が、力強く高らかに賛美されています。
 
○「輝かしい勝利」へ向かって
 節を追って、簡単に内容を確認していきたいと願います。
 31節の後半には、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とあります。「神がわたしたちの味方」とは、神が私たちの身代わりとなってくださり、大いなる代償を支払われたのだという言い方です。
 「神がわたしたちの味方」という語りの内容は、32節に展開されています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」と、神がどのように私たちの味方となられたのか、その行いが証されています。御子イエス・キリストをこの世に遣わし、また十字架の上で死なせた、このことにより私たち全ての人間の罪が許され、義が確立され、神との正しい関係に導かれる恵みに与っている、これが「神がわたしたちの味方」という言い方の真実だというのです。
 このように御子をさえ惜しまずに与えてくださる方は、「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはず」はありませんと、パウロは語りを重ねています。
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 33〜36節には、神がイエス・キリストを通じて、どう働いておいでなのかが語られていきます。
 33節の「神に選ばれた者たち」とは、神の選びの内に罪赦されて、義とされた者たちですが、この者たちを訴える、告発するとは、神ご自身に反逆することで、誰もこうしたことをなし得ないというのです。
 34節には、主イエス・キリストの十字架と復活と昇天は、人間の罪の贖いであり、また人間と神との執り成しを意味していることが語られています。
 35節にある、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣は、パウロはじめ当時のキリスト者たちがその信仰や召命の故にしばしば経験した苦境・逆境ですが、これらをもってしても、しっかりと掴んでくださっている神、そしてキリストの愛と恵みから、私たちを引き離すことはできないのだというのです。
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 36節に置かれている聖書の引用は、「詩編」44編23節からです。「あなたのために」とは、キリストの愛のためにの意味で捉えられ、キリストに愛され、選ばれている者として、キリストの苦難の姿にあやかるがごとく、この世界でさまざまな苦難を経験せざるを得ないことが、旧約聖書の引用をもって証されています。そして実際、パウロはキリスト者として、キリストを宣べ伝えるが故に「一日中死にさらされ、屠られる羊のように」見られ、扱われてきたのでした。
 37節では、キリスト者たちはどんな状況に置かれるとしても、信仰においては希望に満ちていることが、力強く宣言されています。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」。「輝かしい勝利」とは、これ以上はない大勝利を意味します。
 
○神の愛とイエス・キリスト
 38〜39節は、直前の37節の宣言をさらに展開し、パウロ自身が抱くに至った信仰の確信、これの真に強い告白となっています。
 そこには、こう語られています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
 この箇所に宣べ伝えられている神の愛、その真実は「ヨハネによる福音書」3章16節以下にも高らかに響いています。今日の招詞とした箇所にこうありました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。
 「ヨハネによる福音書」の中心的メッセージであり、ある人は「この一言を書き記すために、福音書全体は書かれた」と語り、「福音中の福音というべきなのがこの箇所、キリスト教を一言で表現した言葉だ」と解説する人もあります。
 神は、自らと何ら変わりのない大切な独り子イエス・キリストを、この世界とそこに生きる人々へ与えてくださいました。この出来事は、神の愛の確かな証であり、この世とこの世界に生きる全ての者たちを、どんなに罪深い存在であっても誰も漏れることなく救うためであったというのです。このような大いなる愛を与え、示してくださったのが、聖書の宣べ伝える神の真実だというのです。
 神に与えられた御子イエス・キリストの生涯と福音、彼の苦難、十字架、死、復活によって、「信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」とあります。「永遠の命」とは、不滅の命、死後の天国での命ではなく、この世界で、その人らしく活き活きと、あらゆる縛りから解放され、実に自由に明るく前向きに生きている、そうしたあり方を示しています。これが聖書の語る「永遠の命」です。
 このような「永遠の命」へと、私たち一人ひとりを招き入れるために、神は御子イエスはこの世に降らせ、私たちと常に共にあろうとなさいました。
 
○忘れられないひとりの牧者の姿
 過ぐる5月28日は、松井愛実牧師の召天1年の記念日でした。5月19日にご自宅にてご家族と記念礼拝を捧げました。松井愛美先生は生前、自らの葬儀には「ヨハネによる福音書」3章16〜17節をと繰り返し希望されていらっしゃいましたので、ご葬儀に続いて今回の記念礼拝でもこの聖書箇所を拝読いたしました。
 松井愛美牧師は、長い年月に亘る牧会・伝道の生活を通じて、このみ言葉こそがキリスト教の中心的な使信であると、深く受けとめられていらしたのでしょう。それが故に葬儀でこの聖句をと願われたのだと思います。
 私は、松井愛美先生はその在り方を通じて、確かに「永遠の命」に歩んでおられたことを強く思わされています。どんな状態、病状にあっても、あれ程に活き活きと、喜んで、そして熱く教会に仕え、苦しみ・痛む人をこそ執り成し、自らの力の全てを注いで、最期まで前向きな信仰に歩み通されました。
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 松井愛美先生に最後にお会いできたのは、昨年(2017年)の5月6日でした。病状に安定を与えられ、ブース記念病院の中で療養型病棟へと移られたとお聞きし、お見舞いしたのですが、それが最後となってしまいました。
 窓からはずっと遠くまでが臨める、6階の明るい病室。週報をお渡しすると、すぐに虫眼鏡を取り出され、実に長い時間をかけて、隅から隅までをじっくりと読まれました。“週報を見ると、現在の教会の様子を知ることができるので、とてもうれしいのです”、教会の現在を推し量りながら、先生は週報を熟読されました。
 入院によって、もう長く礼拝出席ができなくなっていらっしゃいましたが、早稲田教会を憶えて、日曜日の午前11時に始まる主日礼拝が神に祝されるよう、常に予告された聖書箇所を読み、深く祈りを合わせていてくださいました。
 “ベッドの上からではありますが、日曜日の朝、会堂前の階段を昇り、礼拝堂へと入ってくるお一人おひとりの顔を具体的に思い浮かべて、早稲田教会のみんなの上に、礼拝の上に、神の祝福と恵みがあるように、毎週、礼拝時間に合わせて必ず憶えて祈っています”。実に真っ直ぐな眼差し、そしてあの力強い口調で、次第に弱られ、身体を起こすことさえ辛くなっている中にも、最期までそうお話してくださいました。
 こうした松井愛実牧師を生涯に亘って支え続けたのが、今日の招詞とした「ヨハネによる福音書」3章16節以下のみ言葉でした。
 松井先生がどんな状態にあっても前向きでいらしたそのあり方から、また「ローマの信徒への手紙」8章38節以下のみ言葉の響きをも感じ取りたいと願います。パウロは語っています、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と。
 
○「神はボーッと私たちを愛しているのではない」
 今日の準備のために、数多くの注解書、説教集にも触れましたが、ある方はこう強く語っていらっしゃいました。“神はボーッと私たちを愛しているのではない”。
 “神はボーッと私たちを愛しているのではない”、こう読みまして、私の心の中で、毎週欠かさずに観ているNHKの番組『チコちゃんに叱られる』のチコちゃんのあの声で、”ボーッと愛してんじゃね〜よ!”と響いてきました。『チコちゃんに叱られる』に関してはもう語っている時間がありませんので、NHK総合で金曜の夜7時57分から、もしくは土曜の朝8時15分から観ていただきたいと思います。
 チコちゃんに叱られるまでもなく、神はぼんやりと私たちを愛しておられるのではないこと、それぞれの心に感謝をもって刻みたいと願います。神は、御子イエスをこの世に与え、その御子を十字架にかけて死なせることをも厭わずに、私たちを救い、贖い、「永遠の命」へと導こうと深く愛しておられるのです。
 この神の確かな愛を受けることで、多くの苦難・困難に出遭うとしても、それを超えて進むことが許されます。どんなものも、どのような痛み・苦しみも「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」、こうした信仰の力に満たされて進みゆきたいと願います。