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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年6月17日

「ホペイロのお蔭」 マルコによる福音書 10:35〜45
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉マルコによる福音書 10:35〜45

35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。

41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 
○この兄弟の願いと私たちの罪
 今日は「マルコによる福音書」の10章35節以下を読んでいただきました。ここに記録されているヤコブとヨハネという兄弟の願いは、私たちの心に深く巣くっている罪を露わにしています。
 二人の弟子は、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と、主イエスに申し出たとのこと。37節以下をもう一度読みます。
 37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。
 主イエスが栄光を受ける時、あわよくば自分たちもその栄光に浴したい、強い権力や人を支配する力をこの身に帯びたい、このような願いは私たちの心にも沸き上がってくる誘惑の思いです。こうした想いに突き動かされ、いつの間にか身近な関わりの中で、あるいは教会の交わりの中で、強い立場に立とうとしてしまっている、知らず知らず周囲を抑圧しているということがないでしょうか。
 主イエスが、ご自身のあり方を通じて明示してくださった福音の方向を、この箇所の語りから学び取って、それぞれの心にしっかりととどめ、私たちのあり方を見つめ直したいと願います。42節以下をご覧ください。
 42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。
 
○早稲田奉仕園の園章
 今日の「マルコによる福音書」10章42節から45節は、私たちの教会の出発点である早稲田奉仕園、この団体の園章と呼ばれている聖書箇所です。
 奉仕園という名称が用いられたのは、友愛学舎、及び奉仕園の創設者であるベニンホフ宣教師によってのことです。ベニンホフ宣教師がアメリカに書き送った手紙の中にこの言葉が登場します。1918年、今から100年前に記された手紙です。
 “奉仕とはサーヴィス、園とは庭または公園を表す”と紹介し、友愛学舎のみならず、もっと広い宣教の働きを奉仕園との名称で示し、同時に兄弟寮としての信愛学舎も紹介されています。それぞれの名前が何から導かれているのかを、ベニンホフ宣教師はその手紙に記しておいでですが、奉仕園という名称はマルコ福音書の10章42〜45節からだと示されています。
 今日の聖書箇所を基盤として奉仕園の活動は展開され、その中に早稲田教会も育てられてきました。友を愛し、信仰・希望・愛を大切にしつつ人に仕える、そのような祈りと願いの下に、この教会も歩みが出発し、今日へと至っているのです。
 
○仕える者として遣わされ・生きた主イエス
 主イエスは弟子たちに、「仕える者」となるように求めていらっしゃいます。45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあるように、主ご自身が仕える者としてこの世に遣わされ・生きた、そのあり方に連なり、同じような生き方へと進んでほしい、そうした願いが込められた語りです。
 イエス・キリストの真実について、今日の招詞から確認したいと願います(新約363頁)。招詞は「キリスト賛歌」の一部。「キリスト賛歌」とは、初代教会で繰り返し歌われた賛美歌でした。賛美を通じて、初代教会の人々はイエス・キリストの生き方を心に刻み、それに倣おうとしたのでした。6節以下を読みます。
 6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
 6〜7節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とありました。神と全く同じ存在であられたキリストが、人間になられたとの告白ですが、間に置かれている「かえって自分を無にして、僕の身分になり」に注目して読まなければならない箇所です。
 「かえって自分を無にして、僕の身分になり」とは、自分を全くの無にして、奴隷そのものになったということです。続く「人間と同じ者になられました」という「人間」は単数ではなく複数で、正確に訳せば「人間たちと同じ者になられました」となります。つまり、全く自分を無として一介の奴隷となったキリストは、一人ひとりの人間に、つまりは全ての人に仕える者となられたのだ、と告白されています。
 イエス・キリストの生涯に触れ、その十字架を経験した初代教会の人々は、主イエスの復活と昇天の後、聖霊の導きの下に教会を形成し、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきます。こうした中で、主イエスの生き方、またその生き方を写し出した教えとして人々の心に刻まれたのは、「仕える」あり方でした。
 「マルコによる福音書」を通じても確認しましたように、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主ご自身がその宣教の目的をはっきりと宣べ伝え、自分のあり方に倣うようにと、弟子たちに求めていらっしゃいます。そうした主イエスは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と励まし・勧めていらっしゃいます。
 
○仕える者としてのホペイロ
 6月14日よりロシアでサッカーのワールドカップが始まりました。日本も出場しますが、調子は今一つです。ハリルホジッチ監督は成績不振と選手とのコミュニケーションが問われて解任。急遽、西野朗さんに監督を変更しての本番。大会前の試合にも負けが続けていましたが、最後のパラグアイ戦で何とか勝利。
 コロンビア、セネガル、ホーランドとのグループH。一勝できれば御の字と、私は予想していますが、初戦、19日のコロンビア戦はどうなるでしょうか。
 メディア予想では、ブラジルやドイツが優勝候補に挙げられ、それにポルトガル、ポーランド、スイス、フランス、スペインというヨーロッパ勢、南米ではアルゼンチンが続きます。今大会もこうした強豪国を軸に展開されることでしょう。
 さて、各方面で優勝候補筆頭に挙げられているブラジル。ブラジルの強さの秘密について、ホペイロの存在があってこそだと語る人があります。ホペイロとはポルトガル語で用具係を。用具係・ホペイロは、チームにずっと同行して、各選手のシューズやユニホーム、ボールを整え、グランドの整備を行い、選手達が快適に練習を行い、試合に臨めるように、裏方として奉仕する、そんな存在です。ブラジルの各チームにはホペイロがおり、しかもチーム内でしっかりとした位置づけを持っている、こうしたところにブラジルの強さがあると言われるのです。
 ブラジルの一流選手たちは、試合で活躍した際、仲間やサポーターと喜びを分かち合うことに先だって、ホペイロとこそ思いを分かち合うということ。試合でゴールを決めるなど活躍した選手は、まずホペイロのところに走っていき、「ありがとう」と心からお礼を述べ、彼らとまず喜びを分かち合うのだと聞きました。
 こうしたことがきちんとできるかのか、ブラジルでは選手が一流であるのか、そうでないのかがこうした点から判断されるとのこと。いかにサッカーが上手くても、それだけではダメで、目立たないところで奉仕・協力してくれている裏方を認め、そうした人を重んじて心から感謝する、このような文化・精神がブラジルのサッカーには根付いており、そしてこのあり方が広く評価されています。
 どんな団体や組織、そしてこの教会にも、皆に見えない隠れたところで、毎週の礼拝や活動のために極めて地道に、それでいて熱心に奉仕してくださっているホペイロのような存在が幾人もあることを思います。組織・団体・教会のホペイロたちの存在や働きに、私たちは気がついているでしょうか。さらに、きちんと認め、感謝できているでしょうか。注意深く団体・組織・教会の全体を見つめたいものです。そして、ホペイロのような存在や働きに感謝の思いを伝えると共に、その働きや奉仕を私たち一人ひとりも分かち合い、担い合う、そこに主イエスに喜ばれる「仕える」者たちの関わりが形成され、育っていくのではないでしょうか。
 私たちは、どうしても目立つ者に注意を向け、周囲の注目を集める働きに憧れます。しかし、どんな組織・団体・教会も、目立つ人々、煌びやかな人々でのみ成り立っているのではありません。目立たない、場合によっては泥や埃にまみれながら、本当に地道に、見えないところで奉仕を続けていてくださる方々によってこそ支えられています。ホペイロのような働きや奉仕に支えられて、私たちの関わりの一つひとつが滞りなく進られている、このことを改めて思わされます。
 
○見つめるべきはただ一つ
 パウロは、教会に集う人々の奉仕や役割について、「ローマの信徒への手紙」12章3節以下に次のように宣べ伝えています(新約聖書291ページ)。
 3:わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4:というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5:わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。6:わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7:奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、8:勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
 それぞれの賜物や特性には多様性や違いがありますが、神の御前に何らの優劣もありません。この世的の関わりには、何らかの資格や経験などが問題にされたりもあるかも知れません。主にあるキリスト教会において、私たちが集中すべき、見つめるべきはただ一つ、主イエスに倣って仕えて生きようとする信仰、その生き方へと向かう祈りです。お互いが与えられている賜物をそれぞれの働きや奉仕を通じて存分に輝かせ、共に主を賛美、礼拝し、主の救いと福音とを宣べ伝える業に励んでいく、自分を誇ったり、自己を顕示したり、自分をこそ立てていくのではなく、主にある共同体を建ていくことを共通の使命として、このあり方・方向に向かって、互いに仕えることにこそ集中していきたいと願います。