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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年8月5日(平和聖日礼拝)

弓を架け橋に変え」 創世記 9:8〜17
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉創世記 9:8〜17

8:神はノアと彼の息子たちに言われた。9:「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10:あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11:わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。
12:更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13:すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14:わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15:わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16:雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」。
17:神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである」。  

 
○平和聖日に関して
 8月の第一主日は、日本基督教団の行事暦で「平和聖日」と定められています。
 教団は1962年に毎年8月の第1聖日を「平和聖日」と定めました。以降、この日に神の御旨としての平和を聖書から学び、平和の実現を求めて真剣な祈りを捧げ続けてきました。
 「平和聖日」が制定されるに至ったのは、西中国教区からの訴えを受けとめてのことであったと聞いています。広島への原爆投下によって被爆した牧師・信徒たちが、1961年の8月6日に、広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」を守るようにと、教団に要請しました。被爆キリスト者たちの訴えは、広く教団諸教会に届き、翌1962年、教団は8月の第1聖日を「平和聖日」と定めたのです。
 その後、教団は1967年3月に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(通称:戦責告白)を、当時の教団議長・鈴木正久の名前で公にすることになります。この戦責告白を踏まえ、「平和聖日」に、かつて教団が戦争に協力した罪の告白を含めて、主の福音に照らしていま私たちはどう生きるべきかを問いつつ、礼拝を捧げてきました。
 こうした教団の歴史とそこに大きく働いた被爆キリスト者たちの祈り・願いを私たちもしっかりと受けとめ、8月の第一主日にあたり、「平和聖日」の礼拝を捧げ、平和実現への祈りと決意とを新たにしたいと願います。
 
○「ノアの箱船の物語」と契約の虹
 「創世記」の6章から10章までに描かれているのが「ノアの箱船の物語」です。物語の終盤に、重要な言葉として証言されていますのが、ノアとの間に結ばれた神の契約です。今日はこの契約の言葉の部分を読んでいただきました。
 6章5〜6節に洪水を起こすに至った神の御心が記されています(旧約8ページ)。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。
 神は、人間たちが形成しつつある世界を一度リセットするために、大洪水を起こすことを決断なさったというのです。そして、その時代にあって神に従う無垢な存在であったノアに命じて、大きな箱船を建造させ、その中に世界の生き物をひとつがいずつ入れ、破滅状況の中にも生き延びさせたのでした。
 40日40夜の大雨で大洪水が起こり、世界に満ちた大量の水は150日間も引かなかったため、地上の生き物たちは皆滅んでしまいました。箱船に乗っていた人間をはじめ、ひとつがいずつの生き物だけが助かりました。
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 今日の箇所、9節以下にまず神はこう語られています。
 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。
 この契約の下、二度と洪水という破滅状況を起こさないと語られています。
 今日、共に注目したいと思いますのは、12節以下の神の語りです。
 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」。
 契約の確かなしるしとして、神は雲の中に虹を置かれると言うのです。この虹が現れる時、「地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と約束されています。ノアの執り成しの働きにより、破滅と絶滅を逃れた人間と世界に生きるもの全てとの間に置かれた祝福の契約です。
 
○天の武器ではなく、架け橋
 虹は、英語でrainbowと言います。rainは雨、そしてbowとは弓です。直訳すれば雨の弓、空に架かる弓を意味しています。ヘブライ語でも、虹は同じように弓を意味する言葉が使われています。ヘブライ語では、弓から導かれる虹とは、裁きの矢である雷を発する、巨大・強力な神の武器をイメージしているようです。
 このように元来は武器であったものを契約のしるしとしたこと、そこには空に虹が実際に架かっている姿が大きく影響しているであろうと言われます。雨から天気が急激に回復し、空中にまだ雨粒が残っている中に日が差すと虹が架かります。大きな半円を描き、地から湧き上がるにようにして空に美しい弧を描きます。
 これは見方によっては、架け橋のように感じられます。言葉の成り立ちからして武器とのイメージを虹は持っていますが、虹を弓と見るのではなく、その架かった様を静かに見つ、広い大地いっぱいに神が大きな架け橋をかけてくださった、これが虹のもう一つのイメージではないか、そのように語る人があります。
 神は武器である弓を手放し、地に置いて、それを新たに架け橋として用いてくださる、神と人との間に再度橋が架けられる、それが洪水を経て改めて結ばれた神の契約の意味なのだ言われるのです。
 
○“キリスト教は…架け橋として仕える”
 礼拝の招詞として、「テモテへの手紙一」の2章から、パウロの語ったテモテとエフェソ教会への勧めを短く読んでいただきました(新約385ページ)。
 1節から2節にこう語られています。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。
 この手紙の宛先であるテモテ、彼が留まっていたエフェソ教会は、当時、キリスト教徒たちは王たちや高官からの激しい迫害に苦しんでいました。自分たちを取り囲む過酷な状況の中に宣教活動を進めていくのに必要なこととして、パウロはキリスト者を迫害する者をも含めて、全ての人々を憶えて「願いと祈りと執り成しと感謝」を捧げることを勧めたのです。自分たちのいのちを脅かす者たちをも憶える、そんな言わば無謀なことをパウロは求め、勧めています。
 このパウロの勧めの重みを受けとめながら、使徒教父・エウセビオスの言葉を想起している人がありました。3世紀から4世紀に活躍したカイサリアの司教で、使徒教父の一人であったのがエウセビオスです。この人は『教会史』を著し、皇帝コンスタンティヌスの信頼を得て、ニカイア公会議を主導したことでも知られていますが、このエウセビオスは次のような印象的な言葉を残しました。
 “キリスト教は分裂した世界において、紛れもない架け橋として仕える”。
 イエス・キリストの福音に立って世界の現実を注意深く見つめる時、私たちキリスト者は、あるいは教会・キリスト教は、どのような祈り・奉仕を担うべきなのか、エウセビオスは“分裂した世界において…架け橋として仕える”と語り、平和と和解とを執りなしていく使命を示したのでした。
 招詞とした箇所の少し後、2章5節以下に、次のようにパウロは語っています。
 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」。
 ここには、神と人の間に立ち、両者を執りなすために命まで捨て、人々の罪を贖ってくださった主イエス・キリストの十字架の真実が宣べ伝えられています。
 エウセビオスの“キリスト教は分裂した世界において、紛れもない架け橋として仕える”との語りの背後に、神と人との仲介者としてその身を捧げられた主イエスの生き方・福音への応答の姿勢を読み取ることができます。
 
○“分断と悲しみの世界のただ中で…”
 1970年にサイモン&ガーファンクルが歌った「明日に架ける橋」という曲。原曲はポール・サイモンの知り合いの牧師が作ったゴスペルソングで、当初はHymn(賛美歌)という題名で発表される予定だったと聞きます。原題は“Bridge Over Troubled Water”ですから、荒海・困難に架ける橋なのですが、日本発売に当たっては素敵に意訳し、「明日に架ける橋」という題名で広く知られています。
 2001年9月11日に起こったアメリカでの同時多発テロ。この事件にて命を失った3千人を超す方々の追悼礼拝がニューヨークの教会にて行われました。
 この礼拝にて、ある方が、命を失った数多くの人々、愛する者を失い、深い悲しみの中に置かれている人々を憶え、事件の背後にある実に厳しい分断の状況を見つめながら祈りを捧げました。
 “私たちは分断と悲しみの世界のただ中で、荒海に架ける橋になろう”。
 これは、「明日に架ける橋」という歌の一節を引用しての祈りでした。荒れ狂っている海、絶望の淵にしか見えない世界の現実を前にして、諦めるのでもなく、テロを起こした陣営をひたすら敵視するのでもなく、“私がこの身を横たえ…架け橋となろう”と、和解への決断を込めた執り成しを、記念の礼拝にて祈った人があったとのこと。多くの人々が、“私たちは分断と悲しみの世界のただ中で、荒海に架ける橋になろう”、大惨事の悲しみの只中で、この使命をこそ再確認したのだと伝えられています。
 こうした執り成しと和解への祈りや取り組みこそが、今日を共に学んだノアとの間に結ばれた神の契約に誠実に生きることに繋がるのではないでしょうか。
 神は武器である弓を手放し、地に置いて、それを新たに架け橋として、神と人との間に橋が架けることを約束されました。こうしたメッセージを「創世記」の「天地創造物語」から読み取る私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いと執り成しの恵みを受けて、神と人との関係が主によって整えられたことに感謝し、なお存在するこの世界の分断や分裂に注意深く歩みたいと願います。
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 現在の世界、日本に幾つもの分断があり、その溝は埋めがたく深くなっています。国どうし、宗教どうしのみならず、同じ国の中、同じ信仰を持つ者の間でも、分断や分裂が顕著です。最も身近な日本基督教団に注目しても、一致どころか、少しでもわかり合おうとする歩み寄りや対話が諦められていることを感じます。
 架け橋としての虹は、多様性を受容し、共に生きていこうとのメッセージを発する七色の旗としても用いられています。この間、LGBTの人々の生産性を問う声や彼らの生き方・あり方を「趣味みたいなもの」と断ずるなどの無理解・偏見・差別が露わになっています。
 「テモテへの手紙一」のメッセージに即して、私たちはそうした政治家たちをも憶えて祈りたいと願います。一つひとつの問題・課題へと注意を向け、“分断と悲しみの世界のただ中で、荒海に架ける橋にな”っていく、そうした使命が与えられていることを、心新たに受けとめたい、そう願います。