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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年4月19日

聖霊が注ぐ神の愛」 ローマの信徒への手紙 5:1〜5
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉ローマの信徒への手紙 5:1〜5

(1)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
(2)このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
(3)そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
(4)忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
(5)希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

 外出自粛に伴い、部屋で過ごす時間が多くなった学生から、何かお勧めの映画はないか聞かれました。私が映画好きなことはすでにここで何度か申し上げましたが、特に私はホラーやアクションが好きで、物語の結末もハッピーエンドよりかはバッドエンドや心に靄がかかるようなスッキリしない後味の悪いものが好きです。『ダンサーインザダーク』『ミスト』『セブン』『ボーイズドントクライ』など。今申し上げました4つの作品の物語をご存知の方はお分かりいただけるかと思います。2018年に公開されました邦画の、『僕はイエス様が嫌い』も私の好みに入る物語と思います。
 名作映画は多くあり、個人の好みによって名作映画の作品は変わりますが、一つだけ自分の好みではなく、客観的に見てこれは名作だ!と思えた作品があります。映画を好きな方や当時予告の映像をご覧になった方はご存知かもしれません。
 
 『ショーシャンクの空に』という映画を皆様はご存知でしょうか。
 この映画は、1994年に公開された映画です。90年代と少し昔の作品ではありますが、現在でも多くの人に親しまれ人々の心を動かす作品であります。
 この映画の物語に少し触れたいと思います。
 主人公アンディーは優秀な銀行員でありました。アンディーの妻はプロゴルファーと不倫関係にあり、ある日妻と妻の不倫相手、二人の遺体が見つかりその殺害容疑をアンディはかけられ逮捕されてしまいました。無実を主張するアンディーでしたが、聞き入れてもらえずに裁判で終身刑を言い渡されます。アンディーが収監された刑務所が題名にもある「ショーシャンク」刑務所でありました。この刑務所は規模が大きく、その刑務所の所長ノートンは絶対的な支配者として権力を振りかざしていました。そのような人間が管理する刑務所はアンディーにとって過酷な環境でありました。刑務官による服役囚への暴行、囚人同士の争いなど、刑務所での生活は暴力が当たり前の毎日でした。これまで真面目に生きてきたであろうアンディーは、ショーシャンク刑務所に収監される前は、若手でありながら大銀行の副頭取を務めるほどのエリートでした。そこから冤罪事件によって刑務所へと収監されたアンディーを見ると、人生のどん底と言える展開です。
 
 私はアンディーのように人生のどん底というような体験をしたことがありません。もしかしたら展開に多少違いはあっても皆様の中には人生のどん底を経験した方がいらっしゃるかもしれません。人生のどん底とまで行かずとも、人生を歩む中で苦難に直面したことがおありかと思います。
 私たちは人生の中で様々な経験をします。できることならそれは全て楽しいことであるようにと願いますが、苦難を避けることはできません。避けることが無理だと理解しつつも、弱く脆いだけでなく、ずる賢い私は楽に生きることを望んでしまいます。そんな私にとって、苦難をも誇りとするパウロが理解できません。できれば避けたいもの、可能ならば直面したくないもの、それが苦難です。それを誇りとするというパウロの言葉に動揺してしまいます。
 「希望を持つこと」、パウロの言葉に言い換えますと「希望を誇る」ことは理解できます。反対に、「苦難を誇る」という言葉はうまく言葉を受け取ることができません。
 口語訳聖書では本日の箇所の「誇る」という言葉を「喜ぶ」と訳しています。
ローマの信徒への手紙5章2節から3節「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけでなく、患難をも喜んでいる」とあります。
 私たちは苦難に直面した時、「苦難を忍ぶ」、耐えて我慢することはあります。辛くても、コリントの信徒への手紙第一10章13節の「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」という言葉を信じて苦難に耐えます。その時、私たちは苦難の先に一体何を見ているでしょうか。
 パウロがどうして「苦難を誇る」と言ったのか考えた時、「苦難を誇る」パウロと、苦難に耐える自分の違いに気づかされました。3節から4節でパウロが説くように、「苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」パウロは知っているからです。私たちが体験する苦難は、最後には希望へと繋がることを知っているからこそ、「苦難をも誇る」「苦難をも喜ぶ」とパウロは断言しました。
 
 冒頭でお話ししました『ショーシャンクの空に』の主人公、アンディーは過酷な生活を刑務所で過ごしました。囚人から暴行を受け、刑務官に殺されそうになり、刑務所の所長が行う不正に協力してしまうこともありました。アンディーにとって好機が訪れたと喜ぶ場面もあれば、また心が痛くなるほどの苦難に直面し、自分だったら耐えられないだろうとも思いました。実際、この物語の登場人物の一人、レッドはアンディーに「希望は危険だ」と警告するシーンがあります。長い懲役生活を送っていたレッドも、かつては希望をもっていましたが、刑務所での生活が長くなるにつれ、自分の精神が壊れないように、自己防衛として、いつしか希望を持たなくなりました。
 それでもアンディーは自分の夢である出所後について語ります。この夢がアンディーにとっての希望でした。アンディーはどんな苦難にあっても希望を捨てなかったのは、苦難の先にある希望を見据えていたのではないかと考えます。アンディーのとった行動全てに賛同はしていません。その行動の中には正しいとは言えない行動もあったからです。しかし、最後まで希望を捨てずに歩んだ姿に視点を置いて考えるとそこから学ぶことがあります。人間は苦難に直面した時、レッドのようにネガティヴになると考えます。アンディーのように希望をもって積極的な行動をとることは難しいのではないでしょうか。そう言った考えからこの映画が持つメッセージは、どのような苦難にあっても、希望を忘れないでということだと感じました。
 
 苦難に支配されると、その先にある希望を見失ってしまうときがあります。苦難の先にあるはずの希望を遠くに感じ、一体この苦難はいつ終わるのか、いつまで耐えなければいけないのかと不安を憶えます。映画の主人公であるアンディーや聖書のパウロのように、苦難の先にある希望を信じ、苦難に立ち向かったり、喜び誇りをもって歩んだりというのは簡単にはできません。
 私たちが体験する苦難の先に希望があるという確証を強く欲します。それがなくては、不安に潰されそうになるからです。そうした私たちの不安に応えてくれるかのようにパウロは次のように語ります。
 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 」
 私たちはイエス様の十字架によって罪が贖われ、イエス様を通して神様から恵みをあずかることができるようになりました。神様がイエス様を通して私たちと新しい約束を交わしてくださったからです。その約束に信頼を置いているパウロは「希望はわたしたちを欺くことがありません」と言い切ります。私たちが持つ希望は神様との約束からきます。神様の約束が欺かれることは決してありません。つまり、神様との約束から来る希望も私たちを欺くことがないのです。なぜなら、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
 5節に関してある牧師はこう語りました。「パウロは、『わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです』と語る。そのことによって、パウロが最後まで存続すると語っている『信仰、希望、愛』が、苦難の中でも明らかにされる。苦難の中にあっても、信仰のあるところに希望が芽生え、希望が存続する。その信仰を引き起こしてくれるのが、聖霊が心の中に注いでくれる神の愛だからである」。
 
 私たちは、様々な場面で神様の愛を感じます。しかし苦難に遭うと、不安に支配され、自分自身が壊れないよう守るために苦難の先にある希望に思いを向けられないときがあります。そのような暗闇の中にも、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント13:13)とパウロが指摘しているように、私たちが喜びの中にいる時も、悲しみの中にいる時も、どんな時でも神様は私たちの心に愛を注いでくださいます。私たちが経験する苦難の中には耐え難い苦難もあります。そのような時、神様は逃れる道を備え、イエス様は私達を背負ってくださいます。
 映画『ショーシャンクの空に』で、希望を否定していたレッドにアンディーはこう語ります。「レッド、希望はすばらしい。何にも替え難い。希望は永遠の命だ」。
 私たちが苦難に耐え忍び誇るときも、希望は最後まで私達を欺くことなく苦難の先に備えられています。
 5節をもう一度お読みします。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
 「信仰、希望、愛」この三つの中でもっとも大いなる愛、神様の愛は私たちが苦難の中に居るときも、喜びの中に居るときも、どんなときも聖霊をもって私たちの心に注いでくださいます。
 心に注がれる愛を糧に、私たちが今できることは、イエス様を通して神様に祈りを捧げることです。私自身は苦難の中に居るとき、神様の御心のままに歩むことができますようにと祈ります。苦難から助けてほしい、取り去ってほしいと祈るのではなく、希望は私を欺くことがないと信じて、御心のままにと祈るのです。皆様にもそれぞれの祈りがあると思います。苦難の中にあっても、私たちが神様に祈るとき、その信仰から希望が芽生えるのです。