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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年6月14日

「欲しいものと必要なもの」 マタイによる福音書7:7〜11
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉マタイによる福音書7:7〜11

(7)「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
(8)だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
(9)あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
(10)魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
(11)このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 

 
 本日は花の日合同礼拝です。本来でしたら、子どもの入堂から始まり、子どもも大人も共に集って礼拝を捧げるのが通例でありましたが、今年は新型コロナウイルスの影響を鑑みて教会へ集い、礼拝を捧げることは叶いませんでした。
 しかし、YouTubeやLINEのライブ配信を通して、聖書や週報を通して、お顔は見えませんが多くの方が祈りを共に合わせていらっしゃいます。特に本日は子どもたちも各ご家庭で礼拝を捧げていることと思います。
 1日でも早く、お顔を合わせて共に礼拝を捧げ、子どもと大人が交わりを深めることを願います。
さて、今日は、ライブ配信にCSに集う子どもたちもこの礼拝を憶えて参加してくれていると思います。私の願いは子どもも大人も1日でも早く教会で再会することです。ではみんなの願いはなんでしょうか。学校が早く始まりますように。友達と会えますように。遊園地や水族館、公園など外へ遊びに行けますように。いろんな願いがみんなにあると思います。叶えてほしい願いがあるとき、みんなはどうしますか。いろんな方法があると思います。欲しいものがあると、誰かや何かにお願いするのも一つの方法ですね。
 
 今日はみなさんに一つ、お話を紹介したいと思います。ある、旅人と相棒の話です。
 宇宙を旅する旅人がいました。旅人は人助けをすることが大好きです。明るく前向きな性格で、好奇心旺盛でどんなことにも楽しく挑戦しています。旅人は魔法の帽子を持っています。帽子はいろんな道具を帽子から出すことができる魔法の帽子です。旅人には、信頼する相棒もいます。相棒は強くて正義のために戦うことが好きですが、友達想いでいつも旅人が困っていると助けようとする優しいところもあります。
 さて、旅人と相棒はある惑星にたどり着きました。そこには巨大ミミズが住んでいて、旅人と相棒を餌だと思い襲ってきました。さあ、大変。旅人と相棒は必死に巨大ミミズから逃げます。その途中、旅人と相棒は離れ離れになってしまいました。巨大ミミズのいる惑星は危険です。早いところ、この惑星から脱出しなくてはいけません。でも、旅人を置いて自分だけ逃げることはできない相棒は、危険と分かりながらも旅人を探します。すると、旅人が持っていた魔法の帽子を見つけます。「帽子さん、旅人がいなくなってしまった。一緒に探してくれ」と相棒は頼みます。おかしな話ですが、相棒は旅人の帽子が好きではありません。なぜなら、帽子はいつも旅人には良いものを出すくせに、相棒の時になると相棒の欲しいものをくれないからです。意地悪な帽子だと思い、好きになれません。けれども今はそんなことを言っている場合ではありません。なんとか協力して旅人を見つけなくてはいけません。「帽子さん、お願い。旅人を見つけるために、そして巨大ミミズから食べられないように逃げるための何か道具を出して」と相棒は帽子にお願いして帽子の中を探ります。ところが、どうでしょう。出てくる道具は自分の願うものとは反対の物ばかり。巨大ミミズから逃げるために足が速くなるロケットを願うと、反対に遅い乗り物が出てきます。高いところへ逃げるために気球を願うと、巨大ミミズが待っている下に落ちてしまうパラシュートが出てきます。相棒は怒りました。「こんなに欲しいものを願っているのになんでくれないんだ!役立たずな帽子め!お前は旅人を助けたくないのか」と怒鳴ります。けれどもいくら怒っても、帽子を捨てることはできません。その帽子は旅人の大切な帽子だからです。
「怒鳴ってごめんね。あんたが旅人さんを好きなことはわかる。私も大好きさ。だから頼むよ。私は旅人さんを助けたいんだ。力を貸してくれ。私もあんたを信用するから」、そう願って、最後に帽子の中を探り、道具を取りました。「これだね?これで旅人は助かるんだね?わかった、信じるよ」少しの不安を持ちながらも帽子が出した道具を相棒は使います。
 道具を使った相棒は次の瞬間、巨大ミミズに食べられてしまいました。その道具は巨大ミミズを呼び寄せるものだったのです。「このダメ帽子め!やっぱりダメじゃないか!」と悪態をつきながら相棒は食べられてしまいました。口を通り、喉を通り、最後に胃に着くと、あら不思議、そこには旅人がいました。実は、旅人は逃げている途中に巨大ミミズに食べられていたのです。思わぬところで旅人と相棒は再会を果たしました。
 「会えて嬉しいよ、旅人さん。結果的には良かったけど、この帽子、私のことが嫌いみたい。だって、私が欲しいものをくれないんだから」。すると旅人はおかしそうに笑って答えました。「この帽子は欲しいものはくれないよ。いつだって持ち主に必要なものをくれるんだ」。
 これまで、帽子が出していた道具は相棒の欲しいものではありませんでした。しかし、旅人を見つけるために必要なものを出していたのです。旅人と相棒は巨大ミミズのお腹から脱出し、無事に惑星を出ることができました。
 
 このお話はディズニーチャンネルで放送されているアニメ「なんだかんだワンダー」のお話です。このお話を初めて見たとき、本日の聖書箇所を思い起こしました。
 本日の聖書も一見欲しいものはなんでもくれると甘い言葉に聞こえます。しかし、この箇所は求めたからと言って思い通りにならないことを、私たちに伝えようとしているように思えます。私たちは求めているものを得るために神様に祈ります。その祈りは多くありますが、求める姿勢、祈りの姿勢はどれほど強い思いを持っているのでしょうか。案外、自分自身が考えているよりも強いものではないのかもしれません。大量に願望を持ちながらも、その祈りの中には神様を信頼する思いや神様へ向かう意思は持っていないと考えます。その理由として、私たち人間の心の中には神様に対する悪い思い、「疑い」が潜んでいることにあります。私たちがもつ信仰心が不安定なものであると、神様任せの投げやりの態度が起こってきます。私たちは神様が助けてくれるなら喜んでそれを受け入れますが、自分の祈りが届かずとも、投げやりではじめから期待していない、信頼していない態度から「やっぱり無理だったんだ」と思います。はじめから「どうせ無理だ」と思いながら願う祈りは、果たして心から求めているのでしょうか。祈りを何の役にも立たないと考えてはいないでしょうか。
 もちろん、祈るだけで神様に丸投げしていては全て叶うわけではありません。勉強をしなければ祈りだけで受験が受かるわけでも、テストで良い点が取れるわけでもありません。働かなければ祈りだけでお金が貰えるわけではありません。自分の願いのために、自分で努力して行動に移さなくてはなりません。神様、これがほしいです。こうなってほしいです。後はよろしく。こんな祈りでは、もちろん叶うわけありません。
 かと言って、神様に願いを丸投げせず強く神様を信頼しながら祈っても、叶わない時があります。それは、自分の信仰の弱さや不安定さが理由ではありません。心から願ったその思いは神様に届いています。神様に届いていながらも叶わない願いもあります。私たち人間が願い祈れば全て叶うようでは、まるで私たち人間が神様のようではありませんか?
 心から求めるからこそ確かなものを求めて、自分の願い通りに操作しようとしますが、神様のご計画を私たち人間が操作できるものではありません。聞き届けられない祈りの中に、「こんなに求めているのに、どうして」と苦痛な思いが出てくると思います。
 
 先ほどお話に出てきました相棒もそうです。これほど強く旅人との再会を願っているのに、どうして自分の思い描いた通りにいかないんだと怒っていました。
 このように相棒や今を生きる自分にとっては欲しいものを与えてもらえず、思い通りにならないもどかしさ、苛立ちがあるかもしれません。けれども、しばらく時が経って振り返った時、一歩離れて自分を見つめ直した時、あれは自分にとって「必要なこと」「必要なものだったな」と思うときはありませんか?
 マタイによる福音書7章9節から11節には、「あなたがたのだれがパンを欲しがる自分の子供に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める物に良いものをくださるにちがいない」とあります。これは祈りが聞き届けられることの約束を二つのイメージをもって説明されている箇所です。ここで出てくるパンと魚はユダヤ人の基本の食物でした。
 クッキーが欲しい、「おっとっと」が食べたい!と願った時、与えられるのはパンと魚かもしれません。欲しいものと必要なもの。それは必ずしも一緒のものではありません。欲しいものを与えてもらえなかったことに大きなショックを受けて、忘れてしまいますが、私たちが必要とするものをきちんと見極めて神様は私たちに与えてくださいます。クッキーと「おっとっと」は美味しいかもしれませんが、それだけでは私たちに必要な栄養を満たしたり、健康を保ち続けることは難しいです。反対に、パンと魚は昔ユダヤ人の間では一般的で十分な食事のメニューでした。
 もしかしたら相棒のように自分が願った通りにならないこと、自分が欲しかったものがもらえない時があるかもしれません。そんな時、どうしてもショックを隠すことができず、神様の意地悪!と思ってしまうかもしれません。それでも神様は私たちに必要なものを見極めて、良いものを贈ってくださいます。私たちは神様から離れることがあっても、忍耐強く待ってくださり、石と蛇ではなく、クッキーと「おっとっと」でもなく、本当に必要不可欠なものであるパンと魚を与えてくださるのです。そのことを憶えて神様に感謝して、与えていただける恵みに与りながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。