HOME | 説教 | 説教テキスト20200628

説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年6月28日

「主の教えを愛する人」 詩編1:1〜6
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉詩編 1:1〜6

(1)いかに幸いなことか
  神に逆らう者の計らいに従って歩まず
  罪ある者の道にとどまらず
  傲慢な者と共に座らず
(2)主の教えを愛し
  その教えを昼も夜も口ずさむ人。
(3)その人は流れのほとりに植えられた木。
  ときが巡り来れば実を結び
  葉もしおれることがない。
  その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
(4)神に逆らう者はそうではない。
  彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
(5)神に逆らう者は裁きに堪えず 
  罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
(6)神に従う人の道を主は知っていてくださる。
  神に逆らう者の道は滅びに至る。

 

 
 旧約聖書にある詩編は、王国時代から紀元前100年ごろまでに作られた詩歌を集めたものと考えられています。
 詩編という表題は、ギリシア語で「プサルモイ」と言われています。この言葉の意味は弦楽器を奏でることです。ある神学者は弦楽器を奏でる光景を想像し、厳粛かつ華やかで賑わいがあるようだと語りました。確かに、弦楽器の演奏を想像すると静かな雰囲気の中に張り詰めたような厳かな面もあれば、一変して上品さを保ちながら華やかで賑やかな明るい面もあります。ヘブライ語聖書で詩編という表題は、「賛美」を意味する「テヒリーム」という語が使われています。「テヒリーム」という語を聞いて賛美と思い起こす人は少ないのではないでしょうか。どちらかと言うと、「ハレルヤ」の方が皆様にとって聞き馴染みのあるものではないでしょうか。
 ご存知の方もいらっしゃるかと思われますが、ハレルヤに関して少し説明を申し上げますと、「ハレルヤ」は「賛美せよ」と言う意味の「ハレル」と主ヤハウェの「ヤー」が合わさったものであり、直訳すると「神を賛美せよ」となります。この「ハレルヤ」と先ほど申し上げました「テヒリーム」は同じ「賛美」を意味する言葉です。「賛美」と言われると神様への感謝の歌、偉大な御業と御名を讃える歌、神様に対しての絶対的信頼を置いている歌などが連想されます。有名な箇所をあげますと、詩編23編の「主は羊飼い」と始まるこの詩は神様への信頼を置いた歌です。詩編95編の「主に向かって喜び歌おう」と始まるこの詩は、神様への感謝と神様の御名を讃えている歌です。「賛美」と聞くと華やかで賑やかな光景が目に浮かんできます。
 しかし、ギリシア語の「プサルモイ」と言う語を今一度思い起こしましょう。弦楽器を奏でると言う意味があり、そこには華やかさだけでなく、気持ちが引き締まる重々しい雰囲気も伝わってきますように、詩編には「嘆きの歌」が多く記されています。一説によると、賛美の歌よりも嘆きの歌の方が多く記されているのではないかと言われています。私はこの説を聞いた時、詳細の真偽は置いておき安心しました。なぜなら、「神様を賛美する歌」よりも、人間のもつ苦しみ、悩みが込められている「嘆きの歌」が多いと言うところに、人間の「ありのままの姿」が見られるように思うからです。また同時に、その「ありのままの姿」を神様の御前に差し出していることに気づいた時、神様の御前では取り繕う必要も綺麗に着飾る必要もない「そのままの自分」でいいのだと安心できるのではないでしょうか。
 
 私の個人的な印象ではありますが、この世、特に日本社会は弱さに対して恥を持っているように思います。自分の弱さを見せることはまるで生き恥をさらすような行為と思っている人が一定数いらっしゃるように感じます。カウンセリングを受けることに関しても同様です。カウンセラーの知り合いから聞いた話によると、学校にはカウンセリングルームと称する部屋が設けられていますが、企業は健康診断の際に「健康相談所」という名称で場所を設けてカウンセリングをしているそうです。なぜ、直接的に表現しないのかと言うと、カウンセリングを受けると言うことにネガティブな印象を持ち、勤め先であることも加わって行きづらくなってしまうため、何とも無難な形で「健康相談所」という場所を設けるのです。そうすれば、そこに行っても身体の健康に関して話したのか、心の健康に関して話したのか他人からはわからないからです。
 そして、これも私の個人的意見ではありますが、そういった弱さを抱えながらもそれを表に出せない人は、家族や仲間など自分が守らなくてはいけないと思う人を多く抱えていらっしゃる方、周りの人から頼りにされて仕事や役割を多く担っていらっしゃる方ではないでしょうか。そうした人ほど自分の抱える弱さを表に出せない、出しづらいように思います。自分の弱い部分と普段見せる部分の違いや意外性を受け入れてくれるかどうか、不安に思う人もいらっしゃることでしょう。弱い自分を出すことによって、「失望されないか」「拒絶されないか」「理解してもらえないんじゃないか」と不安に思うのではないでしょうか。
 自分の弱さを他者にさらけ出すと言うのはなかなか勇気がいります。だからこそ、ありのままの自分を素直に表す先人の詩歌に、弱い人間は自分だけではないと安心し、時代背景が自分の状況と異なっていても、自分の苦しみや悩みに重なる思いを持つのでしょう。
「詩編は単純に昔起きた出来事ではなく、心の奥に隠していた『私の叫び』に重なる」と、ある神学者は語ります。まさにその通りではないでしょうか。詩編に記される嘆きの歌の中には神に従う者が損をして、神に逆らう者が得をするような事態に対して、主なる神(ヤハウェ)に人間が訴えかけています。こういったところが、善人が泣きを見て悪人が笑う不条理なこの世と重なるように思います。嘆きの詩編が自分と重なり胸に響くのは、悪人が得をする不条理な世界を前提に、社会から弱くされている正しい人が、神様の救いと悪人が滅びることを願った祈りだからではないでしょうか。
 
 さて、本日の詩編1編に移ります。お気付きの方がいらっしゃるかと思いますが、詩編1編はわかりやすく「勧善懲悪」を表しています。主の教えを愛する者は繁栄をもたらし、神に逆らう者は滅びに至るのです。これまでお話ししてきました「嘆きの歌」とは印象が変わります。先ほど申し上げました「嘆きの歌」は、悪人が得をして善人が損をする不条理に、救いと悪人の滅びを願ったものでありましたが、それとは反対に詩編1編では、悪人は滅び、善人は繁栄するという特色を有しています。
 詩編1編は「いかに幸いなことか」と劇の1コマのように芝居がかった始まりとなっています。読み進めると、何が幸いなことかが記されています。「神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず」。
 ここでは三つの言葉に注目したいと思います。「歩まず」「とどまらず」「座らず」この三つです。詩編1編の著者は神様に逆らう者を三つの姿に表現しました。ある神学者は、「歩む」を「出たり入ったりする」姿勢、「とどまる」を「立脚する」姿勢とわかりやすく言い換えました。つまり、神様に逆らう人間の歩みは、神様に近づくときもあれば離れるときもあり、離れているときは同じ神様に逆らう者の中に居て、そこを出たり入ったりします。そうして、あっちへ行ったりこっちへ行ったりとしているうちに、いつしか神様に逆らう者の中に自分の居場所を決めて、そこに居着いてしまいます。最終的には神様に逆らう者の中に自分の席を持って座る、つまり完全に神様から離れ、迷っていた姿から、自分も神様に逆らう者の一員となってしまった姿です。詩編1編の詩人はそうなってはいけないと警鐘を鳴らしています。
 そして2節では幸せになるための歩み方が勧められています。「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」。これが幸いな人の歩みです。
 当時のユダヤ人は、聖書を読むことは幼い頃から当たり前にしてきていました。神様の御言葉を聞いて、その教えを文字通り昼も夜も口ずさんでいるのが、敬虔なユダヤの人々にとっての日常生活でした。こうした生活を送っていくならば、聖書の御言葉が体に染み渡り、神様との交わりをどんな時でも実感して歩むことができ、「歩まず」「とどまらず」「座らず」の三つの姿勢も取らないように気をつけることができるのではないでしょうか。
 反対に私たちの生活はどうでしょう。神様の教えを昼も夜も口ずさむのは、実に難しいことです。神様の教えを口ずさむよりも、この世で起きることに気を取られてしまうことが多くあります。私たちがこの世で得られる幸せと、詩編1編が言う幸せは大きく異なっています。「歩まず」「とどまらず」「座らず」の三つの姿勢を保てないとき、私たちはいつしかこの世で得る幸せが、本当の幸せと錯覚するようになってしまいます。
 「幸い」と言う言葉は、新約聖書のマタイによる福音書5:3〜10にも見られます。山上の説教の一部であるこの5章3節からの言葉は弟子たちに向けられた言葉ですが、同時に今を生きる私たちにも向けられています。ここで語られている「幸いな人」は、イエス様の教えに従うことによって、貧しさや悲しさをもった人々は幸いと宣べ伝えています。そうとは言え、私にはそうしたことが全く幸いには思えません。この世を生きる上で、富みは大事なものです。お金持ちにはなれなくても、貧しいと思うほどお金に困るような生活は送りたくないと考えています。悲しみもできることなら感じたくありません。いつも喜びの中で歩んでいきたいと願っています。しかし、こうした願いは人間から見た幸せなのであり、イエス様が語り継ぐ幸せとは真逆なものです。つまり、私たちが持つ常識や価値観とは、神様の御心とは真逆のものであり、そうした私たちの常識や価値観は神様の御前ではなんの意味も持たないのではないでしょうか。
 
 では、私たちの本当の「幸い」とは、そして真の喜びに歩むとはどういうことでしょうか。それは、この世の価値観や常識に捕らわれて生きることでしょうか。いえそうではなく、本当の「幸い」とは神様の愛を受け、イエス様の教えに従って歩むことです。こうした道とは具体的に申し上げますと、イエス様が私たち人間の罪のために十字架に架けられ復活されたことを知り、イエス様の復活の恵みにあずかって生きることです。これが聖書の伝えようとしていること、「幸いな人の歩み」なのです。そしてこうした歩みの中にこそ、永遠の命があると言っています。この永遠の命は、たとえ肉体が滅んだとしても、永遠に滅ぶことはないのです。人間の目には滅んだように見えても、イエス様がわたしたちを愛してくださり、わたしたちもイエス様を通して神様の愛の中にいることで永遠に生かされるのです。世俗の価値観に捕らわれて主イエスに逆らう者の道に歩むのではなく、主の教えを愛し、大いなる喜びの内に、神様の御言葉を糧に新しい一週間もその日々を歩んでいきたいと願うものであります。