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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年7月5日

「上を向いて」 詩編121:1〜8
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉詩編121:1〜8

(1)【都に上る歌】
 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
(2)わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
(3)どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。
(4)見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。
(5)主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
(6)昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。
(7)主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。
(8)あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。

  

  
今日は「詩編」121編を読んでいただきました。この「詩編」は、讃美歌301番としても広く知られている有名な一編です。
 
 「詩編」には「都に上る歌」と題されたものがあります。120編から134編までの15の詩歌ですが、121編もその一つです。これら「都に上る歌」というのは、エルサレムの神殿へ詣でる巡礼の旅に際して歌われたと考えられています。
 こうした「都に上る歌」ですが、巡礼が定められている祝祭時にエルサレム神殿を詣でるために歌われただけではなかったとも言われます。バビロン捕囚の後、エルサレムへの帰還し、再び巡礼が可能となった際に、捕囚を経験した詩人たちによって万感の想いで歌われたのがこれらの詩歌だとも考えられています。こうした背景に照らして「詩編」121編を味わうと、言葉の重みがさらに心に迫ってくるように感じられます。
 
 ごく簡単にバビロン捕囚について触れます。バビロン捕囚は、イスラエル史上、最も大きな苦難・危機でした。約60年間の出来事ですが、バビロン捕囚により国や民族、宗教や文化もその全てが消滅する、イスラエルはそんな大きな危機に瀕することになりました。旧約聖書のみならず、新約聖書においても、このバビロン捕囚への言及、影響というものを見て取ることができます。
 第一次バビロン捕囚は紀元前597年のこと。10年後の紀元前587年、新バビロニア帝国に再び攻め込まれ、南ユダ王国は滅亡。壮麗なソロモンの神殿を誇っていたエルサレムは完全に破壊されました。新バビロニア帝国のネブカドネツァル王により南ユダ王国を滅亡させられ、同時に多くの住民たちがバビロンに強制的に移住させられました。拉致・連行されたのは、南ユダ王国の指導者たちや祭司・職人たちで、その数は3000人にも上ったとのこと。彼らは故郷から約800キロも離れたバビロンへと連行され、異教の地で軟禁の生活を余儀なくされることになります。
 先に申し上げた通り、このバビロン捕囚はイスラエルにとって最大の苦難であり、この経験が罪の認識を深め、信仰を刷新し、礼拝形式にも多大な影響を及ぼしたのです。「詩編」という文書は、バビロン捕囚時、異教の地にあって信仰を保持し、祭儀に頼らずに信仰の継承と育成のために編集が始められたと言われています。
 バビロン捕囚の終結は紀元前538年のこと。ペルシア王キュロスによって新バビロニア帝国は滅ぼされ、このキュロス王の寛容政策によりイスラエルの人々は解放されました。こうして捕囚の民たちは順次祖国に復帰していくのです。第一次の捕囚から何と60年の年月が経ており、世代も交代した後のことでした。

 「詩編」121編の1節にこのように歌われています。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」。これは詩人の切実な祈りであり、神からの確実な応えを希求する実にまっすぐな問いかけでもあります。
 エルサレム巡礼の際、人々はごつごつとした岩山を越えて歩みを進めなければならなかったそうです。越えていかねばならない山々を見上げて、第一には厳しく辛い巡礼の道筋を思い、加えて山の頂のさらに上にある天をも見据えて、この詩人は「わたしの助けはどこから来るのか」と祈りつつ問い、神に応えを心から求めたのでした。
 ある人は、この問いの背後にバビロン捕囚の経験を読み取っています。60年もの長きに亘り、イスラエルの人々は苦難と試練の最中に置かれました。捕囚の民たちは、バビロニアの人々から「お前たちの神は無力だ。死んだか、かき消えてしまった。お前たちは救われない」、そんな言葉を投げつけられ、深い悲しみや悔しさを抱え込んでいました。しかしどれ程に強く祈り求めても一向に解放されないため、神ヤハウェを疑い、信仰を見失う者たちも数多くありました。イスラエルの民たちは、自分たちが捕囚の憂き目に遭っているのは、神ヤハウェがバビロンの神々に敗れさったからだ、こうした神への疑いを根深く抱えざるを得ませんでした。解放された後もこのような疑いは晴れず、信仰が揺らぎ続けていたのではないかというのです。
 そのような疑いや揺らぎを抱いて、詩人は「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」と、神ヤハウェに改めて祈り、問うたのでした。
 続く2節にはこうあります。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」。これは、エルサレムの祭司が詩人の問いに対して信仰の立ち直りのために答えを与えたものとの読みもあります。また自問自答の形で祈りの内に神の応えを与えられ、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」との確信へ詩人は導かれていったのだとの読みもあります。いずれにせよ、1節から2節の間に時間の経過と、同時に信仰の深まりを感じ取りたいと思います。これが「詩編」121編の第一連です。
 
 3節以降の言葉をじっくりと味わうと、さらに深く信仰の確信に満たされていく過程、詩人が神ヤハウェから受けた慰めと励ましをはっきりと認識できるようになっていくさまを聴き取ることができます。簡単に見ておきましょう。
 第二連の3節4節には、神ヤハウェは私たちの歩みを支え、まどろむことなく守り、支えてくださるとあります。第三連の5節6節では、神ヤハウェは私たちを強い日差しから覆う陰であり、昼夜、守ってくださる方だと告白されています。そして第四連の7節8節、ここでは神ヤハウェはあらゆる災いから守るため、私たちの一挙手一投足を憶えていてくださると歌われています。
 このように見ますと、第一連の1節にあった嘆きを含んだ祈りが、ある時間的経過をもって2節に至り、以降、第二、第三、第四連を通じて、神ヤハウェへの高らかな賛美へと転調する、「詩編」121編はそのような信仰の歌であると理解できます。

 「詩編」121編の1節は実に印象的な嘆きをも含んだ祈りの言葉です。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」。祈りつつ、山々を、その先にある天をも見上げる、そんな詩人の心情を共に推し量りたいと願います。
 古くからユダヤ教徒・キリスト教徒は、天を仰いで、目を見開いて声も高らかに祈ったとのこと。このような毅然とした姿勢をもってでしか祈りは神には届かない、そのように言われていました。この詩人もそうした祈りの姿勢をここで示しています。
 私たちはどうでしょうか。私たちは深く想いを込めて祈る時、強く指を組み合わせ、あるいは手をしっかりと合わせて低く俯いて祈ります。それが私たちの祈りのあり方です。嘆きや悲しみを抱えていれば、なおさら低く低く俯くのではないでしょうか。痛みや苦しみを抱えていながらも上を向く、そのようなことはどう考えても難しい、そんな感覚を有しているのは事実です。私たちの低く俯くという祈りの姿勢は、私たちの心や信仰のあり様を如実に示していると思います。
 
 新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、3月半ば以降、実に暗い毎日を過ごしている私たちです。不安を払拭できない、決して晴れることのない心を抱えて、そんな日々ですが、今から一月程前、少しの勇気と励ましを与えられたニュースに接することができました。
 6月1日(月)の午後8時に、日本各地で花火が打ち上げられました。東京でも隅田川や多摩川で花火が上がったとのこと。これは全国の若手花火師による「全国一斉 悪疫退散祈願 Cheer up!花火プロジェクト」というもので、日本全国の163もの花火業者が賛同・協力し、苦しむ人々を少しでも励ましたいと行われたものでした。
 打ち上げ花火の起源は、今から約300年前、江戸時代の享保年間、疫病退散の祈り・願いを込めてのことであったそうです。現在まで継続している隅田川花火大会がそのルーツだそうですが、当時、大飢饉とコレラの大流行とによって数多くの者たちが次々に死んだとのこと。数多くの死者を偲び、そして何より悪疫退散を強く願って江戸の町に花火を打ち上げた、このような形で打ち上げ花火は出発したのだそうです。
 今回、若手の花火師さんたちがネット会議にて話し合い、各地の花火大会が軒並み中止となっている現状を踏まえて、それぞれの工場の倉庫に眠っている花火を用いて、何より打ち上げ花火の原点を憶え、一斉打ち上げて悪疫退散を祈り、暗い世相、俯いている人々を少しでも励まそうではないか、こうした願いの下に今回のプロジェクトは進められたのでした。
 テレビのニュース番組で、発起人のひとり小幡知明さんがインタビューに答えていらっしゃいました。群馬県高崎市の菊屋小幡花火店の5代目店主の方ですが、次のように語られました。「多くの皆さんに少しでも上を向いてもらいたいという気持ちでした。そして自分を奮い立たせる意味でも、『上を向いて歩こう』という歌のリズムに乗せて、花火を夜空に打ち上げよう、そんな想いでやりました」。実際、高崎市で打ち上げられた花火は、小幡知明さんがその心に響かせている『上を向いて歩こう』という歌のリズムでもって打ち上げられたのでした。
 僅か5分という短い時間、しかも打ち上げ場所も明らかにされていなかったので、見逃したという人も多かったようです。それでも偶々この花火を見ることができた人たちは大喜び。ひとりの女性の語りが深く心に残りました。「これまで暗い思いで、下ばかり向いて日々を過ごしてきたけれど、突然の花火にびっくりしながら、空を見上げて、ああ久しぶりに上を向けたなと思いました。励ましをもらって、明日から少しでも上を向いて、前を見て生きていきたいと思っています」。
 どこからの資金援助もなく、全て持ち出しで行われたこのプロジェクト、若手花火師たちの心意気は多くの人たちに伝わったのではないでしょうか。花火を見た人々が顔を上げ、上を向いて、希望や励ましを受け取ることができたなら何よりだと思いつつ、私の心に「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」という聖句が響いてきました。
 
 キリスト教主義の学校として知られる女子学院。戦争末期の空襲で校舎が焼けたため、戦後、東京女子大学の教室を借りて再出発します。1948年に新校舎完成、生徒たちはやっと麹町にある自分たちの学校に通えるようになりました。ところが翌1949年5月10日未明に新校舎は原因不明の火事にて全焼。登校した教員と学生たちは、瓦礫と化し、まだ燻っている新校舎を前に呆然と立ち尽くさざるを得なかったとのこと。
 7年前に召天された教会員・坂田和子さんが、早稲田教会70周年記念の文集『枝』にこの時の様子を「我が扶助」と題して記しておいでです。その一部を読みます。
“翌朝焼け跡に泣き乍ら集った在校生の前に立たれた当時の院長『山本つち先生』は、聖句『我、山に向かいて目をあぐ、我が扶助はいづこよりきたるや。我が扶助は、天地をつくり給えるエホバより来たる」(詩篇121)を読まれ、一同と共に讃美歌288番(54年版301)を唱われました。その時、天を仰ぎ、微動だにせず、神々しいまでのその御姿に、神様への限りない信仰を感じ、私は深い感動を覚えました。その後の人生で受ける試練の度に、この光景と聖句が私を支え、力を与えてくれました”。
 この時の深い感動が、卒業生たちによる讃美歌301番のメロディーのチャイムの贈呈に繋がり、現在も学院の毎朝の礼拝はこのチャイムで始められるとのことです。
 絶望的な現実を前に、この山本つち院長も深い悲しみ・痛みを抱えて、思わず俯いてしまうような想いでいらしたことでしょう。それでも神を信頼し、神を、そして天を見上げて絶望に必死に対峙し、自らを、そして教員や生徒たちを励まそうと、「詩編」121編を読まれ、その讃美歌を賛美されたというのです。
 
 私などは心弱く・不信仰ですから、苦難・試練に出遭うとすぐに下を向いてしまいます。しかし、若手花火師たちの心意気に励まされ、またかつて女子学院の山本つち院長が具体的に証されたように、厳しい状況を前にしても「上を向いて歩こう」と呼びかける、また上を向き神を見上げて祈り、神にある希望を見出す、そのように歩んでいきたいと願います。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」、この嘆きを含んだ祈りに、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」と確信と感謝、賛美の言葉を続け得る、そんな信仰に進みたいと思うものです。