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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年7月19日

「その8割を用いて」 フィリピの信徒への手紙 2:1〜11
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉フィリピの信徒への手紙 2:1〜11

 (1)そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、(2)同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。(3)何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、(4)めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 (5)互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(6)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、(7)かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、(8)へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(9)このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(10)こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、(112)すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。  

  
 今日の箇所の6節以下11節までは、「キリスト賛歌」と呼ばれています。これは初代教会の信仰告白で、繰り返し歌われた賛美歌でもあったようです。初代教会に集うキリスト者たちは、この賛美歌を歌うことを通じて主イエス・キリストの真実を深く心にとどめ、信仰的な生き方への確かな示しを受け取ろうとしたのです。
 6〜7節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあります。神と同格の存在でいらしたキリストが、人間になられたのだと言うのです。「かえって自分を無にして、僕の身分になり」という部分が特に重要です。イエス・キリストは受肉され人間になられた、そこにとどまらず、自分を無にして僕(=奴隷)にまでなってくださった、そのように告白されています。
 「人間と同じ者になられました」の人間は複数型ですから、「人間たちと同じ者になられました」ということです。一介の奴隷となったキリストは、ただひとり誰かに仕えたというのではなく、全ての人々に仕える者になられたのでした。初代教会の人々は、謙って人々に仕え切ったキリストの生き方を心に刻み、いまの自分の生き方を改めて振り返り見たのです。この私はどんな生き方をしているのか、キリスト者として何を祈り、どう生きようとしているのか、自分の真実を見つめながら、キリストに倣った謙りと奉仕を真実な証としようと生き方を整えていったのでした。
 
 実生活を通じて、キリストに倣った謙りと仕える生き方に徹する、これは実に難しいことではないでしょうか。往々にして傲慢な思いへと傾き、自ら進んで奉仕するのではなく、人からの厚意を甘受する、そんな不信仰な姿を示してしまっています。
 フィリピの教会の人々も、そうした不信仰に陥ってしまっていたようです。この箇所で、パウロが「キリスト賛歌」を改めて提示しているのは、フィリピの教会の人々のあり方や信仰の姿勢を福音に照らして正し、整えるためでした。
 フィリピ教会の現実は、主イエスが求めておられる互いに仕え合う姿からは遠い関係となってしまっている、そのようにパウロは伝え聞き、手紙に次のように記したのです。2章1節から4節をお読みします。
 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」
 1節に登場している事柄、「励まし」「愛の慰め」「“霊”による交わり」「慈しみ」「憐れみ」、これらは全て神に由来する特性と恵みです。イエス・キリストへの信仰、また聖霊の力によって、こうした神の特性と恵みは、キリスト者一人ひとりに豊かに注がれる、そうパウロは考えていました。ですから、パウロは、主イエス・キリストへの信仰により、神の「励まし」「愛の慰め」「“霊”による交わり」「慈しみ」「憐れみ」という神の恵みに与り、こうした恵みに満たされることが、キリスト者にとって大切な経験だと考えました。それが、1節の「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」との語りに繋がっています。深く満たされることなく、果たして僅であっても触れ、満たされる重要さを思い、「幾らかでも」という表現を用いています。
 こうした神の恵みに与ることは、キリスト者の生き方に直接的・具体的に反映されるのだというのです。2節から4節の語りには、そうしたパウロの祈りに似た確信が響いています。2節以下を再度お読みします。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」
 キリスト者として、同じ思い、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしていくこと、利己心や虚栄心を捨て、謙遜な思いを抱き、教会の仲間たちを自分より優れた存在と考え、自分のことに集中するのではなく、他の人、教会の仲間たちのことを注視し、配慮していく、こうしたキリスト者の生き方をパウロは2章の1〜5節に示し、その根拠となるキリストの真実を「キリスト賛歌」から導こうと、この賛美歌を6〜11節に示したのでした。
 いまさまざまな欠けを有しているとしても、フィリピ教会に集う人々も皆、主イエスに招かれ、神の恵みに導き入れられている、彼らの大いなる期待をかけてパウロは熱く語っています。それはそのままに、私たちへと向けられている神の期待であり、また信仰に歩み、良き交わりに生きるようにとの神の促しではないでしょうか。
 
 この間、厚生労働省が中心となって、「新しい生活様式」の徹底が求められています。「新しい生活様式」というものに盛り込まれている一つひとつの習慣、これを各自が身につけ、感染予防に努め、これまでとは違う日常を生きるようにと言われています。
 この「新しい生活様式」には、三密の回避、手洗い、咳エチケットや換気に加えて、身体的距離の確保が明記されました。この「ソーシャル・ディスタンス」に関しては以前も説教で取り上げたことがありますが、他者と必ず2メートルの距離を保つ必要があるというものです。しかし、この求めが至るところで強調されるあまり、ただ身体的に離れているだけではなく、互いの思いや心までも遠ざけ、私たちのこれまでの関係が切れてしまうのではないか、そんな心配の声も聞かれます。
 先頃、国の有識者会議のメンバーに選出された山中伸弥さん。独自サイトを開設し、今回の感染症に関して発信してこられました。山中伸弥さんは「ソーシャル・ディスタンス」とは言わず、「思いやりディスタンス」という言葉を用いていらっしゃいます。「思いやりディスタンス」とは、身体は離れているけれど、あなたを思う気持ちは何ら変わっていません、そのように伝える素敵な言い換えではないでしょうか。
 こうした言い換えからも、いま大切にすべきことを思わされます。現在の厳しい状況下にあって、離れた愛する方々に想いを寄せる、一人ひとりを憶えて繋がりを決して絶やさない、そんな関わりの形成にこそ、私たちの力を注がねばなりません。
 
 大阪のカトリック教会に仕える司教に、酒井俊弘さんという方がいらっしゃいます。私と同い年の神父さんです。この方が、ネット中継のミサにおいて概ね次のようなことを語られたと聞きました。
 “感染予防のため、人との接触を8割減らすように求められています。大変な求めですが、予防に必要なのだと受けとめていきたいものです。しかし、この求めに従って、人との関わりを減退させ、また希薄化させてしまうのではなく、私たちは減らした8割分の時間や力を何よりも「寄り添い」のために使っていきたいと願います”。
 続けてこのようにと勧められたとのこと。
 “減らした8割、その内の2割をメールで、2割を手紙で、2割を電話で、そして2割を祈りで、他の人々に寄り添っていきましょう”。
 この勧めを私たちもしっかりと受けとめ、生活に活かしていきたいと願います。
 この間、私たちの教会でもそうした8割を用いて、交わり・関わりを絶やさないでいこうとの動きがさまざまな形で進められ、とてもうれしく思っています。これまでと同様、あるいはこうした時だからと、進んで葉書や手紙を書き、メールを打ち、電話で話す、そうした関わりや交わりがこの教会の会員どうしにおいて進められていることを伺い、素晴らしいなと感じています。そして、私もまた何より祈りを深め、そうした交わりの輪に喜び加わっていかねばならないと思わされているのです。
 
 厳しい苦難や苦境に直面すると、私たちはどうしても自分のことばかり考え、周囲や他者を忘れがちになります。そのような私たちに向けて、パウロは「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(2:4)と、フィリピの教会に対してのみならず、いまを生きる私たちにも語りかけています。
 今回の事態は、私たちの“これまで”を確かに大きく変化させました。近くにあって語り合う、触れ合うことで慰めを受ける、そんな普通の関わりがどれ程かけがえのないものであったか、失ってみて初めて気づきました。以前と同じ生活はもう取り戻せないかもしれません。でも今回の体験を、想いや心の結びつきを深めるあり方へと大きく活かす、そんな新たな“これから”へと歩み出したいと願います。