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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年8月2日

「今、この時を」 コヘレトの言葉 3:1〜11
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉コヘレトの言葉 3:1〜11

(1)何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
(2)生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時
(3)殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時
(4)泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時
(5)石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
(6)求める時、失う時 保つ時、放つ時
(7)裂く時、縫う時 黙する時、語る時
(8)愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。
(9)人が労苦してみたところで何になろう。
(10)わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
(11)神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない  

  
 今日取り上げます「コヘレトの言葉」は、口語訳聖書では「伝道の書」との表題でした。コヘレトとはヘブライ語で、集める人、また集会を司る者という意味の言葉。著者はイスラエルの知者であり、ユダヤ教の会堂に人々を集めて、集会を行っており、説教や伝道の業をも担ったようです。かつて口語訳聖書では、この説教や伝道の業という面から理解して、「伝道の書」という書名としていました。これに対して、新共同訳聖書ではヘブライ語名をそのままに用いて「コヘレトの言葉」との表題としています。
 この書の冒頭に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあるので、ダビデ王の子、知者として知られていたソロモン王によるものと考えられましたが、現在ではソロモン王の権威を借りる形で、イスラエルが経験・蓄積した数々の知恵を集積・編集した書と考えられています。
 文学書の一つで、「ヨブ記」「詩編」「箴言」「雅歌」と同じグループと受けとめられています。成立時代には諸説がありますが、旧約聖書では比較的後期、紀元前3世紀頃ではないかと考えられており、最近ではもっと新しく、紀元前150年頃に成立したのではないかとも言われています。
 
 この書の特徴は、冒頭部分に如実に表されています。1章2節以下にこうあります。
 「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう」。
 あたかも『平家物語』の冒頭のような書き出しで、厭世的な雰囲気が漂っています。
 同じ文学書でも「箴言」は、14章11節に「神に逆らう者の家は断絶する。正しい人の天幕は繁栄する」とあるように、神の前に正しい者は栄え、神に逆らう者(悪人)は滅びるという、言わば勧善懲悪的に描かれています。これに対して「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」は、この世の不条理、つまり理解も受けとめも極めて困難で、納得のいかない苦しみや痛みとどう対峙するのか、これをこそ課題にしています。
 「箴言」の勧善懲悪な部分は、統一王朝時代、つまりはイスラエルがかつてないほどに順風満帆な時代に編まれたものであり、これに対して不条理との格闘、これはバビロン捕囚に始まる、イスラエルの苦難の歴史を踏まえてのこととされています。
 新バビロニア帝国により国は滅ぼされ、多くの者たちが異教の地に拉致・連行され、軟禁の生活を余儀なくされたのがバビロン捕囚でした。紀元前597年から約60年間のことです。完全崩壊の経験で、宗教や文化など、イスラエルがそれまでに築き、自分たちの支えとしてきた全てを失うような危機的な状況に立たされました。
 第一次の捕囚から約60年の後、一旦は解放されますが、民族的な苦難は続きます。独自の国家再建は禁じられ、ペルシア帝国の後、マケドニア王国に、そしてローマ帝国と大国に支配され、その大国の植民地としての歩みを余儀なくされます。
 自分たちは神の選民だと信じていたイスラエルの民たちは、直面する苛酷な現実の連続の中、祈りが聴かれないことから神を見失いそうになり、虚しさばかりを感じ続けていました。こうした苦難の歴史と経験の最中に編集されたのが「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」。単純な勧善懲悪などでは現実は理解も受けとめもできなくなっており、直面し続ける不条理との格闘が大きな課題となっていたのです。
 
 NHKはEテレの「こころの時代」で「コヘレトの言葉」について放送されています。講師は、北支区中村町教会の牧師、東京神学大学教授の小友 聡牧師です。
 テキストの表題が深く心に残ります、『それでも生きる』。小友 聡先生は神学校時代に学びの方向を見定め、以降、ドイツ留学の時代も含め、これまで35年もの長きに亘って「コヘレトの言葉」を読み解こうと、この書と格闘してこられました。
 そんな彼は、「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と語り始められるこの書に響くメッセージを、「それでも生きる」との一言に凝縮されたのです。詳しくはこのテキストを読んでいただくとして、ごく簡単に申し上げるなら、「空しさ」と訳されている言葉の幅に注目しての読み解きの結果だとのこと。
 「空しさ」と訳されているのはヘブライ語の“ヘベル”。「空しい」「空虚」という意味と共に、「つかの間」「儚い」「神秘」「謎めいた」等の意味も持つとのこと。確かにある面では「空しい」「空虚」と言わざるを得ないのが人生です。そうした人生を私たちは生きるのですが、それは神の御手にある永遠の時間に比べればほんの「つかの間」。そうでありながら私たちの人生には、全てを理解できない「神秘」的な側面があり、また「謎めい」ている、そうした現実を“ヘベル”という言葉で、この書は語り継ごうとしているというのです。それを言葉の第一義の通りに「空しい」「空虚」と捉えるのか、言葉の幅の内にある「つかの間」、そして「神秘」「謎めいた」と受けとめるかで、この書の読み方は大きく変化すると語られています。
 
 こうした「コヘレトの言葉」の方向性は、今日の招詞にも如実に表されていると小友 聡牧師は読んでおいでです。招詞としたのはこの書の5章17節以下。ここは、人生のプラス面、あるいはマイナス面のどちらを語ろうとしているのか、判読の難しい文節ではありますが、日常の生活に「神の賜物」が確実に備えられていること、「神がその心に喜びを与えられる」と私たちの日々の生活に届けられる神の恵みが語られてもいます。思うべきは、人生の短さやその人生の細部まで記憶していないというマイナス面ではなく、“ヘベル”(つかの間)の人生に、賜物と喜びを備え、導く神の恵みが語り継がれていること、このプラス面にこそ注目すべきだというのです。
 
 今日の箇所は「時の詩」と呼ばれていますが、ここにも神の恵みがはっきりと語り継がれています。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、ここは“神の定められた時”が語られる有名な箇所。語り継がれている「時」とは、「量的な時間」(クロノス)ではなく、「質的な時(神の時)」(カイロス)です。
 「生まれる時、、死ぬ時」と反対の性格を持つ「時」が対句的に語られ、8節で「戦いの時、平和の時」と締められています。この言葉の流れにも深い祈りが込められているとのこと。神の恵みの内に人間は「生まれる」、その後に登場する様々な「時」の内に生き、最後は神の「平和」へと至るというのです。「平和」(シャローム)の語根シャラムには回復・補填・充足・調和などの意味があります。ここで「平和」の持つ幅広さをも重ねてイメージしながら、経験する苦難や痛みも神の与えたものとして受け入れてシャロームへと至っていく、そんな歩みが祈られていると読まれています。
 
 11節に「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」とあります。多くの方は口語訳聖書の言葉で暗唱しておいでではないでしょうか。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」との名訳、この聖句は多くの人々に主にある慰めと励ましを伝え続けてきました。確かにとても美しい言葉です。しかし、実際に経験する痛みや苦しみの最中で、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と心から告白する、これはなかなか難しいのではないでしょうか。
 ご一緒に「コヘレトの言葉」の背後には苦難の歴史があり、不条理と直面し続け、祈り・信仰に破れてきた民族的体験があることを今日は学びました。その体験を通じて虚無的になり、不信仰へ至るのではなく、苦しみ・痛みを積み重ねながらも信仰者たちは「神はすべてを時宜にかなうように造」られた、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」との信仰へと導かれ、そのような告白を重ねてきたのです。
 
 この間、何人かの方から電話をいただきました。お一人は癌との闘いを長く続けておいでの方。激しい痛みや吐き気に襲われ続ける中で、「神さま、もう十分です」とついつい終わりを願ってしまう、そんな心の動きを涙ながらに語られました。ある方の訴えも切実でした。この数年、身体の不調に次々に襲われ、孤独の内にそれらに耐えてきたが、このところ夜眠れず、絶望の闇へと引きずり込まれそうになり、夜が怖いとの不安を擦れがちの声で語られました。こうした方々のお話を伺い、何ら励ますこともできず、ただ祈るしかない、自らの無力さを深く嘆きつつの毎日です。
 そのような方々を憶えて歩む中、書棚に置いた『それでも生きる』との一冊をふと手に取りました。そしてこれに導かれて「コヘレトの言葉」を改めて学んでみて、苦難と不条理が繰り返される歴史の最中で、神の御心を聴き取ろうとしたイスラエルの信仰者たちの祈りと想い、信仰の知恵や経験が集積されていると知りました。
 
 このテキストの最後、6回に亘って「コヘレトの言葉」を巡って語られた放送原稿は、次のような言葉で締めくくられています。著作権の関係がありますので、私なりに言い換えて最後の部分を紹介します。小友 聡牧師はこう語っておいでです。
 「たとえ明日が、将来が見通せなくても、今日を生きよ。神に与えられ、備えられている今、この時を生きよ。あなたの目から流れ落ちる、その悲しみの涙を拭って一歩でも前に進め…コヘレトは、そのように私たちに呼びかけています」。
 説教前に歌った讃美歌321番の3番は、びっくりするような歌詞です。自分の信仰に照らして、その通りだとは歌えない、そんな歌詞内容となっています。しかし、歌われている信仰の気概を求めながら、私たちは祈りを深め、進みたいと思うのです。“今日を生きよ。今、この時を生きよ。その涙を拭って前に進め”、こうした神の励ましを、まず自らが聴き、また今、痛み・苦しむ人々を憶えて深く祈りながら、私たち励ます神の御旨を共々にしっかりと聴き、受けとめていきたいと願います。
 歩みを通じて直面する苦難や困難、身体の病や痛みにより、私たちはどうしても虚無的になり、不信仰へと至りがちです。しかしながら、どんな時にも私たちに寄り添い、励まし、導いてくださる神を信じて、「神はすべてを時宜にかなうように造」られた、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」との告白へと近づいていく、そんな信仰を求めて、聖書に聴き続け、真実な信仰を学び続けたいと願います。