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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年8月23日

「心への感染」 マタイによる福音書 6:25〜34
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉マタイによる福音書 6:25〜34

(25)「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。(26)空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。(27)あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。(28)なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。(29)しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(30)今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(31)だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。(32)それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(33)何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(34)だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。

 

   本日は「マタイによる福音書」6章から読んでいただきました。「マタイによる福音書」には、5章から7章に亘って主イエスが弟子たちに向けて語られた教えがまとめられています。通常この単元を「山上の説教」と呼んでいます。
 「山上の説教」の一部、マタイ福音書6章後半には「思い悩むな」と題された、広く知られた一連の語りが登場します。25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と語り始められ、空の鳥、野の花との対比で、人間が根深く「思い悩み」を抱え込んでおり、それらを手放すことができないでいることが、主イエスによって戒められています。
 「思い悩む」はメリムナオーというギリシア語です。その原意は、反対方向に引っ張られる、分けられる、引き裂かれるなど。原意から導き、私たちの思いや心が定まらずバラバラになっている、そんなニュアンスで聖書で用いられています。「フィリピの信徒への手紙」4章6節にパウロは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧めていますが、メリムナオーは「思い煩う」と訳されています。
 
 新約聖書学者の荒井 献さんが、ある本(『問いかけるイエス』NHK出版)の一単元で今日の箇所に触れていらっしゃいます。
 最初に聖書の自然観が語られています。聖書の自然観は「創世記」の天地創造物語にはっきりと見ることができるとし、自然に対して人間が優位だとするのではなく、被造物として自然も人間も同等に扱われていることが重要であり、こうした観点から、傲慢になりがちな人間へ、備えられている限界を知り、謙虚にその与えられている分を引き受けて生き続けることを、聖書は求めているというのです。
 この自然観に主イエスも立ち、一つのメッセージを発しておられると、荒井 献さんはマタイ6章25節以下の並行箇所、ルカ12章との対比で読み出しておいでです。
 マタイでは「鳥」「野の花」と語られる自然についての言及が、ルカでは「烏」「野の花」となっています。荒井さんは、ルカでは「鳥」が旧約聖書時代から忌み嫌われてきた「烏」となっていることに注目。食物規定を宣べ伝える「レビ記」11章13節には「鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え」とあり、具体的な汚れた鳥の種類が列挙されますが、その中に「烏の類」と触れられていることから、ただ「鳥」というのではなく、わざわざ「烏」とルカが語るのは、汚れていると言われている鳥類をも神は養い育ててくださるということだと読んでいらっしゃいます。
 加えて、この「烏」と記されているルカの証言を踏まえ、「野の花」も同様の文脈で理解しようとしておいでです。「野の花」は一般的にはアネモネと言われていることを指摘した上で、「野の花」とは、アザミをイメージして主イエスは語っていらっしゃるのではないかと、荒井さんは想像しています。旧約聖書時代より、この世界の荒廃を示すのに、聖書は茨とアザミを象徴的に用いることが多く、第一に「烏」のマイナスイメージでの繋がり、第二に30節に「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」と語られているように、アザミは乾燥させて焚きつけに用いられていたことなどを根拠に、一般的な「野の花」ではなく、本来はアザミのイメージで語られていたと想像しておいでなのです。
 もし主イエスが語られた今日の教えの原初では、「烏」、またアザミと語られていたのだとすれば、神は人間が汚れたものとし、荒廃の象徴として用いている動植物をも恵み、育て、用いてくださると語られていたのであり、これはそのままにどのような人間であっても、一人ひとりを顧み、豊かに恵み、育て、用いてくださる、こうした神の深い愛をこそ語り継ごうとしておられたのではないかと読めます。
 
 「思い悩み」や「思い煩い」というものをなかなか手放すことのできない私たちです。そうであっても、私たちも神の愛と恵みに確実に導き入れられいます。そんな私たちは、神に育てられ、用いられることを願いつつ、備えられている場で信仰を抱いて今日一日、自分の分に静かに生きる、それが神に自らを委ねるということ、こうした内容が34節以下の教えに繋がっていくのではないでしょうか。こうありました。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
 私たちが「思い悩み」「思い煩い」から離れ、この一日を置かれた場所で、その賜物を活かして生き切ることができるように、主イエス・キリストはこの世にお出でになり、この世の全てに勝利し、また私たちの弱さや欠け、罪を担うために十字架にかかってくださったのです。
 先週語られた柳下明子牧師も触れられたと思いますが、「ヨハネによる福音書」15章33節の後半にこうあります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。主イエスの十字架と復活は、現在、そして将来の不安をも含めて、私たちの感じる全て、また私たちの存在をも、深い愛と配慮で神の御心の内に置き、憶えてくださっていることを信じたいと願います。
 
 新型コロナウイルス感染症のために、私たちは不安と心配を抱えての生活を長く続けています。なかなか改善されない状況に一向に気持ちが晴れない、そんな苦難の半年近くを過ごしてきました。
 『百万人の福音』というキリスト教雑誌の8月号では、「コロナ恐怖 本当の敵はどこにいるのか?」という特集が組まれました。病の拡大も大きな問題であるのですが、感染への恐怖、生活や将来への不安が生み出す衝動、特に敵意、あるいは感染者や医療従事者への差別や偏見、嫌がらせなどにもしっかりと目をとめたいというのです。そこには人間の不安や恐怖に惹起された問題を認めることができ、欧米でのアジア人差別や、パンデミックに起因する大国どうしの関係悪化なども引き起こされています。こうした感染症が引き起こしている社会現象は、ごく身近においても、また広く社会・世界の問題としても実に深刻な様相を呈していることがまず述べられ、幾つかの事柄が取り上げられています。
 芳賀真理子さんという若手の精神科医が、「争いが生まれるメカニズム」と題して書いておいでです。駒込えぜる診療所(精神科クリニック)を開設していらっしゃるクリスチャン医師ですが、2月以降に不安障害を訴える人が多くなり、特に4月からの新規患者は全員が不安障害だと記されています。各種のパニック症状や自律神経の不調などなど、心理的な事項で体調の崩している人が増えているようです。
 日本赤十字社がそのHPで公開している「ウイルスの次にやってくるもの」と題された動画も紹介されています。これは、ウイルスへの不安が恐怖を増大させていき、さまざまな心理的問題を引き起こす経過を絵本タッチで描いた3分ほどの短い動画です。この動画で問題とされている事項を、先の若い精神科医は病を巡る恐怖の「心への感染」という印象的な表現でもって語り継いでおいでです。感染症パンデミックは、単に病の身体への感染リスクを生んでいるだけではなく、「心への感染」というさらに深刻な事態をも引き起こしているのだということでしょう。
 
 「心への感染」への対処としては、まず必要以上に不安を引き起こす情報に触れないこと、そして何よりも大切なのは、各人の日常性であり、生活習慣を一定に保つこと、また孤立化を避けて、周囲との関わりを絶やすことなく、周囲へ心配りを為し、何よりも周囲を憶えて祈ることだと、このクリスチャン医師は語っておいでです。
 自分を振り返り見ても、新聞やテレビ、そしてネットを通じて、日々多くのコロナ情報をかき集めてしまっていますし、春以降、何かと落ち着かず、ばたばたと過ごし、日常性を大いに崩してしまっています。また、皆と出会うことができないので、関わりや交わりも次第に希薄化してきているのは事実です。
 こうした私の抱えている現状は、心に巣くう不安や恐怖をさらに増大させる餌になるとのこと。恐怖に餌を与えて大きく育てるのではなく、恐怖から距離を取り、また恐怖の嫌がるあり方を示して生きる、このことをこの精神科医もまた先の動画も伝えています。これから先のこと、病、自分、社会のことも含め、誰にも判らないことは判らないものとして、そのままに受けとめる、そして恐怖の嫌がることを日々為して生きる、恐怖や日常と笑顔を嫌がるのだと動画で強調されていました。
 先の精神科医の文章を読み、「ウイルスの次にやってくるもの」という動画を観ながら、私の心には今日の主イエスの教えが深く響いてくるように感じられたのです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」に始まる主イエスの教えは、繰り返しになりますがこう締めくくられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」

 今日の招詞「イザヤ書」41章13節には「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う 恐れるな、わたしはあなたを助ける、と」とあります。神はどんな状態にあっても、私たちを見捨てず、手を取って助け起こし、手を繋いで励ましてくださいます。この状況下、人間どうしてはこうした密接な触れ合いができないとしても、神は私たちに近づき、手を堅く握って助け・励ましてくださいます。
 こうした愛の神の働きに心から感謝しつつ、私たちの日常性をこの状況にあっても大切にし、周囲との関わりを絶やすことなく、しかめっ面をやめて笑顔で今日一日を生きる、そうした日々を積み重ねながら、主イエスの福音に立って、恐怖に飲み込まれることなく、希望の信仰を少しずつにでも学んでいきたいと願います。