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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します


2020年9月27日

「心の目を開いて」エフェソの信徒への手紙 1:15〜23
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉エフェソの信徒への手紙 1:15〜23 

 

 (15)こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、(16)祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。(17)どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、(18)心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。(19)また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(20)神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、(21)すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。(22)神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。(23)教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

    
 旧約聖書にある詩編は、ヘブライ語で「テヒリーム」と言われています。このテヒリームとは「賛美する」という語の複数形です。しかし、実際に詩編を読んでみますと、賛美の歌より、個人や民族の嘆きなど、人間の嘆きの歌が一際目立っているように思います。文字通り賛美をイメージさせる作品は半分もなく、ごく僅かなのではないかと、詩編を研究する者たちも考えているようです。中でも、「ダビデの詩」は人生の苦難にあった際に、神様と向き合う生き方の教えの書と捉えられています。ダビデは、敬虔な信仰者として皆様もご存知と思います。ダビデは上に立つ者としても、一個人としても、様々な苦難を超えてきた人でした。ダビデのように苦難の中歌われた「嘆きの歌」が他にも多く詩編には記されています。
 こうした詩編の特徴を見ると、旧約聖書の時代から人間は苦難の中にいるとき、神様と向き合うことが難しく悩み苦しんでいたことがわかります。これは詩編の詩人たちだけに言えることではないと思います。今を生きる私たちも悩み、苦しみ、悲しみから抜け出せず、時には神様を遠くに感じるときはないでしょうか。
 
 新型コロナウイルスにより、人との関わりが減っていき、お顔を合わせての交わりではなく、画面越しでの交わりが多くなりました。多くの方が、早稲田教会だけでなく私のことも憶えて祈り支えてくださいますことに感謝の思いが溢れます。その一方で、私を気遣っていただいていることを十分に理解しながらも、いつも長く考えてしまうものがあります。それは近況報告です。特に変わり映えのない生活であることと、最近見た映画の話やテレビのチャンネル争いといったような家族との小さな喧嘩に関してはいくらでも話せますがその話に付き合わせてしまうのは大変申し訳ないことから、いつも何を報告すればいいのか考えてしまいます。そうした自分の考えの中には、何か特別なことを報告しなくてはいけない。聞く人が退屈にならないようにしなくてはいけない。と自分の中で、ある種の縛りが出てしまい、余計に考え込んでしまうことがあります。人が聞くことを意識すると、何か楽しい話や面白い話をしなくてはいけないと考えてしまいます。
 こうしなければいけない、ああしなければいけない、と自分で勝手に作った縛りに疲れを感じることもありました。そんな中で、子どもプログラムのZOOMの交わりで、一人の子が泣きながら参加したことがありました。訳を聞くと、飼っていた動物が朝起きたら死んでいたとのことでした。私はその時、それほど悲しいのなら無理して参加しなくてもいいのではないかと考え、無理しなくていいことをその子には伝えました。けれどもその子は参加すると言ってくれました。改めて、考え直すとその子に必要なのは悲しい時にこそ繋がりを持って悲しみを分かち合うことのできる人なのではないかと考えました。その日に参加したメンバーで、その子の悲しみを分かち合うことができ、その日のZOOMが終わるころには笑顔を見せてくれました。私はこれまで、ZOOMの交わりは、来てくれる人、聞いてくれる人を楽しませなければいけない。退屈にさせてはいけないと考えていましたが、こうした自分の悲しみや悩み、苦しみを分かち合うのも一つの交わりだと気付かされました。
 現実は時として、自分にとって受け入れがたいことが起こります。愛する者を天へと送り出すこと、人との関わりが減り寂しさを憶えること、それぞれが悩み苦しみ悲しみながらも懸命に歩んでいるのではないでしょうか。
 
 本日私たちに与えられました聖書箇所には、「パウロの祈り」という題がついています。このいわゆるパウロの祈りは15節から23節まで、原文では一文として記されてあり日本語のように区切られていないそうです。長い一文に込められる祈りから筆者の想いの深さが伝わってきます。これほどまでに筆者は何を祈ったのでしょうか。それは人々の「心の目」が開かれるようにと祈っています。
 私は、毎主日の礼拝の中で神様からのみ言葉を与かる前に、「私たちの固く閉ざされた心を開いてくださいますように」と祈ります。これは、そのように祈っている人を見て「アーメン」と心から思ったため、自分もそのように祈るようになりました。この世俗を歩む中で私たちは様々な体験をします。それは楽しいことばかりではなく、苦しいことや悲しいこともあります。現実で起きていることの中に、時に自分だけでは整理できないものもあります。そうした体験をしていくうちに自分の心がいつしか固く閉ざされていたように考えました。
 そうした現実を生きていく中で、信仰の光を絶やさずに持ち続けることは大変困難なことではないでしょうか。信仰の弱い私は、こうした現実の荒波に飲み込まれ、時に消え入りそうな小さな光になる時があります。心も固く閉ざされ、神様のみ言葉を受け入れられない時もあります。
 ある説教者が、「信仰とは私たちが目にするこの世の現実を超えた、神のわざ、神の力、神の救いの働きを見ること」だと語りました。自分の心が固く閉ざされている時、こうした神様のわざ、神様の力、神様の救いの働きが見えていないのではないかと考えました。神様を遠くに感じるのはこうした神様の働きが見えていないからこそ、遠くに感じるのではないでしょうか。
 
 18節にはこのように記してあります。「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」。
 神様の霊によって私たちが心の目を開いた時、私たちは多くのものを見ます。神様の招きによって与えられる希望、キリスト者が受け継ぐものの豊かさを見ること、知ることができます。それだけでなく、私たち人間のために神様は絶大な働きをしました。神様の力をキリストに働かせ、イエス様の十字架と復活によって私たちは計り知れない恵みと救いを与かることができています。こうした神様とイエス様の救いのわざを見ることができるよう、筆者は「心の目が開かれますように」と祈るのです。
 筆者の祈りを理解しつつも、心の目を開くことはこの世を生きていく中で難しいことのように思えます。心の目を開きたいと強く祈りつつも、心は固く閉ざされ、信仰の光はどんどん弱まってしまうのではないでしょうか。一人で信仰の光を絶やさずにするのは限界を感じます。
 そう考えている時に、次の23節を読むと自分は一人ではないと励ましを受けます。23節にはこのように記してあります。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 」
 筆者は、教会はキリストの体であると説きます。死者の中から復活し、永遠に生きるイエス様が教会を満たしてくださると、筆者は語っています。神様の恵みと祝福がイエス様の働きによって満たされ、私たちはそれを与かることができるのです。それは、ただ、イエス様から与かるだけでなく、兄弟姉妹と共に分かち合うこともできるのではないでしょうか。
 冒頭でお話ししました、子どもプログラムの交わりの中で悲しみの中にある子が参加し、共にその悲しみを分かち合ったことを思い起こします。愛する家族を失う悲しみを憶えながら、共に分かち合い、自分の思いを話せる人がいることで救われることがあります。これは子どもプログラムに限らず、教会員の方からも伺います。電話、手紙などを通して、互いに近況報告をしたり、何気ない会話をしたり、そうして人と繋がることで、励ましを受けたと話を聞くことがあります。
 
 私たちには教会の交わりがあります。信仰の友である兄弟姉妹がいます。一人で信仰の光を絶やさずにすることは難しく感じますが、信仰の友である兄弟姉妹の励ましがあれば、神様の霊によって心の目を開くことができる、そのように希望を持てそうな思いが私はあります。この世の苦しみ、悩み、悲しみに飲み込まれ、心の目が固く閉ざされるとき、「心の目を開いてくださるように」そう祈ってくださる兄弟姉妹に応えて新しい一週間も歩んでゆきたいと願うものであります。