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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストで掲載します


2020年10月11日

「神の作品」エフェソの信徒への手紙 2:1〜10
 奥山京音伝道師

 
〈聖書〉エフェソの信徒への手紙 2:1〜10 

 (1)さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。(2)この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。(3)わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。(4)しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、(5)罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――(6)キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(7)こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。(8)事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(9)行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(10)なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

    
 自分の存在価値に関して、皆様は悩んだり考え込んだりしたことはないでしょうか。私が初めて自分の存在価値を考えたのは小学生の頃でした。当時の私は怒りのコントロールが全くできませんでした。ヤカンや瞬間湯沸かし器のように沸々と沸き上がるものではなく、まるで照明のスイッチをONとOFFに切り替えるように瞬時に怒りが爆発するようでした。怒りを抑えられるようになりたい。いい子になりたい。親を喜ばせたい。そういった思いとは反対に、まるで自分の中の指揮官が代わったかのように、「怒り」一色になります。簡単に怒りに支配される自分を恐ろしく感じることも多くありました。そうした中で、親に迷惑をかける自分、大人の望み通りになれない自分、いい子になれない自分と何度も向き合い、自分の存在価値はどれくらいだろうと何度も考えました。
 
 そんな時、一冊の絵本と出会いました。人気作家マックス・ルケードが作った『たいせつなきみ』という題名の絵本です。この絵本は幅広い世代に支持され、日本でもロングセラーになりました。絵本の内容を簡単に紹介します。
 ある村に、ウイミックスと呼ばれる小さな木の小人たちが住んでいました。ウイミックスは、丘のてっぺんに住む彫刻家エリの手で造られました。それぞれが個性を持っていました。そんなウイミックスたちの間で、あるブームが訪れていました。それは金ピカのお星様シールと灰色のダメ印シールをいつも持ち歩き、互いにくっつけ合うことです。才能や美しさを持つ小人には金ピカのお星様シール、反対に能力のない小人には灰色のダメ印シールがつけられました。パンチネロというウイミックスは、何をやっても上手にできず、ダメ印シールをたくさんつけられていました。あまりにも多くダメ印シールを付けられ、パンチネロは次第に自分への自信を失いつつありました。そんな時、シールを1つも付けていないウイミックスらしくないウイミックス、ルシアと出会い、パンチネロは興味を持ちました。どうしたら、シールがくっつかなくなるか知りたいと考えたパンチネロに、ルシアは丘の上に住む彫刻家のエリに会いに行くよう勧めます。シールがくっつかない理由を知りたい反面、彫刻家のエリにみっともない自分を見せることに不安を憶えながらも、他人に評価されることに疲れを感じていたパンチネロは、エリに会いに工房を訪ねました。そこで、パンチネロは造り主のエリから、ありのままのおまえが愛しいと言われます。パンチネロは何もできない自分がどうして大切なのか理解できません。そんなパンチネロにエリは、パンチネロが誰のものなのかを教えます。こうして少しずつパンチネロは何が重要なのか、自分が誰のものなのかを理解し、自分らしさをとり戻していこうとします。
 これが絵本の大まかな内容です。この絵本を作ったマックス・ルケードは牧師でもあり、彼は人の評価よりも私たちが誰のもので何が重要なのかを今一度思い起こしてほしいという思いから作成したと語っています。絵本のようなパンチネロは他にもいらっしゃるのではないでしょうか。
 
 エフェソの信徒への手紙2章2節にはこのように記してあります。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」。これをある説教者はわかりやすく「この世の価値観だけに基づいた生き方」と語りました。こうした生き方を手紙の著者は、「あなたがた」である私たちだけ指して一方的に責めているのではありません。後に続く3節に「わたしたちも皆」と記してありますように、著者もまたこうした生き方をしていた一人であると考えているのではないでしょうか。
 説教でも、世俗に流されず、この世の価値観に飲み込まれず歩んでまいりましょうと語ります。しかし、実際は日曜までの日々この世の価値観に左右されて身体や心に疲れを感じ、日曜に神様の恵みを与ってまた新たに歩んでいこうと踏み出すのではないでしょうか。この世の価値観に流されるのではなく、神様の御心のままに歩むのが正しいと理解しつつも、そうした歩みができずに自分の気持ちが落ち込んでいくときはないでしょうか。私ごとで恐れ入りますが、大学生時代の私の一週間はまさにそうでした。日曜日、神様のみ言葉を受けて新しい一週間歩んでいこうと意気込み、月曜日から火曜日に頑張ろうとしますが上手くいかず、水曜日に上手くいかないのは自分の信仰の弱さだと考え、木曜日から金曜日にどんどん落ち込んでいき、土曜日に世俗の荒波に飲み込まれて自分はなんてダメなクリスチャンなんだろうと気持ちが沈み、日曜日にまた新たに頑張ろうと意気込む、そうしたことを繰り返していました。「この世の価値観」を切り離して歩むのは大変難しい歩みだと考えます。
 
 人間の根源的なところに、自分が誰よりも豊かにこの世界で手に入るものを獲得したいという考えがあり、そうした考えがあるからこそ、この世は持っている者と持たない者、勝ち組と負け組に分かれているのだと、ある説教者は語りました。先に述べました考えをふまえると、人が変われば世界も変わるように思えます。しかし、現実はどうでしょうか。人が変われば世界は変わりますが、世界を変えるために一体どれほどの人が変わらなければいけないのでしょうか。それを人間だけで達成することは可能でしょうか。
 新約聖書の時代もまた、現代のような混沌とした世だったと想像します。もしかしたら、今以上かもしれません。憐れみ深い神様はこうした世界をご覧になって、豊かに顧みてくださいました。
私たちもまた、エフェソ書に記してある通り、この世の価値観を重要に考え、私たちが誰のものであるかを忘れて歩んではいないでしょうか。手紙の著者の言葉を借りて言えば、「死んでいる」状態で歩んではいないでしょうか。死んでいるのなら、いっそのこと葬ってしまえばいいと投げやりな気持ちを持ちますが、神様は葬るのではなく私たちに、ひとり子であるイエス・キリストを遣わしてくださいました。私たちが過ちと罪を犯して歩む「死んでいる」状態ならば、ノアの時のように一掃してしまえば話が早いように考えます。なぜ、神様はそんな私たちを見捨てずに、大切なひとり子を遣わしてまで新しく造り変えようとするのでしょうか。
 
 ホセア書11章8節を抜粋してお読みします。「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」。この言葉は私たちに向けられた言葉ではありませんが、ここに答えがあるように私は考えます。神様は私たちを見捨てることができないとおっしゃっています。なぜなら、私たちが死んでいる状態で歩んでいるときに、神様の心は激しく動かされ、神様の胸は憐れみに焼かれているからです。それほどまでに神様はこの世を愛してくださいました。滅びるのではなく、永遠の命を得るために、私たちを新しく造り変えるためにキリストを遣わしてくださったのです。
 私たちはキリストによって新たに造られました。私たちはその善い業に応えるために、善い行いをしながら歩むことが求められています。結論はやはり、「世俗に従って歩むのではなく、神様の御心に従って歩もう」に繋がります。けれどもそれが難しい!というのが私の中にある叫びです。
 
 冒頭で紹介しました絵本の話に戻りますが、私はこの絵本が一番好きです。なぜなら、この絵本はパンチネロについているダメ印シールが、造り主エリに出会ったことで全て綺麗に無くなったというラストではないからです。パンチネロは、エリが諭す内容をすぐには理解できません。それほどまでにダメ印シールが強力に貼り付いており、この世の価値観に基づいて歩んでいるからです。エリの言葉を正直にわからないと言うパンチネロ。そんなパンチネロにエリは怒りをぶつけ見捨てるのではなく、憐れみ顧みて忍耐強く待ってくださいます。パンチネロはエリとの出会いを通して新しく造りかえられましたが、完全にこの世の価値観と切り離して歩めません。けれども新しく造りかえられたパンチネロは新しい一歩を踏み出します。絵本の最後に再度エリが帰ろうとするパンチネロに「君は私の作品で、私は失敗しない」ということを優しく語りかけて見送ります。その言葉を受けて、これまで信じられない思いでいっぱいだったパンチネロに小さな信頼が生まれ、ダメ印シールが1つ地面に落ちて物語は終わっています。次回の話ではダメ印シールが綺麗に取れているパンチネロが登場しているので、おそらく時間はかかっても自分が誰のものかを理解して、何が重要なのかを知ったからでしょう。こうしたパンチネロの歩みに救われます。すぐにわからなくてもいい。難しくてうまくいかない時もある。けれどもそんな時でも、神様は私たちを怒るのではなく憐れに思い、愛してくださるのです。それはなぜでしょうか。絵本の中ではこのように答えています。パンチネロは造り主・エリのものだから大切であり、エリが造った作品だからこそ、パンチネロを大切に思います。そして、エリは失敗をしません。つまり、他のウイミックスたちがダメ印シールを付けたパンチネロも失敗作ではなく、エリの大切な作品の1つなのです。
 
 私たちもまた、パンチネロのように一人一人が造り主の作品であり、造り主は失敗作を生むことはありません。一人一人が最高傑作であり、尊いご計画のもとに造られていると聖書は宣べ伝えています。「自分は見た目が良くないし…」「自分は得意なことがないし…」そう思っても個性豊かなウイミックスのように、私たち人間も個性やタラントを持った傑作品だと考えます。自分としてはこの私にどれほどの存在価値も見出せなくても、神様は価値あるものと言ってくださいます。なぜなら、私たちは神様の作品であり、神様のものだからです。また、神様は失敗しない方であるからこそ、価値を見出せない自分も神様の目からは傑作品と言っていただけるのではないでしょうか。
 そうは言ってもすぐには新しい歩みに切り替えられないかもしれません。まずは、私たちの造り主は誰か、私たちは誰のものか、そして、私たちが大切にするものは何かを心に刻むことから始めてみたいと願います。そのようにして新しく思い、造り主への信頼を抱いて一歩を踏み出した時、自分に強く貼り付いていたダメ印シールが1つずつ落ちていき、善い業を行い得る歩みへ進むことができるのではないでしょうか。