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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年10月25日

「十字の横に三つの力(その2)」エフェソの信徒への手紙  4:15〜16
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉エフェソの信徒への手紙 4:15〜16

 (15)むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。(16)キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 

   
 本日、私たちは「友愛学舎創立記念の礼拝」を捧げています。
 早稲田教会は、公式的にはその創立を1939年(昭和14年)としています。先の創立80周年も、昨年2019年に記念礼拝と式典を挙行したような次第です。1939年、早稲田教会は早稲田奉仕園宗教部から独立して、単独で教会としての歩みを始め、日本バプテスト東部組合早稲田伝道所となりました。通常はこの1939年を教会の創立として憶えて、私たちの教会は歴史を刻んでいます。
 しかし前史が31年もあります。こうした前史、特に教会の出発となった友愛学舎の創立と学舎での学生たちによる日曜礼拝の開始を記念するのが本日の礼拝です。
 
 教会創立の1939年の31年前、1908年(明治41年)11月3日に友愛学舎は、アメリカンバプテストのハリー・バクスター・ベニンホフ宣教師によって創立されました。当時、移転の決まっていた東京YMCA寄宿舎、早稲田の鶴巻町にあったこの施設を譲り受け、そこに寄宿していた学生たちとベニンホフ宣教師が行っていた「3Lクラブ」の学生たちが一緒になって、早稲田大学の学生中心で立ち上げたのが友愛学舎という男子学生寮でした。
 ベニンホフ宣教師が家族と共に来日したのは、1907年のこと。この方は師範学校を出て教師を務めた後、大学へと進みます。大学で学んでいた時代、1900年(26歳時)にある夏期学校に参加し、東洋伝道から帰ってきた老牧師の話を聞いたというのです。「いま東洋には、現地の人百万人に一人の割合でくらいでしか宣教師はいない」、そんな東洋諸国の厳しい伝道の状況を知って、東洋へと渡る決心を為し、独り森の中に入って「私を東洋に遣わせてください」と祈ったのでした。この祈りが聴かれ、翌1901年にベニンホフ夫妻は、ビルマ(現在のミャンマー)に派遣され、ラングーンにあったバプテストの大学で数学と化学を教えたというのです。
 
 3年の後(1904年)、夫人の病のために一旦はアメリカに帰国。これを充電の機会と捉えた彼はシカゴ大学神学部に入り直し、そこで4年間、勉強と研鑽を積み、1907年に再度、今度は日本へと派遣されます。夫人と三人のこどもを伴ってのこと。築地にあった東京学院というバプテストの神学校で教えながら、この日本で神は自分に何を為すよう求めておいでか、御心に聴いていかれます。33歳の時のことです。
 まず立ち上げたのが「3Lクラブ」でした。「3L」とは、ベニンホフ宣教師が大切にしていた信仰の姿勢、Loyalty、Love、Libertyの頭文字から取ったネーミング。神への忠誠、隣人への愛、自由を基盤に学生たちを教育し、関わりを深めていきます。
 「3Lクラブ」の立ち上げは早稲田大学の学生の求めに出発しており、彼らとの関わりを通じて、鶴巻町にある東京YMCA寮の廃止が伝えられ、これに反対する学生たちと「3Lクラブ」の学生たちが友愛学舎の初代舎生となります。
 
 友愛学舎の活動は、早稲田大学の初代総長・大隈重信候の後押しもあり、短期間に大きく発展していきます。すぐに手狭になったのでしょう、3年後の1911年には弁天町に新たに土地を購入し、その年中に木造三階建ての友愛学舎と宣教師館が完成します。舎生に課せられていたのは、毎朝の聖書の学びと日曜の礼拝でしたが、日曜学校の働きも始められ、多くのこどもたちが友愛学舎に集うようになります。
 こうした活動が「早稲田奉仕園信交協会」の設立へと繋がりました。1917年(大正6年)のことです。『早稲田教会50周年史』にこう記されています。“1917年には、学舎の学生だけでなく、広く青年男女を対象として…『信交協会』が、友愛学舎の集会室に設けられた。目的は『奉仕、親交、礼拝等に依りて会員各自の基督教人格の向上発展を奨励することにあり』とあり、この目的に賛同し、本会の信仰箇条を承認する者を記名式をへて会員とした”。「信交協会」は、礼拝のみならず、それに先立って奉仕、親交とその活動の目的が記されているとの特徴を持っていました。
 特に注目したいのは、「信交協会」の「協」という字です。教会とは教える会と書きますが、ベニンホフ宣教師は「協」会と記しました。「協」の字が用いられた背景には、ベニンホフ宣教師と親交のあったヴォーリズ宣教師の影響が大きいようです。ヴォーリズ宣教師は設計・建築の分野で広く知られています。このスコットホールも設計原案はヴォーリズ設計事務所によって作成されたのでした。
 ヴォーリズ宣教師は常々“協という字は、キリストの十字架の下でみんなが力を合わせるという良い字だ”と語っていたとのこと、ヴォーリズ宣教師の主張に共感したベニンホフ宣教師は、「協」の字を用いて教会を「協会」と表記したのでした。
 「キリストの十字架の下(に招かれた)みんなが力をあわせる」という祈りによって「信交協会」が形成されていきます。教派・伝統の違いを不問とし、キリスト者であれば、もっと言えばキリストを信じると告白する者であれば、受洗していなくても正式メンバーになれたというのです。当時は教派色や伝統が濃く出るのが普通でしたが、「信交協会」のあり方は実に先進的であり、幅の広い感覚を有していました。こうした「信交協会」が早稲田教会の前身であることに感謝したいと願います。
 
 今日は「エフェソの信徒への手紙」から4章から読んでいただきました。教理と実践という二部構成の手紙で、今日の箇所は実践についての勧めの始まりです。
 まず教会の一致から語り始められています。教会はギリシャ語でエクレーシアと呼ばれます。直接民主主義のために広場(アゴラ)に集められた人々を意味しましたが、キリスト教は、神に呼び集められた者たちの集いを表す言葉として用いました。
 神に召され、広く集められた者たちは、当然のことながらさまざまな違いを持っており、多様性が顕著でした。この手紙の書かれた状況や時代背景から考えるならば、教会内にユダヤ人と異邦人という民族も出自・習慣も異なる者たちが共に集められており、手紙の向けられた小アジア地域においては、各教会の存在した場所によって地域性の違いもきっとあったことでしょう。
 そうした人々や集会に向けて、手紙の著者は4章の冒頭でこう語りかけています。「1b神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、2一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、3平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。同じく神に招かれた者として、謙遜、柔和、寛容に立ち、軋轢をも愛をもって耐え忍び、平和な関係を結べるように祈りつつ、聖霊によって一つとされていく、このことを課題とせよというのです。
 この後に有名な「一つ」の語りが続きます。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4:4〜6)。
 同じ教会に集められていながらも、深刻な対立を私たちも経験することがあります。そんな対立や分裂の危機に立った際、教会はこの聖書箇所に立ち返りつつ主にある一致を求めてきました。
 15節以下には、神の祝福と導きを得て、多様な者たちが呼び集められた教会がどう進んでいくのか、このことについてこう語られています。「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」。
 心に留めるべきは、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ」るという部分でしょう。共に補い合い、組み合わされ、結び合わされ、それぞれの違った賜物を活かすことで、「主にある一致」「キリストのからだなる教会」は皆の力によって、多様性の中にこそ組み立てられていくというのです。
 こうした教会観は、パウロの「主のからだなる教会」との教え(1コリント12章)の本質を継承しています。パウロ、エフェソに響く祈りを引き継ぎ、「キリストの十字架の下(に集った)みんなが力をあわせ」つつ「信交協会」は形成されていきました。
 
 「信交協会」では、教派・伝統の違いを問うことなく、信仰箇条を告白する者であれば、受洗していなくても群れに加えられました。本日の午後に行われる早稲田奉仕園のシンポジウムの主題は、「若き日の出会い 杉原千畝と早稲田奉仕園」です。記念パンフレットをひと足早くいただきましたが、このパンフレットには、ユダヤ人への命のビザの発行で有名な杉原千畝さんが、まだ受洗していなかった1919年に信仰箇条を告白し、「信交協会」の会員となったことが資料と共に記されています。
 翌年の1920年に友愛学舎は弁天町からここへと移転し、ベニンホフ宣教師は自らに神が与えたもうた幻を「早稲田奉仕園」という名前で形成していくため、中心的・象徴的建物としてスコットホールを建築します。スコットホールでの「協会」活動は1921年より早稲田奉仕園宗教部と位置づけられました。「信交協会」の祈りとあり方とは、早稲田奉仕園の宗教部に引き継がれ、さらに発展していきました。
 
 本日は早稲田教会の前史、1908年からスコットホール完成までをごくごく簡単に振り返りました。そうした中で、友愛学舎での礼拝に始まり、「信交協会」の形成に至ったことが、早稲田教会の原点であり、前身であることを確認できたかと思います。
 私たち一人ひとりも、キリストの十字架の下に礼拝・奉仕・親交のために神によって呼び集められています。一人ひとりの違い、多様性を大切にして、それぞれの持てる違った賜物を教会と遣わされる場で輝かし、互いが主にあって補い合い、組み合わされ、結び合わされながら、「信交協会」が目指した実に幅広く自由な宣教を継承していきたいと願います。