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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年11月15日

「問われているのは“いま”」コリントの信徒への手紙二  6:1〜10
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉コリントの信徒への手紙二 6:1〜10

 

(1)わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(2)なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。(3)わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、(4)あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、(5)鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、(6)純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、(7)真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、 (8)栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、(9)人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、(10)悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

   
 中世ヨーロッパ、14世紀の修道院で、修道士たちの挨拶に際して用いられた言葉があります。ラテン語で、「メメント・モリ」というものです。この言葉の持つ意味は「死を覚えよ」(死を忘れるな)。修道士たちは起きぬけに、また院内で他の修道士と出会った際などに、「メメント・モリ」と挨拶を交わしたのです。この挨拶を用いて、日に何度も「死を覚えよ」(死を忘れるな)と呼びかけあったのでした。これは何とも通常ならざる業であることを思います。
 この言葉を最初に知ったのは、まだ大学生だった頃、藤原新也さんの写真集を通じてでした。1983年、『東京漂流』の次に出た藤原新也さんの著作の題名が『メメント・モリ』でした。写真集にこう書いていらっしゃいます。
 “MEMENTO-MORI この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われた宗教用語である。その言葉の傘の下には、わたしがこれまで生と死に関するささやかな経験と実感がある”。
 当時、何ともお気楽極楽な大学生活を送っておりましたので、そんな私には藤原さんが言うような「メメント・モリ」という言葉の重みや実質は理解はできませんでした。しかしながら、この言葉とそれを巡る語りは妙に心に残ったのです。そして、この間、新型コロナウイルス感染症が蔓延する日常において、この「メメント・モリ」という言葉がふと心に蘇ってくる、そんな経験を与えられています。
 
 繰り返しになりますが、「メメント・モリ」という挨拶は14世紀の中世ヨーロッパの修道院にて用いられました。藤原新也さんも書いていらっしゃるように、当時、ペストがヨーロッパ中で大流行しており、この病によって、ヨーロッパ全土で人口の3割以上、2,000万から3,000万人もの多数の人々の命が奪われたとのこと。ペストという病は、「悪魔の伝染病」とまで言われました。
 この病に罹った者たちは高熱を発し、リンパが拳の大きさほどに腫れ、黒いあざが全身に浮き出て、痛みに苦しみ、悶えながら死んでいったとのこと。こうした病状から「黒死病」との別名も生まれます。昨日までは元気だったけれども、この一日を生きて過ごせるかが誰にも判らない、「死」が常態化するような実に切迫した事態の最中に人々は置かれたのでした。
 ペストの致死率は一般的には30%と言われていますが、司祭をはじめ聖職者たちの致死率は50〜60%と何とも高かったようです。特に修道士たちの犠牲者が多く、全滅という修道院も珍しくなかったとのこと。通常、修道士たちは大部屋で共同生活をしていましたから、一人が感染するとあっという間に全員に広がったのです。また日頃からの断食の習慣によって栄養状態が悪く、たとえば受難節の断食などではその状態が悪化したため、こうした要因が致死率が高めたと言われています。
 危険極まりない感染症に対して、当時の教会は第一に祈り、そして権威ある教皇勅書で対抗しようとしました。しかし、こうした取り組みは実際的には何らの役にも立ちませんでした。民衆が根深く抱えていた恐怖によって、教会での祈りや感染症蔓延への対応策はどれもたちまちに押しつぶされていったのだと言われています。
 死への恐怖と生への執着に取り憑かれた民衆たちは、司祭がミサで祈りを捧げている最中、また死者を埋葬しようと別れの儀式を行っている時、厳粛さが求められるそうした場でも笑い、踊り狂ったというのです。人々はケタケタと笑いながら、気を失うまで踊り騒いだのでした。病と死への強い恐怖が反転して、集団ヒステリーと言うべき現象をも生んでいきました。人々のこうした衝動的な行動は、「死の舞踏」と呼ばれるようになり、幾つもの絵が残されたようです。ネット検索してみますと、「死の舞踏」と題された数多くの風刺画のようなものを見ることができます。
 
 さらに迫害・虐殺も起こりました。ペストの元凶は何で、誰が悪いのかと事態を引き起こした犯人探しが盛んに行われ、こいつらだと断定した人々に全ての罪をなすりつけ、自分たちの怒りや鬱憤をぶつけようとする人々も出現したのでした。
 元凶と見定められたのは、ユダヤ人たちでした。ユダヤ人の中には当時の人々が最も軽蔑していた金貸し業を行っている者が多く、各国の統治者や権力者たちの中には、ユダヤ人たちに多額の負債を有している者も少なくなかったとのこと。権力者や民衆たちは、儲けているユダヤ人たちへ復讐する格好の機会だと考え、「ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んでいる」とのデマを流し、デマに踊らされた民衆たちがユダヤ人たちを大量に虐殺していったというのです。
 こうした資料に触れ、関東大震災の朝鮮人虐殺と全く同じことが、既に中世ヨーロッパで起こっていたのだと驚かされると共に、恐怖が生む惨劇、その根源にある人間の弱さや醜さ、罪深さというものをつくづくを思わざるを得ませんでした。
 ペストが大流行し、いつ命の終わりを迎えことになるか誰にも判らず、不安と恐怖が人々を支配している状況にあっても、神に命を与えられているこの“いま”をできる限り誠実な信仰に、そして備えられている役割に忠実に生きようと、修道士たちは「メメント・モリ」と互いに呼びかけ合いながら自らを律し、神の御旨に聴き、神の御心にこそ生きようとしたのでした。そのような誠実な信仰が、「メメント・モリ」との挨拶には込められていることを思います。
 
 本日は「コリントの信徒への手紙二」6章の冒頭を読んでいただきました。ここで、パウロは自らが日々直面している現実を踏まえながら、自分の信仰の姿勢を明らかにし、愛するコリントの教会へと同じ信仰へとの招き、勧めを語っています。 
 この時、パウロがどんな状態下にあり、どのような経験をしていたのかは、4節b以下の「苦難のリスト」から推察できます。「4b大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても」とあります。この手紙の11章23節以下にもさらに詳しい「苦難のリスト」が登場しますが、パウロは小アジア地方を伝道して歩く途上、その旅路において多くの苦難を経験したのでした。自分が日々経験している事柄を、彼は6章においては「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」とリスト化しています。
 
 このような苦難の経験を積み重ねていたパウロですが、直面している苦難に飲み込まれることなく、1〜2節にこう証しています。
 「1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。2なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。
 ここでパウロが引用しているのは、旧約聖書「イザヤ書」の預言で、49章8節からです。これは第二イザヤの預言ですが、第二イザヤという預言者は、バビロン捕囚の時に捕囚先でイスラエルの人々と共にあり、皆と同じ苦難を味わう中で、神のみ言葉を希望として取り継いだ存在です。後ほど「イザヤ書」49章8節を読んでいただければと願いますが、本来、第二イザヤはこの預言を、来たるべき日、神がバビロンからイスラエルの人々を解放してくださった日に成就するであろうという文脈で取り継ぎ、つまりは未来について語ったのでした。
 本来は未来について語られていた預言を、パウロはまず自らの、そしてコリント教会の“いま”を問うている神のみ言葉として聴こうとしています。第二イザヤの預言を引用した上で、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2節)と言葉を重ねています。こうした語りに、“いま、今日”こそが神に問われているのだという、パウロの信仰の確信がここにも表現されていることを思います。
 痛みや苦しみを抱えている「今や、恵みの時」なのであり、自分を取り囲む状況に注目するならば、あたかも神に見放されているとも見える「今こそ、救いの日」である、このようにパウロは自らの想いを越えて働く神の恵み、主イエスの救いの確かさについて証を為し、この信仰の実感に立って、“いま、今日”を真実に歩むようようにと混乱・分裂していたコリント教会の人々にも勧めたのです。
 
 このようなパウロの信仰に倣うのは、なかなか困難なことだと感じます。少しでも試練に遭い、想定外のマイナスの事柄に直面すると、すぐにショックを受け、苦しみの“いま、今日”を前向きに受けとめることができない、それが私の信仰の偽らざる姿であることを正直に告白せざるを得ません。
 現在、私たちは深刻な苦難にもう長く取り囲まれています。新型コロナウイルスはこの数日でますます感染が拡大し、全国の統計で言えば、日々、感染者数が記録を更新する、そうした勢いとなっています。それでいて国や自治体は有効な手だてを立案・実施しているようには思えず、あたかも感染蔓延を放置しているごとき惨状であり、強い憤りや苛立ちを覚えざるを得ません。
 こうした事態に直面して、揺れ動いている自らの心と向き合う中、ふと蘇ってきたのが「メメント・モリ」との言葉でした。中世ヨーロッパ、ペストが蔓延する状況下、「メメント・モリ」(死を覚えよ/死を忘れるな)と互いに呼びかけ合い、苦難の只中でも自らを律し、神の御旨に聴き、そうした時にも御心に生きようとした修道士たち、彼らの祈りや信仰、これに私も少しでも近づき倣っていく、そんな必要を感じています。
 苦難・試練の最中にあっても冷静さを保ち、“いま”この時、何を神から求められているのか、今日のパウロの語りを深く心に留めることができればと願います。パウロは幾多の苦難を経験しつつも、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と告白し、またこの語りを私たち一人ひとりへも向けていることを思います。