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礼拝説教(テキスト)

2012年2月12日「解放される…罪から、苦しみから」(ヨハネによる福音書5:1〜18) 柳下仁牧師

 イエスはエルサレムに入っておられます。
 「その後、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。」
 この祭は、ユダヤ人の三大祭りの一つ、仮庵の祭と思われます。エルサレムの北東の隅、神殿の丘のすぐ北にベトザタの池というのがありました。「ベトザタ」とは、イエス時代の通用語アラム語で「オリブの家」という意味です。口語訳では「ベテスダ」となっていました。へブル語で「憐みの家」という意味で、イエスが奇跡の癒しを行われたところとして、池の名前をそれらしく変えて、話を伝えたのかも知れません。
 この池には五つの回廊があって、そこにはいつも大勢の病人が横たわっていました。普通のことでは治る身込みのない、絶望的な状態の人々が集まっていたのです。
 さて本文では、3節の後に十字架マークがついて4 節が抜けています。これはギリシア語聖書の重要な写本にないので、後世の書き込みかも知れないとして入れていないというしるしですが、ヨハネ福音書の結びのところにありますので、ちょっと見てみましょう。本文が理解しやすくなる文面です。
「彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」
 池の水が時折動く、そのときに誰よりも早く水に入ると癒しの恵みが与えられると信じられていたのです。間欠泉のように、湧きだす水が一定の時間をおいて噴き出す、そのような泉だったのでしょうか。
 「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。」
 イエスはその人に目を留められました。この人の身体は自由に動けないようですから、この状態で三十八年もよく生きていたものだという感じを受けますが、これはイスラエル民族の荒れ野の四十年を示唆しているという解釈をする学者もありますので、事実であったとも言い切れません。普通の人が三日も寝ていたら、それだけで病気になってしまうでしょう。この人が真実長期間寝たきりでいたのか、奇跡の伝説として伝えられているうちに、話が大きくなってしまったのか分かりませんが、ともかく、並々ならぬ長い間苦しんだ人なのです。
 イエスはこの人に「良くなりたいか」と問われました。この人は病気ばかりでなく、孤独にも苦しんでいたのではないでしょうか。
 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
 共観福音書にある有名な「中風の人の癒し」の物語には、屋根をはがして中風の人を乗せたマットレスをつり下ろす友だちの話がありますが、彼はそういう友人にも恵まれていなかったようです。ほかの人が順々に治っていく中で、自分だけが置いてけぼりであるのはいっそう悩みを深くしたでしょう。失望しながらも池のほとりから離れることはできない…。
 イエスは「良くなりたいか」と問われました。この言葉には孤独な病人に対する深い憐みが込められています。「あなたはどんなにか良くなりたいことだろうね。」病人の答えを聞かれたイエスは、ただちに癒しの業を行われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。
 すると、その人はすぐに床を担いで歩きだしました。
 さて、この人が癒されたのは安息日でした。このころ、ユダヤ教の安息日の規定はたいそうこまごまと厳しいものになっていました。
 安息日の決まりについては旧約の出エジプト記にありますが、その意味は二つありました。一つは、世の初め、神が天地を創造されたとき、第七の日に天地創造を終えて休まれたので、それにならって仕事を休んで神を賛美する日とするというものです。もう一つは、神にならって休むのは同様なのですが、自分だけではなく、家族も雇い人も奴隷も他国人もみな休ませなさいという人道的な命令なのです。安息日の本来の意味が忘れられて、ただ人々の生活を束縛するだけの決まりへと堕落していました。禁止条項が三十九箇条、それを守るための禁止行為が二百三十四項あったというのです。字を一字書くのは構わないが、二字書くのは違法であるなどと、どうでもいいようなことが決まりとして通用していました。癒された人が床を担いで歩くのは安息日違反であるというわけです。
 イエスはそういう状況に対して「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言われたのです。(マルコ2:27)
 病気を癒された人とユダヤ人との安息日についての問答はよくあるパターンですが、後半でイエスはこの人と境内でもう一度お会いになります。そのときのイエスの言葉はちょっと不思議です。
 「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
 このころのユダヤ人の常識としては、治らない病気や大きな不幸などはみな罪の結果だという因果応報の考え方がありましたが、イエスはそうはお考えになりません。この人の病気についても、罪のことなどは一言も触れずにただ病気の苦しみから解放してくださったのでした。寝たきりの人は罪を犯す力もないでしょう。「元気になって動き回って罪を犯したりしたら、病気で苦しんでいるよりも悪いことになる。恵みの中に止まりなさい。」ということでしょう。
 人は皆、罪の中に生れ罪人である、というのが伝統的なキリスト教の人間理解でした。そして罪の赦しが福音の始まりなので、まず自分が罪人であると自覚せよ、そしてその罪がイエスに赦されることが救いであると知れ…毎週こう説教されては、教会に来るのが苦痛になりますね。わたしたちは神様について、あまりに小さく囚われた解釈をしていたのではないでしょうか。
 世の初め、神は人間を良いものとして造られました。その人間が、病気であれ、災害であれ、罪によるものであれ、生きることに苦しんでいる・・・それは神の望まれることではないのです。
 現在、わたしの五十年来の親友が死の床にあって、葬儀をどうやるかについて本人と相談しています。彼女は信徒ではありませんし、わたしも彼女にキリスト教を説いたことはないのですが、自分からキリスト教でやってほしいと言いだしました。重い病気でありながら、持ち前のユーモア感覚が豊かで、いつ会っても楽しい人です。私は実は、彼女に同情など感じる以前に、笑い話がしたくて会いに行っているのです。
 彼女の生涯には神の恵みが本当に豊かであり、昨年療養ホームで見送った自身の母の最期などに関わって、本人もそのことを理解していると打ち明けてくれました。
 神は、神に造られたすべての人が、生き生きと希望を持って生きることを望んでおられます。そしてそうなるようにと、さまざまなことを一人々々に備えてくださっています。わたしたちは次第にそのことに気づき、ついには御心を求めて神を知るようになるのです。