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礼拝説教(テキスト)

2012年2月19日「〈いのち〉で笑え」(ルカによる福音書6:20〜26) 有住航伝道師

○〈笑うイエス〉をめぐって
 昨年の秋頃、台湾から宋泉盛(ソン・チュンシュン)という神学者が「笑うイエス」という、大変興味深いタイトルで講演をされる、というのを聞きつけ、参加してきました。
 その講演の中で、宋泉盛氏はこのように問題提起をされました。わたしたちの教会はあまりにも厳粛な雰囲気過ぎるのではないか。台湾や日本に入ってきたキリスト教は西洋の目で見たキリスト教で、そのようなキリスト教は「厳粛さ」を非常に大切にするが、そのキリスト教の形は、現在の、アジアの、わたしたちの生活実感に合っているのだろうか、彼はそのように問いかけます。そして、インドで見た「笑うイエス」を描いた一枚の絵に衝撃を受け、現在のインドの厳しい現実の中で必要とされているのは、西洋のキリスト教の中で育まれた「真面目で厳粛なイエス」ではなく「笑うイエス」なのだということを確信するに至るわけです。
 たしかに、教会の、とくに礼拝というのは、非常に厳粛な感じがいたします。そこでは、腹を抱えて笑ったりすることは、まずない。説教者がどんなことを喋っても、せいぜい「微笑」、あるいは「失笑」がほとんどであります。たしかに、実際に「失笑」するしかないということも往々にしてよくあるのですが、礼拝はやはり厳粛にし、説教者の話にも、大笑いはせず、神妙に聴くべしというふうに、そのような形で礼拝を守るのが当たり前になっているのではないかと思います。しかし、礼拝形式というのは、本当に多様であります。礼拝に出席する人々がどのような人なのかによっても、礼拝の形式は変わります。早稲田教会の第1礼拝は、こどもたちが多く参加する礼拝なので、こどもたちに合わせた礼拝づくりを心がけていますし、儀式を重視して行う礼拝もあれば、説教中心の礼拝もあります。少人数で机を囲むようにして行う、早稲田教会の夕礼拝のような形式もあれば、参加型の礼拝もある。わたしたちは、自分のところの、いつもやっている礼拝の形が、当たり前だと思いがちですが、礼拝の持ち方というのは、教会によって、またその時その時によって、本当に多様であり、それぞれのスタイルがあるわけです。早稲田教会は早稲田教会の大切にしている礼拝形式があるわけです。
 唯一、絶対的な聖書の解釈が存在しないのと同様に、唯一、絶対の礼拝形式もありえない。だから、それぞれで考えたいろいろな礼拝があって、それでいいわけです。なので、「笑い声」の出る礼拝や、非常に賑やかな礼拝も大いにありえるはずですが、そういう礼拝にはなかなかお目にかかれません。
 このような「厳粛さ」を重んじるというスタイルは、もしかするとわたしたちの聖書の読み方にも影響を与えているかもしれません。わたしたちは「イエス・キリスト」をどのような方であるとイメージしているのでしょうか?イエスはあまり笑ったりしないような方である、そんなイメージを持っている方も多いのではないでしょうか。
 実際、福音書には、具体的に「イエスが笑った」という箇所はありません。これはもちろん翻訳の影響もあるのですが、わたしたちは、どちらかというと「厳しく厳粛なイエス」の姿を、福音書の中に見出しているのではないでしょうか。そのような中で、今日の箇所、ルカによる福音書6章20節以下にあります「幸いの詞」の物語で語られている、「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」というイエスの言葉は、わたしたちがイメージしているような「厳粛で真面目なイエス」というものからすると、少し意外な表現のようにも思えます。
 「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」というイエスの言葉、「笑うこと」について語るイエスの言葉を、わたしたちはいまどのように読むことができるでしょうか。この言葉を「解放をもたらす福音」として読むことはできるのでしょうか。

○パレスチナでの経験
 「笑う」ということについて思い起こすことがあります。それは、かつて訪れたパレスチナでの、ある出会いです。パレスチナは、60年以上にわたってイスラエルの軍事占領下にあり、そこに住むパレスチナ住民は、大変な抑圧と暴力に日々さらされているわけですが、私が出会ったパレスチナの青年たちは、誰も彼も「よく笑う」人々でした。彼らは互いにジョークを飛ばし合い、小さなことにも腹を抱えて笑います。
 ある時「どこから来たのか」と尋ねられたので、「日本から来た」と答えると、「オー、ジャッキーチェン!」と言ってくるわけです。明らかに間違っているわけで、ええかげんなもんですが、わたしもヨルダン人とレバノン人の違いは分からないので、仕方ないかなとも思います。そんな彼らと過ごすうちに、緊張がほぐれてきて、一緒にジョークを飛ばし合うようになりました。しかし、改めて考えてみるまでもなく、彼らはまったく「笑えない」日常に置かれています。イスラエル軍による厳しい抑圧と不条理な暴力にさらされ、不当な人権侵害を受ける毎日、それが彼らの生きている日常です。わたしが滞在したパレスチナのYMCAにはリハビリテーションセンターがあり、そこに集まってくる青年たちは、イスラエル軍の暴力によって身体をと心を痛めつけられた人々でした。ジョークを飛ばし合い、腹を抱えて笑い合っていた彼らは、そこにリハビリに来る人たちでした。
 ある日、彼らから携帯の動画を見せられました。またおもしろ・しょうもない映像なのかな、と思って覗き込んでみると、それは彼らの友人の葬式の映像でした。イスラエル軍の発砲した弾丸の流れ弾が、仕事中であった彼に命中し即死したという。画質の悪い映像から、嗚咽と叫び声が聞こえてくる。その時の彼らの表情を私は忘れることができません。そんな日常の中で、彼らはなぜジョークを飛ばし合おうとするのか、人に優しくしようとするのか。わたしはすっかり混乱してしまいました。
 わたしたちに同行していたパレスチナYMCAのスタッフは、このように語ります。

「わたしは昔日本に行ったことがあるけど、日本の電車の中って、なんであんなに静かなの?なんで誰もしゃべったり、笑ったりしないの?みんな、もっと笑わないといけないよ。パレスチナの人がなんでいつも笑っているかわかる?それはね、笑っていないと不安や恐怖に押しつぶされてしまうから。笑えない日常だからこそ、わたしたちは笑わないと生きていけないの。笑うことで、自分たちの〈いのち〉を守っているの」。

 「笑えない日常だからこそ、笑おう。そこにパレスチナの人々の、恐怖と抑圧の中で暮らす彼らの、生きるための知恵、生きるための〈たたかい〉を見ることができるのかも知れません。だから、もっと笑おう。自分の〈いのち〉で笑うこと、そこに希望を見出したい。」わたしは、学生時代に、パレスチナ報告をしながら、このような内容の説教をしたことがありました。

○笑えない日常と笑いを強要する日常の狭間で
 わたしのこの説教に、コメントをしてくれた友人がいます。

「パレスチナにおける『笑う』ということの、解放的な意味はよく分かるんだけれど、わたしは『笑う』ってことの中には、解放的な事柄だけじゃない、誰かをあざ笑ったり、小馬鹿にしたり、差別したりするときにも、笑いってのは起こるんじゃないか。同調圧力で、人を傷つける「笑い」というものもある。だから『笑い』ってことだけで、自分はそれをすべて丸ごとOK、というふうには思えない。」

 たしかに、「笑い」ということの中には、人を傷つける笑いがあります。わたしたちは、誰かが誰かを笑いものにする、そんな場面を、日常の中で山ほど目にします。そして、わたしたちも、たいしておかしくも、おもしろくもないのに、周りの雰囲気に合わせて、誰かを笑ってしまった、そんな経験がある方もおられるかもしれません。一瞬の笑いのために、周りの人によく思われたいために、血の気のひくような言葉を投げつけ、誰かを傷つける「笑い」を自ら生み出してしまう、そんな経験のある方もおられるかもしれません。
 あるいは、別に笑いたくもないのに、無理矢理笑わされる、ということもあるのではないでしょうか。わたしは昨年ある集まりに参加しましたが、そこで、ある講演者が、その講演の中で「笑うことは大切だ」というような趣旨から、突然聴いていたわたしたち全員をその場に立たせて、「さあ、みんなで笑おう、ハッハッハ!」とやり始めました。みんなビックリして、全然おもしろくもないし、まったく笑えないわけですが、冗談のつもりなのか本気なのか、笑わない人に対して「さあ、笑って、笑えよ」とけしかけていったわけです。
 まったく笑えない/笑いたくないときに、笑おうと思うから笑うのではなくて、強制的に笑わされること、それは暴力であり、また非常に危険な行為だと思います。
 なんだか、わたしたちは、笑えない日常と、無理矢理に笑わされる日常の狭間で、引き裂かれてしまっているような気がいたします。心からリラックスして、腹から笑うこともできず、しかし、周りからは笑うことを強要される、これは本当にしんどいことです。
 わたしたちは、自由に、リラックスして、笑うということができなくなっているのかもしれない、そのようにも思うのです。

○「笑っていこうぜ」
 しかし、イエスは繰り返し「幸いなるかな!」と語ります。社会の中でつまはじきにされ、逃れようもない絶望の状況にある人たち。悲しみに打ちひしがれて、泣いても泣いても気持ちが晴れない、そんなつらい状況にある人たち。そのような人たちは、いま笑うようになるのだ、と確信をもって語られる。それは、力ある者が、小さくされた者を笑いものにするときの「笑い」や、同調圧力によって無理矢理笑わされ、誰かを阻害していくときの「笑い」とは、本質的に異なる「解放的な福音」なのではないでしょうか。イエスが大胆に語った「笑うようになる」という救いの約束は、そのような「他人を笑う」こととは、別の次元にある、「神の国の福音そのもの」なのではないかと、私はいま改めて思わされています。
 笑えない状況の中で、それでも「笑っていこう」とすること。それは「祈り」だと思います。かすかな希望をたぐりよせようとする〈いのち〉の営みがそこにはあります。
 笑えない毎日の中で、笑うことを強要される日々の中で、それでも「いま泣いている日人は幸いである。その人は笑うようになる」というイエスの言葉を「解放の福音」として聴くとき、そこから〈いのち〉を新たにする、希望の歩みがはじまっていくのかもしれません。
 「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」、その救いの約束を信じて、心から、腹の底から笑い合える関係を、そんな場所を、みなさんと一緒に創りだすことができればと心から願っています。共に考え、歩んでまいりましょう。