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礼拝説教(テキスト)

2012年2月26日

「荒野より君を呼ぶ」(マルコによる福音書1:1〜8) 
  古賀 博牧師


○灰の水曜日を迎えて
 先週の水曜日(2月22日)は「灰の水曜日」でした。主イエス・キリストの苦しみと十字架とを覚えて過ごすレント(受難節)の最初の日を「灰の水曜日」と呼びます。
 代々のキリスト者たちは、この日からイースターまでの主日を除く40日間、主の受難を覚えて悔い改めての祈りに集中してきました。荒野の40年、あるいは主が試みを受けた40日40夜に重ねてのことです。
 その日から教会暦に合わせて典礼色も悔い改めを表す紫に変わりました。私たちもこのレントの期間、主イエス・キリストの苦しみを覚えつつ悔い改めの祈りに集中したいと願います。
 * * * * * * 
 この数年、「灰の水曜日」には「灰の祈り」を行っています。用いるのは「棕梠の主日」で使用した棕梠の葉です。イエスが都にエルサレム入城する際、民衆たちは棕梠の枝を打ち振るって大きな喜びを露わとしました。ところが、イエスを王として都に迎えたはずの人々は、すぐにイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ者と変わってしまいます。棕梠の葉は、このように実に移ろい易い人の心やそのはかなさ、つまりは私たちの弱き心を象徴しています。そして、棕梠の葉と悔い改めの祈りを書いた紙を炉で燃やし、祈りを神に届けようとするのが「灰の祈り」という式です。
 「灰の水曜日」には、典礼を重んじる教会では、棕梠を葉を燃やした灰を教職者が人々の額に十字架の形につけます。灰をかぶるという旧約聖書時代からの悲嘆と謙遜の行為を引き継いでいる儀式で、額につける灰の十字架を灰の刻印と言い、これは「痛悔者」の印でした。
 古くから教会では、教会とそこに集う人々の前で公に自分が神に対して犯した罪を告白し、悔い改める意志を持った者を「痛悔者」と呼んでいました。この「痛悔者」は、「灰の水曜日」から洗足の木曜日に至るまでの6週間の期間、謹慎の生活を送ったのです。その間、教会への出入りが禁じられ、身を清めて祈り、苦行に専心しました。この人々は苦行用の衣をまとい、頭から灰を被ったそうです。4世紀から10世紀まで、こうしたことが行われていました。
 後にこのことの規定は緩和され、人知れず密かに罪を悔いることが推奨されるようになり、レントを悔い改めつつ歩むことの象徴的儀式として「灰の水曜日」に額へ灰の刻印がなされることになります。
 灰を用いることで、まず第一に私たちが灰に過ぎない存在であることを思い起こし、御前に謙ること、第二には滅び・死の象徴である灰を用いて、死を忘れることなく、許されて命ある期間、自らの罪を思い、神に喜び・受け入れられる生き方へと方向転換すること、つまりは悔い改めが課題となること、特にこの二つのことを「灰の水曜日」の「灰の祈り」に際して、レントへと歩み出すにあたっての信仰の課題として、集う者たちと確認しているのです。

○「荒れ野」で活動したバプテスマのヨハネ
 さて、今日は「マルコによる福音書」の冒頭部分から読んでいただきました。この福音書は、1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一句に始まり、続いてバプテスマのヨハネについて語りが続いていきます。
 4節以下にこう記されていました。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」。
 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストの先駆者となった存在で、「来るべきエリヤ」とも呼ばれました。この人は、紀元後27年の秋にユダの荒れ野にて宣教活動を開始し、専ら荒野での生活を続けたといわれています。
 バプテスマのヨハネは、元々はエッセネ派クムラン教団に属していたと考えられています。エッセネ派は、ファリサイ派・サドカイ派と並んでユダヤ教の重要な党派でした。共同体生活を営み、入団のためには厳しく長い審査が必要で、私有財産を否定し、全てをメンバー間で共有していました。独身主義で禁欲を重んじ、律法の研究に熱心で、水による清めの儀式を重んじました。クムラン教団が重んじていた水による清めの儀式が、悔い改めのバプテスマに繋がったと考えられます。
 バプテスマのヨハネの宣教の中心は、神の国の到来が近づいていると宣べ伝え、この事態に備えて悔い改めによる準備を行うことでした。このために、「悔い改めのしるし」としての洗礼(バプテスマ)を施したというのです。
 バプテスマのヨハネは、悔い改めのバプテスマを「荒れ野」でこそ宣べ伝えつつ、そこに身を置いて生活したのでした。これは、この人が「荒れ野」でこそ神のみ声を聴くことができたからであろうと言われています。

○沢崎堅造氏の「荒れ野」理解
 随分と前のことですが、戦前・戦中に行われた「熱河伝道」について書かれた文章を読みました。熱河とはかつての満州国の一部。1923年に中国の一つの省となった地域で、1933年に関東軍の行った熱河作戦によって、この地域は日本の支配下に置かれ、その後満州国の一部に編入されました。熱河省は戦後1956年に廃止されて、現在は河北(ホーペイ)・遼寧(リヤオニン)の二つの省と内モンゴル自治区とに分割され、編入されたそうです。
 熱河と読んで、すぐさまにその地域がイメージできず、ネットなどを用いて調べてみました。だいたい北京の北方とご理解いただければと思います。
 戦前・戦中、朝鮮半島及び満州国への伝道が日本の教会によって盛んに行われました。これは当時の日本帝国の朝鮮半島や中国への侵攻と相まっての事柄ですから、極めて批判的に捉えなくてはならないことです。そう思いながらも興味を惹かれた事柄があります。
 熱河への伝道は福井二郎という牧師が中心になって進めたそうです。この牧師は山口市出身で、戦前・戦中に限らず戦後も教団の伝道委員長として奄美伝道などに活躍しました。福井牧師は「熱河伝道」を推進するに当たり「熱河宣教塾」という宣教団体を組織したとのこと。
 「熱河宣教塾」の中心人物は、後に蒙古で殉教したという沢崎堅造。この沢崎堅造は経済学者にして伝道者であり、独自の「荒れ野」理解をもって「熱河伝道」を推進したというのです。
 読んだ文章に、沢崎堅造の「荒れ野」理解が記されていました。
 「沢崎堅造は…熱河伝道において独自の『荒れ野』理解を展開した。『主はどこへ行きたものであろうか。大陸へ、しかも北の方、満州から蒙古へと主は進み行きたもうようである。そこは厳しい自然と侵略と搾取にしいたげられた人々の住む、淋しい土地である』…『荒れ野とは元来『語る』という動詞から出ている。声のある所、という意味である。荒野とは人無き声無き所であるとだれもが考えているのに、それは神の語る所、神の声のある所とわかった。荒れ野は人無き所である。しかし神がいましたもう所である』」。
 「荒れ野」とは、厳しい自然と侵略と搾取にしいたげられた人々の住む淋しい土地で、神の語る所・神のいましたもう所、こうした一文を私は印象深く読んだのでした。
 * * * * * * 
 「荒れ野」はギリシャ語でερημοs(エレーモス)です。乾燥し草木の生えないごつごつとした岩の大地、あるいは砂漠を表しています。このエレーモスという言葉を、沢崎という人は、ε(エ)という「人の居ない場所」「寂れた場所」を指し示す接頭語と、ρημα(レ−マ/語り・言葉)が結合している語だと考えたというのです。つまり、「人の居ない寂れた場所での語り・言葉」が「荒れ野」という言葉の語源としたのです。「人の居ない寂れた場所での語り・言葉」とは不思議な表現ですが、こうした「荒れ野」にこそ神が居ましたもうて、そのみ声を聞くことができると、旧約聖書時代から人々は捉えていました。
 確かに旧約聖書、また新約聖書においても、「荒れ野」とは神と出会う場所、そのみ声に接する場所とされています。エジプトを脱出したイスラエルの民は、モ−セに導かれて「荒れ野」の旅を続けなければなりませんでした。「出エジプト」の出来事、40年にもわたるこの旅を「信仰への旅」と称する人があります。人間がただ自分の力に頼って生きていこうとする「不信仰」のあり方から、神にこそ信頼する「信仰」へと、その生きる方向を変換されるために、人々は「荒れ野」を彷徨う必要があったのだというのです。また、このように深く、また真実に打ち砕かれる機会を、イスラエルは神によって備えられたのだというのです。
 旧約聖書時代の預言者たちは、「荒れ野」で神のみ声を聞き、偶像礼拝にとりつかれて神を離れ、罪の歩みを為し続けるイスラエルへと、そのみ声を執りつぎました。

○私たちにとっての「荒れ野」とは
 それでは、私たち一人ひとりにとっての「荒れ野」とはどこで、私たちはその「荒れ野」とどんな関わりを持ち、どのように神のみ声を聴いているのでしょうか。
 ふと思い起こした高橋たか子さんの語り。この方は、作家・高橋和巳の妻で、夫が39歳の若さで癌にて召天した後に作家活動を始め、後にカトリックで洗礼を受けました。
 高橋たか子さんの書かれた『霊的な出発』という本があります。1985年に出版されたものです。かつて上林先生が説教にて取り上げられたことがありました。関心を抱いて買い求めて私も読みましたが、この本に実に印象深い一文が登場するのです。
 それは「砂漠」についての語り。この本の中で、彼女は聖書の「荒れ野」にはどこかしら抒情的な部分があると、もっと乾き切っていてドライな感じを表すために、あえて「砂漠」という言葉を用いています。「砂漠」=「荒れ野」と考えてよいようです。
 人間がその人生において歩まざるを得ない「砂漠」に関して、こういうことが語られているのです。「いわゆる地理的砂漠でもなく霊的砂漠としての修道院でも教会でもなく、世間的な喜び・慰め・安楽・快楽・啓発・保護といったものの只中にいて、それらが何ひとつ喜び・慰め・安楽・快楽・啓発・保護として感じられず、むしろ、自分にとって不毛と乾燥でしかなくなる時、つまり、世間においても自分においても死んでいる時、どんな世間的な只中にいてもそこは砂漠」なのだというのです。
 私たちは期せずして、生きていく過程でこうした「砂漠」に身を置かざるを得ないことがあります。そして水分補給ができないために、ついには感情の泉も枯れ果て、心の動きも止まったような感じで、ただただ自らを閉ざして歩んでいることがあります。
 しかし、「その砂漠において神と出会う」ともこの人は語ります。「砂漠」に長く彷徨い、もう完全に道も希望も見失っているような者にも、神はその「砂漠」において出会いを備えてくださるというのです。沢崎堅造は「荒れ野」を神の語りのある場としましたが、苦難の「砂漠」においてこそ、神は私たちに出会い、語りかけてくださるということではないでしょうか。
 できるなら、人生の「荒れ野」「砂漠」に直面することがないようにと祈っている私たち。それでも否応なく「荒れ野」「砂漠」に身を置かざるを得ない経験をするとしても、そこにも神の備えがあり、神との出会いに導かれると信じたいと願います。

○神との出会いから、もう一度、自分へ、世間へ
 高橋たか子さんは「砂漠について」という一文を次のように結んでいます。
 「砂漠の只中に井戸を見つける。そして、飲む。もう、その井戸の水を飲むほか何もないのだから。そこへ来るまでに歩いてきたところは、土と砂と岩だらけのところだったと知っているから。世間の砂漠を掘り、自分自身の砂漠を掘ったところに、主よ、その水をください、とサマリアの女は言った、生ける水の井戸がある。〜註これは、ヨハネ福音書4章の「イエスとサマリアの女」との出会いの記事から〜 その水とともに、自分へ、世間へ、戻る時、あたらしい人となる、ということだろう」。
 これは実に希望に満ちた語りです。「荒れ野」や「砂漠」での神との出会いを経て、私たちは信仰者として、新しい人となって、もう一度自分へも、また世間へも、新しい生へと戻っていくことが許されるというのです。
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 「荒れ野」「砂漠」を意識して神のみ声に聴いていく、こうした祈りへと私たちも集中したいものです。
 できれば出遭いを避けたい、そんな思いを抱く出来事や状況、あるいは場からも私たちに呼びかけるみ声があり、私たちは出会おうとしてくださる神があります。
 どんな事態の只中にも神のみ声をしっかりと聴き、私たちを救おうとする御心に満たされて、もう一度自分へ世間へ、新しい生へと戻っていく、そんな祈りと信仰とを求めていきたいと願います。