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礼拝説教(テキスト)

2012年3月11日

「本気で受けとめて」(ヨハネによる福音書11:17〜27) 
  古賀 博牧師


○東日本大震災から1年
 東日本大震災から1年を迎え、この1年をさまざまな形で振り返りみる、そんな日々をここに集う一人ひとりがお過ごしのことと拝察します。
 午後2時46分に、宮城県沖で震度7。すぐに大津波警報が出て、テレビではその警告が繰り返されました。直後から大津波、見たこともない真っ黒い水のうねりが全てを飲み込んでいきました。火災も各地で発生し、瓦礫が水の上で燃え続けました。
 翌日からは津波被害に加えて、福島第一原子力発電所の事故が報じられるようになります。放射能汚染の拡大は底知れぬ恐怖を生んで、不安に押しつぶされそうな日々が続きました。
 次第に明らかになっていく大震災の被災の現実、あまりに凄まじい被災状況に、絶望的な想いを与えられ続けた日々のことを、まずは思い起こします。
 その後、この事態へと対応するために、自分たちにできるだけのことをと、支援物資の集積や仕分け、運搬などへ力を注ぎました。この早稲田教会が自然発生的に支援物資の集積場所となったこともあり、実に多くのこの教会の方々、また周辺教会や早大YMCA、早稲田奉仕園などの団体との協力の下に、支援活動やボランティア派遣、募金活動とさまざまに行ってきて、現在も進行形である被災支援活動の数々をも思い起こします。
 この時、私たちの無力さを強く思いながらも、なお、その私たちに神が、主イエスがどう語りかけておられるのか、今日の聖書箇所から共に聞きたいと願うものです。

○現実の只中に生起する「神の栄光」
 今日は「ヨハネによる福音書」11章17節以下から、ラザロを巡ってのマルタ・マリアの姉妹と主イエスとの対話の場面を読んでいただきました。
 この11章の冒頭には、主イエスが深く愛していた三人の者たち、マリア・マルタとラザロあったということが書かれています。この内のラザロは何らか深刻な病に罹っていました。
 兄弟を何とか癒してほしいと願ったマリアとマルタとは、主イエスのもとに人を遣わせて、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。これに対して、主イエスは4節のように語られました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。
 ある人はここに、同じく「ヨハネによる福音書」9章に登場する「生まれつきの盲人をいやす」という奇跡物語に残されている主イエスの言葉を重ねています。弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と、出会ったその人の痛み・苦しみを全く顧みることなくく問いました。ところが、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、神の罰が下ったのでも、身体に負った障害の故に神との関係が切れているというのでもなく、この人の上に神の業が豊かに働き・現れると神の恵みを宣言されました。
 こうした宣言と同じ響きの語りが、ラザロにも、彼の深刻な病とその病の故の死の現実にも向けられているというのです。

○主イエスの愛に溢れた応答
 この主イエスの語りの背後に置かれている現実は、ラザロは死ぬという厳然たる事実でした。17節にあるように、実際にラザロは死に、そして「墓に葬られて既に四日もたっていた」と、その死が確定的な事実となっている様が描かれています。
 そして19節に「マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」とありますから、ラザロのための葬儀もその自宅にて営まれていたようです。
 イエスが近くまでお出でになっている聞いたマルタは、急いで迎えに出ます。そして、21節にあるように、恨みをも含んでいるであろう嘆きの言葉を主イエスに向けたのです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。
 11章に記録されている前段の物語を読むと、主イエスはマリア・マルタの願いにもかかわらず、なかなかラザロの下へは来てはくださらなかったのです。そのことへと恨みや辛みというものが、このマルタの言葉にはかなりストレートに含まれているように感じられます。
 しかし、また22節には「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」ともマルタは語っています。マルタはイエスを聖書的な形での神の子、キリストと信じていたのではなく、当時、地中海地方に何度も現れた「神の人」、つまりは奇跡な業を起こす人、奇跡的な治癒行為を為す人と捉えていたようなのです。ここでもなお、奇跡的な業を期待して、このように語ったのでしょう。
 24節の「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」も、27節の「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」も、そのままにマルタの信仰告白のようにも読めますが、どちらもユダヤ教の枠の内での考えや信仰であって、主イエスが宣べ伝え、また主が理解を求めている福音とは大きなずれがあるようです。
 そうであるとしても、主イエスの求めに直接的には応答できない者にも、「あなたの兄弟は復活する」と宣言してくださり、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と語りかけてくださっています。ここにこそ、主イエスの愛にあふれる姿が現れていることを思うのです。

○永遠なる神の命への参与
 キューバ系アメリカ人で、メソジストの歴史神学者フスト・ゴンザレスは、『キリスト教神学基礎用語集』において、〈永遠の命〉をこう解説しています。最初の部分だけを紹介します。
 “〈永遠の命〉
 新約聖書の中に繰り返し出てくる言葉で、キリスト教信仰の約束の一つ、厳密に言えば、死後の生は「永遠である」(eternal)というよりも、永続する(everlasting)というべきであろう。なぜなら、「永遠」は神だけに帰属するからである。他方、「永遠の命」という句は、延々と続く命を指すだけではなく、神における命、すなわち、永遠なる方である神の命に参与することである、ということもできよう”。
 しっかりと捉えたいと思いますのは記述の後半部分、つまり“「永遠の命」という句は、延々と続く命を指すだけではなく、神における命、すなわち、永遠なる方である神の命に参与すること”という部分です。主イエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と語られたのは、まさにこのことではないでしょうか。
 ここで、主イエスは、私たちにずっと生き続けることのできるいのちを約束されているのではありません。神のもとに開かれる〈いのち〉こそが語られているのです。
 ある人は、これを集合的時間であるクロノスの中に現れる、神の決定的時間であるカイロスだと解説していました。また、死を打ち破って、死が死でなくなる、死の現実の只中でも、その絶望を突き破っていく豊かな〈いのち〉だと語る人もあります。
 こうした「神における命、すなわち、永遠なる方である神の命に参与すること」をこそ復活の主は私たちに望み、また約束してくださっているのではないでしょうか。

○「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」に続く言葉
 『海が呑む 3.11東日本大震災までの日本の津波の記憶』という本があります。これは、作家・花輪完爾さんが、自著である『悪夢百一話』という本から巨大地震津波の痕跡を訪ね歩いて書いた4編に加えて、特別寄稿として山浦玄嗣さんの3.11東日本大震災の実体験記を収めている一冊です。それに加えて、山浦さんは「これからーエリ・エリ・レマ・サバクタニ」というもう一編も寄稿していらっしゃいます。
 「これからーエリ・エリ・レマ・サバクタニ」はこう書き出されています。
 “大地震、そして巨大津波。それらによる徹底的な破壊と二万人近い死。
 見渡すかぎり、瓦礫の野と変わり果てた故郷だった。人と魚の死体から発する猛烈な腐敗臭と不潔なほこりが空気中に充ちるところで、黙々と働く人々がいた。親族の遺体を探して泥を掘る人々がいた。電気も暖房もない、暗く寒い診察室には、雪のふりしきる中やってくる大勢の患者たちがいた。
 それらを前にして、私の胸に湧いたのは、まず強烈な闘争心だった。
 私だけではない。あのとき気仙衆は皆、猛烈に高揚していた。生きねばならぬ!その思いが、出来事のすさまじさに対する驚愕と衝撃からわれわれを守っていたのだろう。
 幼稚園児の一団が寒さに震えながら、コヒロド山の上から津波の引いた後の惨憺たる街を見下ろしていたが、誰に音頭を取られたわけでもないのに、いきなり大声で叫びだした。「津波になんか、負けないぞ!」咽喉も裂けよと叫びだすその声に、脇で聞いていた大人たちが奮い立ったという”。
 信仰によってこの闘争心を保ち、被災の現実の只中で、山浦医院に押し寄せてくる患者たちの診察を、ライフラインが全て止まっていても続け、困難を越えて彼らに必要な薬を手に入れ、それを無料で配布しながら、山浦玄嗣医師の心には「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という主イエスの十字架上での叫びが常に聴こえていたというのです。彼の心にはこの主の叫びが絶望の響きでではなく、常にこの上の句に下の句の慰めの響きが伴ったとのこと。
 今日ご一緒に交読した「詩編」22編は、ダビデが失意のどん底で歌ったもの。上の句はその1節です。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、つまりは「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」との嘆き。この上の句に続く、下の句の響きこそが大切だと山浦さんは捉えているのです。
 6節「助けを求めてあなたに叫び、救い出され あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」。この下の句の響きについて、山浦さんは次のように受けとめます。“おれだって知っているんだ。神さまは、助けてくださるとおすがりする者をお見捨てなさったためしがないだ!”。
 十字架の上で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と上の句だけを叫び、ついに下の句を継ぐことができなかった主イエス。この十字架の主は、私たち一人ひとりの次のように語りかけてくださると、山浦さんは「ヨハネによる福音書」11章25節をご自分の訳で示しています。
 “このおれには、人を立ち上がらせる力がある。活き活きと人を生かす力がある。このおれの言うことを本気で受け止め、その身も心もゆだねる者は、たとえ死んでも生きるのだ”。
 人を立ち上がらせ、活き活きと人を生かす力、こうした力にこそ、この方は、主イエスの復活を、また神が与えてくださる永遠の命の本質を感じ取っていらっしゃいます。

○「お前のやるべきことが、そら、見えるだろう!」
 山浦玄嗣医師は、「これから」との一文を次のように結んでいらっしゃいます。
 “「神さまんす、神さまんす、なしておらァどごォお見捨てなさりァんしたれ!」 
 だがこれは決して絶望の叫びでも、恨みの声でもない。
 呆然と立ちつくす私の肩をがっちりとつかんで、イエスは言う。
 「おい、元気を出せ。この生き死人め。このおれは死んでもまた立ち上がったのだぞ。そのおれがついているんだ! さあ、涙をふけ。勇気を出して、一緒にまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、そら、見えるだろう!」”。
 不信仰であり、復活の主イエスを信じ切れていない自分があります。それが故に、出遭う苦しみに対して呟きや嘆きばかりを吐き出し、事態に立ち向かうことのできない自分があります。特に今回の東日本大震災の被災の状況の前に恐れおののき、おろおろとして、為すべきことを忘れ、ただただ呆然としたまま過ごしてきたようにも思います。
 そのようなものにも、主は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と、“このおれの言うことを本気で受け止め”よと励まし語りかけてくださいます。この復活の主イエスはまた、私にも“勇気を出して、一緒にまた立ち上がろう。お前のやるべきことが、そら、見えるだろう!”と新たな歩みを促してくださる、そうした主の愛の深さを感じます。
 東日本大震災からの1周年のこの時、思い・祈りも新たに支援の活動の継続を願っています。こうした歩みを通じて、共々に信仰を深めつつ、「神における命、すなわち、永遠なる方である神の命に参与」してまいりたいと願います。“このおれの言うことを本気で受け止め”よと励まし語りかけてくださる復活の主イエスに従いつつ、託されている奉仕を続けてまいりたいと願います。