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礼拝説教(テキスト)

2012年3月18日

「エジプトへの避難」(マルコによる福音書 2:13〜15)
  有住航 伝道師


○「3.11」は終わっていない
 先週3月11日、家に帰ってテレビを付けてみると、すべてのチャンネルは「東日本大震災」のことを取り上げたニュース特番を放送していました。
 すべてのチャンネルが震災関連のニュースを放送している様を見て、1年前のさまざまな記憶が一気に甦ってきました。情報が欲しくてテレビを付けても、そこに写し出されるのは、わたしたちと同じようにたいした情報が得られず、右往左往し、しかし興奮した面持ちのテレビのスタッフ、コメンテーター、ニュースキャスターたち。繰り返し繰り返し流される津波の映像、福島第一原発の爆発の映像。さすがに気が滅入ってきて、チャンネルを変えてもまた同じ映像が流される。番組の間には、ひたすらACのCMがエンドレスに流れ続け「ポポポポーン」という不気味な声がこだまする。「ああ、もうテレビは壊れてしまった。情報はテレビではなく、自分自身で得なければならない」と強く思ったものでした。
 民放各局は、3月11日こそ長い時間を割いて、ニュース特番を放送しましたが、翌日の3月12日からは何事もなかったように「普段どおり」の放送に戻っていきました。しかし、3月11日が終わり、日付が変わっても、「3.11」と呼ばれるものが終わるわけではありません。1年たった今でも、一年前から何も変わっていない、置き去りにされたままの状況がある。いや、原発の放射能汚染のことを思えば、ひどくなっているとさえ言える。
 1年経った今でも、先の見えない不安と恐怖の中に生きざるを得ない、その暮らし、その生活は、どのようなものなのでしょうか。この1年、我慢して我慢して、取り乱さないように、パニックにならないように、気持ちを押し殺して、そうやって生きのびてきた〈いのち〉は、先の見えない不安と恐怖の中で、すり切れ、削られていく。人と人との関係性を、人の暮らしを、その〈いのち〉を、断ち切っていく放射能汚染の問題に直面して、また今だ手つかずのまま、放り出されている被災の状況に直面して、わたしたちは、いま何を思い、どのように生きていくことができるのでしょうか。それは本当に大きな問いです。

○〈博士たち〉とは誰か
 マタイによる福音書の2章にある「占星術の学者たちの訪問」の物語は、「ユダヤ人の王として生まれたことを、星を通じて知った」という「占星術の学者たち」が、ヘロデ王のところにやってくるところから始まります。ここに登場する「占星術の学者」とは、いったい何者なのでしょうか。
 新共同訳では「占星術の学者」と訳されていますが、ギリシャ語で書かれたギリシャ語テクスト本文では「マゴイ」とあります。「マゴイ」とは、古代ペルシャまたはバビロニア地方に住む賢者兼祭司のような人々を指す言葉であり、彼らは占星術と呼ばれた星占いや夢占いを行っていた人々だったようです。星を見て、はるか東の地からイエスの元へとやってきたのは、このような占星術の学者たちでありました。
 彼らは、エルサレムにいたヘロデ王のところに立ち寄り、「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいるのか。というのも、わたしたちはその方を星が昇るのを見たので、その方を伏し拝みに来たのである」と言います。
 占星術の学者たちの話を聞いて、ヘロデ王は動揺しました。そしてヘロデ王は急遽祭司長たちや律法学者を集め、その「キリスト」はどこに生まれることになっているのかを尋ねます。「預言によれば、メシアは、ユダヤのベツレヘムに生まれることになっている」ということを知ったヘロデ王は、そのことを占星術の学者たちに伝えると共に、このように付け加えました。「その幼子のことを詳しく探ってくれ。お前たちが見つけた折には知らせてくれ。わたしも行って、その幼子を伏し拝もう。」
 そうして送り出された占星術の学者たちは、ベツレヘムのとある家の中にいた幼子を見つけ、携えてきた黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげます。イエスを拝んだのち、占星術の学者たちは、夢でヘロデの元に戻らないようお告げを受けたため、別の道を通って、自分たちの地方へ帰っていきました。もし彼らが、ヘロデの元へ戻り、イエスについて報告をしていたら、どうなっていたのでしょうか。のちに、ベツレヘム周辺に生まれたイエスと同世代の幼児のいのちを奪ったと記されるヘロデのことですから、イエスやマリア、ヨセフのいのちも危なかったかもしれません。さらには、イエスのことを知った占星術の学者たちの身も危険にさらされたかもしれません。そのような〈いのち〉の危機は、占星術の学者に現われた夢のお告げ、具体的には「別の道を通って帰る」ということで回避されます。
 占星術の学者たちが帰った後、同じようにヨセフにも夢の中で主のみ使いが現れて、このように言います。「起きて幼子とその母とを連れ、エジプトに逃れよ。そして私がお前に告げるまでそこに留まれ。ヘロデが幼子を捜し出して滅ぼそうとしているからである。」
 ヨセフはすぐに起きだし、その夜の間に幼子とマリアと共にエジプトへと避難することで、イエスは、ヘロデの幼児虐殺の手を逃れるわけです。

○幼子イエスと幼子モーセ
 ここで気になることがあります。なぜマタイは、この「占星術の学者」たちをイエスの誕生の物語にわざわざ登場させたのでしょうか。
 聖書の中には、このマタイによるイエス誕生の物語に、非常によく似た物語があります。それは出エジプト記の冒頭、1章から2章にかけて記されているモーセの誕生物語です。この二つの物語は非常によく似ています。モーセもイエスと同じように、生まれた時に〈いのち〉の危機に瀕するわけですが、〈いのち〉の危機に瀕するその理由は「王による幼児殺害の命令」によるものでした。
 モーセは、ヤコブと共にエジプトへ移住したイスラエル人の末裔でありました。住み慣れた土地を離れ、遠く外国の地に移住したイスラエルの人々。彼らはその地で、外国人・寄留者として何代にもわたって生きてきました。しかし、定住し人口が増えてきたイスラエルの人々を嫌い、危険視した「エジプト」から、彼らは重労働を課され迫害されることになります。エジプトの王ファラオは、もしイスラエル人のこどもが生まれて、それが男子であった場合にはすべて殺すようにと命じます。モーセが生まれてきたのはそのような過酷な状況でありました。
 幼子イエスと同じように、幼子モーセも「王」という〈この世〉の権力によって〈いのち〉の危険に晒されていました。モーセは、自分の母親と王女という2人の女性の機転によって生き残ることになりますが、そのほかのイスラエルの男の子たちは、イエスの時代と同じように、王によって虐殺されてしまいます。そして、モーセ自身も身に降りかかる〈いのち〉の危機から逃れるために、イエスと同様、〈王の支配〉から逃れなくてはならなくなります。
 よく似た幼子イエスと幼子モーセの物語。もしかすると、福音書記者マタイはこの「モーセ物語」を下敷きにして、イエスの誕生物語を書いたかも知れません。そして、マタイ福音書を読んだ/聴いた者は、このイエス誕生の物語を「新しいモーセ物語」として受け取ったのかもしれません。

○まったく新しいモーセ物語
 非常に類似したふたつの物語。しかし、いくつかの点で違いも見られます。聖書の中に直接の記述は出てきませんが、モーセについて書かれたユダヤ教の古代文献には、モーセの誕生をファラオに告げたのは占星術の学者たちであった、と書かれています。ここでの占星術の学者たちは、まさにファラオの手下、イスラエルの幼児虐殺の共犯者として登場するわけですが、イエス物語に登場する占星術の学者たちは、これとはまったく反対の役回り、すなわち、イエスの誕生とその居場所を王に告げずに、イエスの〈いのち〉を助ける役回りを演じています。この役回りの違いは、モーセ物語におけるファラオが、そっくりそのまま、当時のイスラエルの王であったヘロデになぞらえられていることを思うと、非常に興味深いことだと思います。
 占星術の学者は、はるか東の異邦人の地から幼子イエスをイスラエルの真の王として礼拝します。その姿は、イエスの誕生を自分の地位を揺るがすものとして恐れ、自らの悪しき計画のために占星術の学者を利用しようとしたヘロデ王と非常に対照的に描かれています。
 最終的に、ヘロデによるイエス殺害という悪しき計画は、天使と夢のお告げを通じて与えられた方法、すなわち「別の道を通って帰る」ということ、そして「エジプトへ避難する」ということによって頓挫させられ、〈いのち〉の危機は回避されます。
 イエス、マリア、ヨセフが、ヘロデ王の手を逃れるための「避難の場所」として向かったのは、かつてイスラエル人が抑圧され、迫害され、こどもたちが虐殺された異邦人の地エジプトでありました。いまやエジプトの地は、イスラエルの王から〈いのち〉を守るために逃れてくる者たちのための「避難地」になるのです。
 かつての抑圧と迫害と虐殺の場所が、〈いのち〉を守るための避難の場所になる。このような〈反転した出エジプトの物語〉は、わたしたちに大きな示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

○新しい〈いのち〉の物語を
 2011年3月11日のことを、わたしたちは「3.11」というように呼ぶことがあります。その呼び名は、今や単なる日付というものを越えて、象徴的なトレンドになりつつあります。しかし、わたしたちの生きるこの〈世界〉は1年前と何も変わらない、依然として厳しい状況にあります。絶望的な「この世のおわり」に思えた「3.11」は、1年たっても、そこで終わるわけではありません。わたしたちの暮らしや生活は「3.11」以降も続いていきます。
 ザ・ブルーハーツというパンクバンドは、「Train-Train」という曲の中でこのように歌っています。「世界中に定められたどんな記念日なんかより、あなたが生きている今日はどんなにすばらしいだろう。世界中に建てられているどんな記念碑なんかより、あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう。」
 「3.11」を単なる記号として、トレンドにしていくことで、いまある〈いのち〉の危機を曖昧にするのではなく、いま生きている〈いのち〉、生き残った、しかし傷つけられた〈いのち〉が、これから生きのびていくための道を、共に手探りで探していきたいと思います。
 〈いのち〉の危機から「逃げること」、それは、何かの「終わり」ではありません。そうではなく、〈いのち〉が生きのびていくことから、その「避難の場所」から、新しい〈いのち〉の物語がはじまっていくのではないでしょうか。共に不安や悲しみや恐怖を分かち合いながら、共に生きのびる〈いのち〉の道を探していきましょう。