wasedach_title.png

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

礼拝説教(テキスト)

2012年3月25日

「暗闇から起きあがって」(イザヤ書60:1〜5/ヨハネによる福音書12:35~6)
  長尾有起神学生(現・池袋西教会伝道師)


○はじめに
 今日は、この早稲田教会でみなさんと一緒に礼拝をする、とりあえず最後の日曜日です。こうしてメッセージを語る機会を与えていただいたことに感謝いたします。
 初めて早稲田教会に来た日のことは、残念ながら私は覚えていないのですが、残念なのと同時に、記憶に残らないほどに、早稲田教会の雰囲気は私にとってなじみやすいものだったのだろうと思います。大学に入って実家を出てからしばらく教会を探していましたが、3年生のときに片岡平和さんに誘われたことがきっかけで早稲田教会に通うようになりました。それから5年半ほど、早稲田教会にお世話になってきました。
 この5年半の間に、私は大学を卒業し、神学校に入り、神学校を卒業しました。私にとって、自分の将来を決める多くの経験をした、濃密な時間が、私の早稲田教会との歩みと共にあったように思っています。

○第三イザヤの中心的メッセージ
 今日はイザヤ書の60章とヨハネによる福音書の12章から読んでいただきました。イザヤ書の60章は、公現日に読まれることの多い聖書箇所です。
 古賀先生も何度もお話くださっていますが、聖書学的にみると、イザヤ書はイザヤという一人の預言者についてのことが記されているのではありません。第一、第二、第三と分けられますが、このイザヤ書60章は第三イザヤの中心的箇所だと言われています。
 イスラエルの民はバビロン捕囚から帰還したものの、エルサレムの復興はままなりませんでした。希望への期待が大きくなればなるほど、その後の絶望感が与えるダメージは強くなります。イスラエルの民たちは、捕囚された民の解放、そこから全てがうまくいくと思っていたのに、期待していたような「回復」は訪れません。人々は経済的、社会的困難と宗教的苦しみの中にありました。すがっていた希望が遠ざかってしまうことで、心の中には、再び絶望の陰が迫ってきていました。
 重苦しい、先の見えない不安の中にあって、イスラエルの民たちは一体どんな気持ちでいたでしょうか。私たちはともすると聖書の中の話は「物語」であると捉えます。もちろん、物語としての側面があることは否定しませんし、聖書に書かれていることが歴史の出来事を写真に撮るように記録されているとも思いません。しかし、その物語を記した人がどのような状況に置かれ、いったいどんなメッセージを人々に伝えようとしたのかを、想像力を働かせて私たちの心に引きつけて捉えることで、聖書は様々な側面を私たちに見せてくれます。

○人と人との関係を引き裂く原発
 回復の希望が遠のいてやってこないこと、いつになったらこの苦しみから抜け出すことができるか分からない状態。これは、現在私たちが置かれている状況と似ているのかもしれません。
 これまでに何度かお話をしたことがあると思いますが、私は生まれてから11年間、青森県で育ちました。みなさんご存じの通り、青森県の六ヶ所村というところに、核燃料の再処理工場があります。私の両親はこの核燃サイクルの反対運動をやっていて、小さかった私も一緒にデモや学習会に行った記憶が残っています。そのような環境で育ったので、私は原子力発電には反対の立場でずっといて、大人になってからも、関連の書籍を読んだり、映画を見たりしていました。しかし、東日本大震災による福島第一原発の事故から、自分の認識の甘さを痛感させられました。政府や電力会社は色々言っていますが、事故から1年を経てなお、収束の兆しすら見えていません。
 原発に関しては、みなさんがそれぞれに思いを持っていて、私のこの話も複雑な思いで聞いていらっしゃる方もおられると思います。それでも私は、自分がこれまで経験してきたこと、出会ってきた人々との関係から、このお話をせざるを得ません。
 私が原発に反対をしているのは、私の体に悪い影響があるからというわけではありません。そうではなくて、人と人との関係を引き裂く構造の上に成り立っているのが原発だからです。事故の前から、ずっとそれはありましたが、事故後にそれまでよりもずっと見えやすい状態で、原発は人々を引き裂き続けています。どこの産地の野菜を食べるか食べないか。東京から逃げるか逃げないか。原発に賛成か、反対か。その強制的に選ばされる一つ一つの選択により、私たちは「こちら側」と「あちら側」に引き裂かれてしまいます。選びたくなくても選ばされてしまう、そして選ぶことでそれまで親しかった誰かとの仲が引き裂かれてしまうかもしれない。
 そんな状態で、私の心には暗闇が広がってきました。重たい、なんとも言えない閉塞感が私を支配していきます。一年前を思い起こすのがためらわれるほどに、その絶望的な気持ちは圧倒的でした。そんな中で、自分が選んだものとして、責任をもって反原発運動に携わっていくことがこの暗闇から抜け出していく方法だと私は思っていました。全ての原子炉を廃炉にすることで、この問題は解決されるはずだと思っていました。

○ジレンマの只中で
 しかし、先日、インターネットであるルポルタージュを読み、私はまた暗闇に飲み込まれた気がしました。それは、福島第一原発で収束作業をしている作業員の方へのインタビューです。『福島 原発収束作業の現場から ある運動家の報告』と題されたこのインタビューは、かなりの長文でしたが、私は一気に読んでしまいました。そこには私の想像を絶する、作業員の方たちの現状とその思いが描かれていました。
 想像を絶する、と今言いましたが、本当はちょっと考えれば分かるようなことばかりです。原発は電気を作っていなくても、その停止状態にするための装置が24時間動いています。そして今はその制御ができないため、24時間体制で作業がなされています。原子力発電所の作業員として働くためには、放射線管理手帳というものを持っていなくてはいけませんが、この手帳を持っているのは日本では8万人程度でした。その手帳には何が書いてあるのかというと、その人の被曝歴が書かれています。その人が一生で浴びることができる線量がその手帳によって管理されていて、その限界値まで浴びてしまうともうその人は原発で作業をすることはできません。つまり別な見方をすれば、被曝することが仕事、ということなのです。さらに、そのインタビューによれば、手帳を持っている8万人の労働者のうち、昨年中に3万5千人がすでに限界値まで線量をあびてしまったそうです。それほどまでに高い値の放射線を福島第一原発は出し続けているということです。そして、このままのペースでいくと今年の夏には残りの作業員たちも限界値まで達してしまい、労働者がいなくなってしまうだろう、ということも言われています。そうすると、事故の収束作業どころか、事故を起こしていない原発を停止させておくことすらできなくなる危険があるということでした。ましてや、日本中の原発を廃炉にするためには、数百万人の原発労働者が必要です。
 労働者の枯渇。しかし、今いったいどれだけの人が原発で仕事をしたいと思うでしょうか。体に悪影響があることは分かっています。利権の絡んだこの問題は、下請けの作業員たちの賃金は何度もピンハネをされて、手取りの金額はたいしたことはありません。しかも、線量が限界値に達するまでの期間限定で、終身雇用ではありません。ある意味、そのような仕事に就きたいですか?という問いさえも、暴力的だと言えます。なぜなら、今この瞬間にも、そこで働いている方々がいるからです。原発はなくなってほしい。これは私の変わらぬ願いです。しかし、たった1基の原発を廃炉にすることすらままならない状態で、自分以外の人を被曝させ続けながら原発を廃炉に、と叫び続けることが、私にはできなくなってしまいました。

○暗闇の中に居ることの気づきから
 このような状況で希望を持ち続けることは非常に困難です。しかし、絶望し続けることも同じぐらい、あるいは希望を持ち続けることよりもさらに難しいのかもしれません。その絶望的な状況を正面から見据え続けることが、いったいどれだけの人にできるでしょうか。恐怖から逃れるために、絶望的な状況にあり続けながら、心を麻痺させて生活するようになってしまいます。私は、原発反対の運動をすることで、なんとか希望を持ち続けようとしていました。しかし、希望を持ち続けると言うよりはむしろ、絶望から目を背けるために反対運動をしていたように思います。そして徐々に恐ろしさに慣れていってしまいました。
 絶望という暗闇に捕らわれたまま、自分が暗闇の中にいることにすら慣れ、自分が暗闇の中にいることをだんだんと忘れてしまう、そんなことが起こっていました。しかし、暗闇の中では、誰が自分の隣にいるかすら分かりません。もしかしたら自分が誰かの足を踏んでいることにすら気づかないかもしれません。わたし自身、そのような状況にあった、いや今でもいると言えるかもしれません。
 イエスも、その生涯の中で絶望に向き合ったことが聖書に記されています。今日お読みしたのはヨハネによる福音書の12章35節からですが、その前の箇所、27節からは、ヨハネ版のゲッセマネの祈りであると言われています。イエスは、自分の死、という圧倒的な絶望を前に「今、わたしは心騒ぐ」と言います。神に救いを願おうかと、イエスの葛藤が描かれています。しかし、イエスは死の恐怖から目を背けず、「わたしはこの時のために来たのだ」と言います。
 こんな、絶望との向き合いかたは、私には到底できそうもありません。恐怖から目をそらさず、むしろそこに飛び込んでいくようなこと。しかし、イエスはその同じ道を私たちに歩けと命じているわけではありません。イエスはこのように言っています。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。光を信じること、それが光の子となるための条件だと、イエスは告げているのです。
 また、イザヤ書も私たちに「起きよ、光を放て」と呼びかけています。「あなたを照らす光はのぼる」だから、あなたも起き上がって光りなさい、と。起き上がることと甦ることは、ヘブライ語であっても、ギリシア語であっても、聖書の中では同じ言葉であらわされています。つまずいて倒れた状態から起き上がることも、死から復活することも、同じように表現されています。「見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる」。まさに私たちも、そのような闇と暗黒の中にいるのかもしれません。そして、暗闇の中にいることすら忘れてしまっています。しかし、そのような私たちを照らす光がのぼるとイザヤは預言しています。私たちは自分が暗闇の中にいることに気づき、そこから起き上がることを求められています。

○仲間と共に暗闇に向き合う
 あらゆる問題が複雑に絡み合っているこの社会では、暗闇はあらゆるとこに遍在し、人々がそれぞれに持つ暗闇の内容はことなるのだと思います。内容は異なっていても、きっと誰もが、直視したくない暗闇を持っていることと思います。その解決の糸口が見えないまま、絶望という暗闇に捕らわれていることに徐々に麻痺していっているのではないでしょうか。誰が隣にいるのかすら分からない暗闇の中で、それでも私たちは光に照らされます。そこでやっと、自分が一人ではないことに気がつくのです。
 この絶望的な状況を一緒に見つめ、そこから起き上がろうとする仲間が与えられること、一緒に考え、一緒に立ち止まり、一緒にまた歩き出してくれる仲間がいることが、私にとってはまさに希望の光です。そのような仲間に会えたのが、他でもない早稲田教会だと私は思っています。青年会の友人たちだけではなく、年齢を超えた仲間、支えてくださる方がいるからこそ、私は暗闇から起き上がることができます。
 私の半分はまだ暗闇の中にあるかもしれません。自分の中の暗闇が全て消え去ることもないかもしれません。それでも、その状態に麻痺してしまうのではなく、そこから目を背けずに、起き上がって、暗闇と向き合うこと。そして、光の子として私たち自身も誰かの希望の光となることができるように、このレントの歩みをすすめていきたいと思います。