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礼拝説教(テキスト)

2012年4月8日(イースター礼拝)

「春—道連れなる方と共に」(ルカによる福音書24:28〜35)
  古賀 博牧師


○イースターを迎えて
 今日、私たちは春を迎えた喜びの内に、満開の桜に迎えられつつ、この礼拝へと集まってまいりました。
 主イエス・キリストは、十字架の上に血を流して死んで私たちの罪を贖い、そして三日目に復活なさって、新たないのちへと歩みを進めてくださいました。
 ここに私たちに対する神の救いが真実となったのです。
 こうした主の復活を記念するイースター礼拝を、今共々に捧げています。

○エマオ途上での復活のイエスとの出会い
 今日は「ルカによる福音書」からエマオ途上の物語の一部を読んでいただきました。主イエス・キリストの復活を証する記事の中で、私にとって最も印象的なのがこの物語です。
 エルサレムの西、約10キロばかり離れているエマオへと向かい、二人の弟子たちは歩んでいます。夕暮れ時の歩みであり、自分たちが大きな希望をかけ、つき従ってきたイエスが、権力者に捕らえられ、国家反逆の重罪人とされ、十字架の上に殺された、その悲しみを胸に、またこの痛みを分かち合い、語り合いながら、彼らはとぼとぼと歩みを進めたのです。
 そんな彼らといつしか歩みを共にし、語りかけ、聖書を説き起こしてくれた者があったとのこと。日が暮れ、宿屋に入り、一緒に食事の席に着いた時、パンを祝福して割くその人を改めて見つめ、彼こそが甦りの主イエスであると、弟子たちは気がついたというのです。
 この出来事について、弟子たちは実に印象的な証言を残しています。
 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
 「心が燃える」、これは失望・絶望に支配されていた心に、新たな希望が備えられ、生きる力が与えられたということです。ぱっと火がつく、即に燃え上がるというものではなく、炭火が長時間燃え続けるような、じっくりと静かな燃え方。
 全てが終わった、そんな暗い暗い想いでの歩みに、そっと寄り添うように近づいておいでになった復活の主イエス・キリスト。この甦りの主イエスに伴なわれることにより、弟子たちは絶望から希望へと歩みの方向を次第に、しかし確実に変えられていったのでした。

○「万物の回復」としてのイースター
 月刊誌『信徒の友』というものがあります。2年前から編集委員となり、この月刊誌に深く携わるようになりました。前任地の山口信愛教会では『信徒の友』を購読している会員が多かったこともあり、私も自然と定期購読者となりました。そのようにしてもう20年近く、この月刊誌を取り続けてきました。編集委員会では、毎号の講評の時間が設けられており、そのためにもかつてよりずっと真剣に読むようになりました。
 この月刊誌も変遷の時を迎えています。高齢化に伴う部数低下がもっとも大きな課題ですが、現代的な状況を踏まえて、一つひとつの事柄に対してどう聖書・信仰から展開できるか、また若い人にも届くような記事や内容をと、12人の委員・職員にて編集作業を行っています。
 4月号はイースターの特集号ですが、今回は東日本大震災の現実を踏まえて、今、この時代と状況の中で、イースターを迎えることの意味について考えました。そこで、副題として「復活と万物の回復」というものが掲げたのです。
 特集の巻頭言は、編集委員が持ち回りで書いていますが、今回は新年度の最初の号ということもあり、編集委員会での協議を踏まえて、長年、『信徒の友』の編集に携わっておいでになった元阿佐谷教会牧師の大宮溥牧師(委員会顧問)に書いていただきました。
 4月号の巻頭言に次のように記されています。

“今月はイースターの月です。主イエス・キリストの復活を記念し、喜び、復活の希望を新しくするときです。主の復活は、神の国の基礎を築くものであり、「死人のよみがえり」を約束するものですが、それは人間の復活と再生だけでなく、人間の堕落と共に始まった世界の壊滅が、新しい姿で回復することを約束するものでもあります。これをギリシア教父のオリゲネスは「万物の回復」と呼びました。主の復活は、人間の復活の基礎づけであるのみならず、世界と自然の回復の原動力でもあります”。

 今日、私たちがイースターを守り・祝う、その中で大切にすべき方向が示されているように思います。
 主イエス・キリストの復活は、人間の復活と再生にとどまらず、キリスト教の歴史を通じて、神に創造されたこの世界が新しい姿で回復する、この約束としても受けとめられてきたというのです。
 歴史の上で人類は何度も破滅敵な経験をしてきました。大規模な自然災害によって、また人間が引き起こし、多く国を巻き込んでの戦争によって、そのような事態が引き起こされてきました。今回、私たちは自然的災害に加えて、人的災害としての原子力発電所の事故による破壊、これら両方に直面しています。
 こうした事態に立って、今、キリスト者が、また教会が神の御心をしっかりと聴き、祈りをもって進むべき方向への示唆がこの一文の中にあるように思います。神による万物の創造に感謝し、それが自然災害によって、また人間が打ち立てた神話の破れによって、人の思いや技術の欠けによって破壊されているこの時、主の復活にこそ希望を置いて、万物の回復を課題としながら歩みを進めていく、その必要を思うのです。
 古来、イースターは、ギリシャ正教会をはじめとして春を迎えた祝いを重ねて守られてきました。長く厳しい冬が終わりを告げ、新しいいのちの芽生えと主の復活とが重ねて考えられてきました。こうした伝統にも、万物の回復の希望と祈りとが息づいてきたことを思います。

○「わたしも なすべきことをなしたい」
 『信徒の友』4月号の冒頭に置かれている「祈り」も、特集に連動してのものです。
 最初の段落にこう祈られています。

神さま 新しい年度を迎えます
けれど 重苦しい思いを引きずっています 
こころを 高く挙げることができません
肩を落として歩く 「エマオ途上の二人」を想起します
復活の主は こころ重い二人の道連れになり そっと支えてくださいました
主よ わたしたちの歩みにも 肩を並べてくださるのでしょうか

 エマオ途上の物語を踏まえて祈られています。肩を落として歩いていた弟子たち。心から愛し、慕っていた者の死、それも犯罪人とされての十字架上での処刑、これは弟子たちの心に大きな影を落とし、重苦しい思いへと至らせ、彼らの心は晴れず、高く思いを挙げることもできなかったはずです。しかしながら、ここに祈られている通り、「復活の主は こころ重い二人の道連れになり そっと支えてくださ」ったのです。
 * * * *
 この第一段落に続く、祈りの第二の段落には、このように祈られています。

神さま 被災した気仙沼の地で
「海よ よみがえれ」と祈りながら
山に木を植える人の姿を目にしました

 ひとりのキリスト者の働きについて祈られています。
 「海よ よみがえれ」と祈りながら、山に木を植える人、これは気仙沼で牡蠣の養殖を行っている畠山重篤さんのこと。彼は、長く牡蠣養殖を行う中で、海の豊かさは森の豊かさと連動していることに気づき、森は海の恋人と称して、植樹の働きをずっと担っておいでになりました。『リアスの海辺から』などをはじめ、多くの本をも著していらっしゃる、そんなキリスト者です。
 この方の養殖場、気仙沼の唐桑半島にあります。昨年の6月に千代田教会の太田春夫牧師と共にそこをお訪ねしました。養殖場へと至る道は地盤沈下でところどころ波をかぶり、かつては湾いっぱいに広がっていた牡蠣の養殖筏はそのほとんどが津波にさらわれてしまっていました。一緒に働く人々もその財産の全てを奪われました。ほとんどゼロからの再出発。
 しかし、この方はこれまでの祈りと働きとをやめたり、曲げたりするのではなく、「海よ よみがえれ」と祈りながら、深刻な破壊の只中にも、山に木を植え続けているというのです。 何とも時間のかかる作業です。しかし、祈りつつ、回復へと年月のかかる業を信仰によって担い続けようとしていらっしゃる、そんな方があります。この働きに、この方の復活の信仰を見る思いがします。万物の回復の希望と祈りに生き続けているキリスト者が、実際に東北の被災地にいらっしゃるのです。
 * * * *
 このキリスト者の姿を示して、祈りは「ありがとうございます」と続いていきます。

ありがとうございます
わたしも なすべきことをなしたいと思います
あなたの計らいに身を託して 一歩を踏み出します
こころを少し高く挙げて 歩みはじめます
主よ 道連れとなって 見守ってください

 この祈りを私たちも心に抱いて、再出発したいと思うのです。
 なすべきことを見定め、神の計画に身を委ねて、落ち込みがちな心を少し高く挙げ、一歩を踏み出したいと願います。
 こうした歩みに、この時、主イエスの復活を喜び、祝っての信仰が写し出されると信じて、共に進んでまいりましょう。