wasedach_title.png

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

礼拝説教(テキスト)

2012年4月22日

「この小舟にも」(マルコによる福音書6:45〜52)
  古賀 博牧師


○無理に追いやられ
 今日は「マルコによる福音書」6章45節以下を読んでいただきました。
 45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とありました。「強いて」とは、無理矢理にということで、こう書かれていることから、この命令に弟子たちがかなり強行に抵抗した様が読みとれます。
 弟子たちはなぜ主イエスの命令に抵抗したのでしょうか。これはガリラヤ湖の自然と関係しています。この湖には突然に暴風が起こるため、舟を操る者は注意をしなければならなかったのです。
 山に囲まれ、すり鉢の底のような湖なので、気温の変化に伴い、山から激しい突風が不意に吹き下ろすことがあるそうです。特に暑い日、蒸気によって湖面の空気が薄くなっていると、夕暮れに山上から湖を震動させるような突風となって激しく吹き下ろす、この突風が漁師泣かせだったとのこと。かつてここで漁師であったペトロはじめ数名の弟子たちは、こうしたガリラヤ湖の特性を知り抜いており、主イエスの命令に抵抗したのではないでしょうか。しかし「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」、湖へと漕ぎ出させています。
 * * * *
 案の定、小舟は強い風にあおられます。47節以下に「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」とある通りです。
 最も危険な時間帯である夕刻を、弟子たちは小舟の上で迎えました。湖には案の定、暴風が吹いたようで、またその風は一晩中吹き続けたようです。闇の中、荒れる湖の上で一晩、彼らは大変心細く、死ぬばかりの想いを味わいました。
 弟子たちの恐怖は、深い闇と湖の上に身を置いている事実から絶頂に達します。この時代、夜は悪魔的なものの支配にあると信じられ、また湖の底には魔物が住むと信じられていました。
 こうした最悪の状況をどこかで予想しながら、弟子たちは主の命令に抗ったのです。しかし無理にこの状況へと追いやられたのです。

○困難や苦難の最中で
 この物語は古くからキリスト者たちに好まれ、多くの人々を励ましてきました。私たちは、その人生の道筋において、試練や苦難、そして誘惑というものに否応なく遭遇します。このような私たち人間に必然の歩みを覚えて、代々のキリスト者たちは「こころみにあわせないでください」、試練や誘惑に直面することなく平安で過ごせますようにと祈ってきました。「主の祈り」にも「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」とあります。  
 そのような祈りを捧げる中にも、どうしても出遭ってしまう困難や苦難の最中で、多くの人々はこの物語に立ち返ってきたのです。
 神に選ばれたという喜びに満たされて信仰生活を送ってきたキリスト者たちが、一転して迫害・困難の只中に身を置くこととなり、一時は主イエスを見失うような状況に立ち至る、こうした体験を経て、主との改めての出会いが与えられ、主のみ声を聴く、そうした信仰の体験を通じて再度立ち上がることができる、そんなキリスト者の人生の遍歴をこの物語に重ねてきました。

○「日向の信仰」から「暴風雨に生きる信仰」へ
 49節以下にこう証言されていました。
 「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」。 
 主イエスは我らを見捨てたもうた、イエスなど信じて従うのではなかったと思っているところで、改めて主イエスとの確かな出会いが与えられる、最初はその主を幽霊だとまで言って恐れていたとしても、そのイエスから新たに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけられる、そしてこの出会いに感謝し、御言葉に深く信頼して再び歩み出すことを、代々のキリスト者は繰り返してきたのです。
 この点について、無教会派の指導者であり、聖書学者でもあった塚本虎二という人は、「日向の信仰」と「暴風雨に生きる信仰」とを対比的に語ったとのこと。全てが順風の時に神に出会い、喜びに満たされて信仰生活を送る姿を、この人は「日向の信仰」と名付けました。暖かい日差しを受けて、ぬくぬくと過ごしている状態を支えるには十分であるが、未だ成熟してはいない信仰だというのです。この「日向の信仰」を抱いていた人は、試練に出会い、激しい暴風雨に巻き込まれて信仰が一度は崩れ去ってしまう、そして激しい暴風雨の最中で新たに神との出会いを経験し、本物の信仰に歩み始めていく、このあり方を「暴風雨に生きる信仰」と言い表したとのことです。この「日向の信仰」から「暴風雨に生きる信仰」へと進みたい、この物語に重ねて多くのキリスト者は祈り願ってきたのです。

○教会は船(ある教会の建物より)
 早稲田教会と同じ東京教区北支区の54の教会・伝道所の一つに、東京池袋教会があります。これまでも様々な交わり・関わりを与えられてまいりました。
 長く加藤亮一牧師が奉仕されました。加藤牧師は、戦時中に日本基督教団よりインドネシア・アンボン地区の教会に宣教師として派遣され、1946年6月に復員するまでの3年半にわたり、現地にて伝道、神学教育に当たったのみならず、民衆の生活向上の業に従事されたとのこと。
 現地で深刻な病に罹りますが、アンボン地区の教会の兄弟姉妹の実に献身的な看病によって一命をとりとめ、この時に差し伸べられた献身的な愛に対する感謝、加えて戦争中に日本人が犯した数々のひどい行いの償いのために、残る生涯をインドネシアやアジアの人々のために捧げることを決意なさいます。こうして1963年に財団法人東南アジア文化友好協会を組織して、主としてインドネシアからの留学生の受け入れの働きを進められたのでした。
 さて、加藤牧師が長く牧会された東京池袋教会は、藤原位憲牧師の時代に、教会前の道路が拡張されることに伴い、新会堂建設を行うことになりました。2000年に建った新会堂は、教会の祈りを反映してとても特徴的な外観の建物となりました。
 教会のホームページにこうありました。

 “2000年12月…新会堂が完成しました。そして私たちの教会の信仰の確信と活動の目標をあらわすために、聖書にもとづいて礼拝堂と建物の外形を船の形にし、錨を取り付けました。錨は聖書によれば主イエス・キリストの十字架と復活の救いに対する希望、安全、不動、永遠の命をあらわします(ヘブライ人への手紙6:19)。船は新約聖書…より、主イエス・キリストが弟子たちと一緒に乗られた船の箇所に基づくものです。新会堂はこの錨を付け、十字架の主イエス・キリストを船長とし、私たちは船員となり、嵐の中でも神への信仰と神の約束への希望と神の愛を運ぶ船という私たちの信仰の確信をあらわしています”。

 古来、教会は自らを船に譬えてきました。そして、東京池袋教会のように、外観を船の形にしたり、また会堂の内部を船室のように設計したり、一人ひとりが掛ける礼拝堂の椅子を船と呼ぶ、そんなことを伝統としてきたのです。東京池袋教会のホームページに記されております通り、「新約聖書…より、主イエス・キリストが弟子たちと一緒に乗られた船の箇所に基づくもの。新会堂には錨を付け、十字架の主イエス・キリストを船長とし、私たちは船員となり、嵐の中でも神への信仰と神の約束への希望と神の愛を運ぶ船という私たちの信仰の確信をあらわ」してきたのです。
 そして、古くから教会は、この一艘の船に、悩む人、疲れた人、さまざまな重荷を負う人々を招き入れ、共に船出し、人生という航海を順風の日も、また逆風や嵐の中にも一緒に生きていこう、そんな確認をなしながら、深い結びつきのある共同体を形成したきたのです。
 新約聖書「ヘブライ人への手紙」6章19節に次のみ言葉が登場します。
 「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」。
 ここで希望と語られているのは、主イエス・キリストの存在です。主の福音と十字架からの愛と赦しは、私たち人間にとって荒海にも難破することのない「安定した錨のようなものであり」、またこの主イエスの伴いによって、私たちは神との間を執り成していただくことができる、そう聖書は語り継いでいます。この主イエス・キリストを希望とし、彼を船頭とする船に乗って進みゆく教会でありたいと願います。

○共に船旅する仲間として
 今日の午後、私たちは2012年度の教会総会を開催しようとしています。よき協議をなし、祈りを合わせて、備えられました新しい年度の宣教の業へと進んでいきたいと願っています。
 先週の総会議案説明会でも話題となりましたが、私たちの教会にとっての課題の一つは、集う者たちの交わりの形成です。今日集っていらっしゃる一人ひとり、ある人は自分の選択によって、またある人はたまたま偶然、ある人は強いられて仕方なしに、この教会へとお出でになったことと思います。人間の視点からはそうであるとしても、それぞれの方に、その事情の背後に不思議な神の導き・招きがあることも感じ取りたいものです。
 今日、この会堂に集っている者たち、神から見るならば、共に船旅をするようにとここに神ご自身が招いた一人ひとりです。十字架の主イエス・キリストを船長とし、船員となって同じ船に乗り込み、共に航海へと出発してほしい、そんな神の招きを私たちは受けています。
 その同じ船にどんな仲間が乗っているのか、どんな名前で、どんな歩みを為していて、何を課題とし、何を悩んでいるのか、同乗するように共に導かれている仲間たちのことを少しずつでも知っていく、互いを理解し、また受けとめ合っていきたい、そのように願っています。顔と名前を一致させ、またその方のことを具体的に覚えて互いに祈り合い、支え合う、そんな関係を深めていく働きを進めてまいりたいと願います。新しい年度、このことを課題としたいと思っています。

○この世で溺れる人々の…
 そして同時に、さらなる課題をも見定めたいと思うのです。
 今後の私たち、また私たちの教会の進みゆく方向を考えるためにも、次の語りに耳を傾けて今日の話を終わりとします。

“この世の荒波の中、この海の中、悪魔的な渦に巻き込まれてもがいている人がいます。泳ぐ術を知らずにおぼえている人がいます。小さな板切れを取り合っている人がいます。大きな重荷をくくりつけられて沈んでしまっている人がいます。そんな人のための働き人になれ、と私たちにイエス様は言われます。教会の宣教の課題はそこにあるのです。
 教会は船です。…主イエスは私たちに言われます。この世の海でおぼれ、もがき、漂流する人々のための働き人になれと。この海に向かって船をこぎ出せと。この船も荒波にもまれるまことに頼りない船に過ぎないかも知れません。けれどもこの船には、嵐をしずめたもう主が確かに乗っておられます”。

 同乗している仲間たちの結束を固めながら、この社会・世界の課題へも祈りを向け、それらとも取り組んでいきたいと願います。特にこの世の海でおぼれ、もがき、漂流する人々のための働き人、そうした人々と共なる船となっていきたい、そう祈ります。
 毎週共に祈っておりますように、東日本大震災の被災に苦しむ人々が、教会があります。そのことを忘れずに、この世に漕ぎ出し、そこでの出会いを大切にしたいとも思うのです。
 * * * *
 私たちの人生は、いつの時も順風満帆という訳にはいきません。試練・困難を避けたいと願っていても、そうしたものに出遭い、否応なく激しい風雨に巻き込まれてしまうことがあります。そして、そのような事態によって、今日の聖書箇所で言えば「強い」られるように予想外の歩み、苦難と試練の荒海へと投げ出されることがあります。
 しかしそうした中にも、新たに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」との御声を聞くことができる、主イエスが苦難と試練の荒海へでもがく私たちへ救いの御手を差し伸べてくださる、その恵みを信じ続けたいと思います。
 そこから、私たちと同じように人生の荒波にもまれ、喘ぎ、苦しむ人々を覚えて祈り、彼らをまたこの船へと引き揚げる働きを、主イエスと共に担っていきたい、そう願います。