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礼拝説教(テキスト)

2012年5月6日

「世界の破壊を防ぐため」(マタイによる福音書22:34〜40)
  古賀 博牧師


○旧約聖書の「最大の戒め」
 「マタイによる福音書」22章の「最も重要な掟」と題されている箇所を読みました。
 34節に「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」とあります。前段を見ますと、サドカイ派が復活を巡る問答において、一言の反論もできない状態へと追いやられ、今度はファリサイ派が集まり、「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」というのです。
 36節にあるように、律法の専門家はイエスを試し、また言質を取って主イエスを貶めるために問いを発したのです。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。数多くある律法から、何をここでイエスは取り上げるのか、そこから相手の律法理解や信仰のあり様を探り、何としてもこの者を裁いてやろう、この専門家は心にそうした思いを隠し持ちながらイエスの答えを待っています。
 * * * *
 イエスはお答えになりました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」。
 これは「申命記」6章5節を踏まえての語りです。「申命記」6章4節以下を読みます。
 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」。
 ここは、旧約聖書における「最大の戒め」と呼ばれている箇所です。
 イスラエルの民たちは、常に偶像礼拝的な環境に囲まれて生活を続けました。そんなイスラエルの民たちにとって、「我らの神、主は唯一の主である」というメッセージはとてもに重たいものであり、繰り返し心に刻むと同時に、日々の生活を通じて常にその生き方に反映させなければならない使信でした。
 * * * *
 「あなたの神、主を愛しなさい」とありますが、この「愛する」とは特別な表現です。当時、イスラエルの民が有していた神に対する感覚からすると、神は何と言っても恐れ敬うべき存在であり、「愛する」というような親密さ・あたたかさを媒介として交わり得る存在ではありませんでした。ところがイスラエルは、幾人かの預言者たちのメッセージを通じて、神と人との関係を実に深く親密なものと理解するようになっていきます。熱情とも言い得る程の愛を人間に対して示す神を、人間の側も常に喜ばせ、またその思いに誠実に応えられるようにと心を傾けていく必要などが、「愛する」という言葉には意味され、含意されています。
 「心を尽くし、精神(魂)を尽くし、力を尽くして」、つまりは「全存在をかけて、人格のあらゆる面において、例外や制約をもうけることなく」「主を愛」するよう求められています。
 この第一の戒めを主イエスが数多くの律法の中から選び出したこと、これは先に紹介したようにこの教えが旧約聖書において「最大の戒め」と呼ばれていたことからも、イエスの言質を取ろうとした律法学者に対しても十分に説得性を持ったものであったことでしょう。

○主イエスが加えられたもう一つの戒め
 加えて、主イエスはもう一つの戒めを示すのです。39節以下にこう語られています。
 「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。
 主イエスはここで、「レビ記」19章18節の教えを重ねて示しておいでです。「レビ記」19章18節にこう規定されています。
 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。
 この律法は「レビ記」の後半部分の中心的メッセージです。全体で27章まである「レビ記」は、前後半の二つの部分からなっています。前半が1章から16章まで、ここではイスラエルの民たちが「心を尽くして主なるあなたの神を愛せよ」との戒めをどのように展開し、守るべきであるかを語り継いでいます。そして17章から27章までが後半部分で、隣人を愛する教えがさまざまに展開されていくのです。
 第一に「神である、主を愛せよ」と教え、続く第二の教えとして「隣人を自分のように愛しなさい」と主イエスが教えたというのは、「レビ記」全体の総括でもあります。
 特に大切なのは、主イエスは神の教えを静かに止まった静的な戒め・教えとして受けとめるだけではなく、つまりは頭で理解する、記憶することに留めることなく、それを常に心に置きながら実際に生きていく、あるいは生き方を通じて実践するというあり方で、動的に捉えていらしたということではないでしょうか。

○二つの的を重ねて射抜く
 「神の痛みの神学」で有名な北森嘉蔵牧師の聖書講話が、現在、シリーズで刊行されています。一般の方々に向けてカルチャーセンターで行われた聖書講座のお話をまとめたもので、当然、実に解りやすいものとなっています。
 今日の箇所から語り継ぐのに、北森牧師は弓矢で的を射るとの譬えを用いていらっしゃいます。

 “戒めを守るといのは、たとえて言うと弓矢で的を射るようなものだと思います”と語られています。キリスト教でいう罪とは的外れという意味であって、逆に言えば正しさとは弓矢が的に当たることだというのです。
 ここには二つの的が示されていて、射る矢は一本しか与えられていない、さてどうするかと問うていらっしゃるのです。“今イエスは神への愛と隣人愛とを二つの的として出されましたけれども、もし神への愛が一つの的であり、人への愛がもう一つの的であるといたしますと、神を全身全霊を尽くして愛すれば、隣人を愛するということは不可能になるのです。逆に隣人を全身全霊をもって愛すれば、神への愛がお留守になるというわけです”。

 この語りに含められている一つの問い、実はこれは教会において長い歴史を通じて問われ続けてきたものです。現代日本のキリスト教においても、ごく身近なところで、どちらの立場に立つのが、そんな問いが一人ひとりに鋭く向けられることがあります。
 北森嘉蔵牧師は、この点についてこう語っていらっしゃいます。“ところがここに一つの工夫をいたします。それはAという的と、Bという的との中心を重ね遭わせて、二重にするのです。神を愛するという大きな的を背後に置き、隣り人を愛するという小さな的を前に置いて、Aという大きな的の中心とBという的の中心を重ね合わせると、どういうことになるでしょうか。そういたしますと隣り人を愛するという小さな的の中心を射る矢は、神を愛するという大きな的の中心も同時に射るのです”。
 こうしたあり方を、私たちは特にいまこの時、忘れてはならないと感じています。神への愛、隣人への愛、そのどちらかではなく、その両方の的を重ねる、主イエスご自身がここで旧約聖書の律法の響き全体を踏まえて、この二つの掟を同時に取り出して示しておられる、そのことの意味を深く受け入れたい、そしてこの両方の掟に忠実に誠実に生きたい、そう願います。

○世界の破局を防ぐために
 先般、ペシャワール会から会報が届いて、中村 哲さんの文章をじっくりと読みました。北九州出身で長くパキスタン・アフガニスタンで医療活動を続ける中村哲医師。キリスト者である彼は、最初、日本キリスト教海外医療協力会のスタッフとして現地に派遣され、その後、ペシャワール会を組織して、その地での働きを継続しておいでになりました。
 今や彼らの活動は辺境の地での医療活動に留まることなく、干ばつ対策、農業・教育などの分野にまで拡大しています。特に9.11以降のアフガニスタンへの米軍侵攻後は、かの地において水と食糧の確保のための「緑の大地計画」を推進しておいでです。
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 今回の会報には、乾き切ったアフガニスタンの大地で農作物を育て、飢え乾く人々を救おうと、水を川から取り込む取水堰準備工事を行ったこと、その過程での苦労や困難、またこの事業が多くの民衆の願い・祈りの下に置かれていることなどが詳しく報告されていました。
 青空教室で学ぶ少女たちへ向かい、米軍ヘリコプターが銃撃し、12名が重軽傷を負う、対抗処置として彼らが取水堰を建築している地に外国人の立ち入りが禁止される、米軍への攻撃を続けるゲリラたち、かなり神経質に反応している米軍。殺戮が繰り返されているとのこと。そんな中にも状況を冷静に分析し、貧しい民衆のためにとその活動は続けられています。
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 報告の最後に、この医師の実感が記されていました。こう書かれていました。

 “河が変わらず流れるように、私たちの仕事も続きます。血なまぐさいニュースが多いですが、この中にあっても、人々の幸せを願い、少しでも良心的に生きようとする者も少なくありません”。これは、ペシャワール会の働きに呼応して、現地の民衆たちが我が身の危険を顧みずに協力し、惜しみなく労力を提供してくれている、そんな事実を踏まえての語りでしょう。
 続けてこう記されていました。“そうした人の温かさこそが、かろうじて世界の破局を防ぎ、私たちをつないでいるのだと、最近考えます”。

 この語りを何度も何度も読み返しながら、無数の民衆たちの祈りや、貧しく乏しい状況の中にも良心的行いがこの時も続けられている、その事実を深く思わされました。
 と同時に、またこの日本にも彼らのアフガニスタンでの活動を覚えて祈り、募金に協力する多くの方々があります。編集後記「事務局便り」にこう記されていました。

 “この数ヶ月、罹災された方々から会費・寄付のご送金あり、中には「やっと仮店舗をつくり、そこにアフガンへの募金箱を置きました」と、会費とともにその募金をお送り下さる方もいらっしゃいました。未曾有のこの度の大震災の只中の方が、遙かなアフガンの人々へ思いをお寄せ下さる! 胸を熱くしてそれをいただき、感謝しつつ励んでおります”。

 私たちはこうした人々のあり方に学び、連なっていきたいと願います。力弱く、祈り・奉仕においても乏しい者ですが、「人々の幸せを願い、少しでも良心的に生きようとする」、そんな繋がりの中に身を置いて奉仕し続けたいと改めて思わされています。

○御心の的はただ一つではない
 我が家の小6の子どもが、飽きもせずずっと「ポケットモンスター」というアニメを観ています。毎回出てくる敵役のロケット団。ロケット団の武蔵と小次郎は次のような口上で登場します。「なんだかんだと聞かれたら…答えてあげるが世の情け…世界の破壊を防ぐため…世界の平和を守るため…愛と真実の悪を貫く…ラブリーチャーミーな敵役…ムサシ!…コジロウ!…銀河をかけるロケット団の2人には…ホワイトホール、白い明日が待ってるぜ」
 「世界の破壊を防ぐため…世界の平和を守るため」、これは私たちもそれぞれが心に抱いている祈りであり、思いです。このために何を為していくのか、ロケット団は「愛と真実の悪を貫く」というのです。しかも、ロケット団のやることは、実にせこく、すぐに彼らの仕業と分かり、成功率の極めて低い悪事です。こうした大いなる誤解を脱していきたいと願います。
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 大いなる誤解、残念なことにキリスト者の間にも見て取らざるを得ない時があります。自分たちは神と人との前に大いなる正義を貫き、敬虔で、神に喜ばれる信仰に生きていると堅く信じていながらも、実に形式的な律法主義に陥り、自分がどう生きているかを聖書に照らして問うよりも、自分の感覚でがちがちに構成した信仰によって他者を裁く、そんな状況があります。そんな誤った思いや信仰を、私自身の中にも確実に発見せざるを得ません。
 世界の破壊を防ぐため…世界の平和を守るため…、私たちに託されている御業があることを共に確認したいと思います。そして、御心の的は唯一絶対で、ただ一つ、神にのみ集中することではないのです。
 神への愛、隣人への愛、そのどちらかではなく、その両方の的をしっかりと重ねる、この両方の掟が主イエスによって「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と示されています。これらの両方を大切にした生き方へ進みゆきたいと願います。