wasedach_title.png

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

礼拝説教(テキスト)

2012年5月20日

「守り、伝え、つながりあうため」(ヤコブの手紙3:13〜18)
  古賀 博牧師


○言葉を生み出す心のあり様(信仰)
 今日は「ヤコブの手紙」3章の最後の部分から読んでいただきました。
 同じ3章の前半には「舌を制御する」との表題の下で、私たちの語る言葉とそれを生み出す「舌」について問われています。直接的には言葉を生み出す舌という器官が問題にされていますが、当然のことながら、言葉は舌が自分で勝手に動いて生み出されるものではありません。
 一番の問題は、私たちの心がどんなあり様なのかです。厳しく言えば、私たちの性根というものが、語る言葉を通じて表れ出るという面を否定できないように思います。
 * * * *
 本日の礼拝の招詞としたのは、「ルカによる福音書」6章45節。主イエスはこう語っておいでです。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」。
 「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と語られています。いつもドキッとする思いで読まざるを得ない主イエスの言葉ですが、人間の語りの真実を鋭く突いたみ言葉です。
 「心にもないことを言ってしまった」というお詫びの言葉が語られます。しかしながら、現実にはその人の心にあること、心にあふれていることがふと口を突いて出てくるのです。もちろん、その心、特に感情の浮き沈み、高ぶりや怒りなどによって、私たちの言葉は大きく様相を変化させます。しかし、そうだからと言って、全く心にない、これまで思ってもみなかったことは、私たちの口からは出ないのではないでしょうか。
 「ヤコブの手紙」は「舌」について厳しく戒めていますが、これは言葉を表面上は整えるというテクニックを問題にしているのではなく、その言葉が生まれてくる心の有り様、あるいは言葉を生む、それぞれの人の信仰そのものを問うているのでしょう。

○聖書の勧めと私たちの現実(呪いの時代のただ中で)
 「ヤコブの手紙」は、3章の前半で「舌」の問題を通じて、真実に神を賛美しながら、人を造り上げていく、そんな言葉の語り手となるように勧めています。
 13節に「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」とあります。ここで問題とされている「知恵」は、学問的・技術的な知識というものではなく、また人生経験から生まれる処世術や、また生き方や語りのテクニックというものでもなく、17節に「上から出た知恵」と書かれているように、神からの賜物として与えられ、それぞれの人に備えられる信仰による「知恵」やその力です。
 神からの賜物としての「知恵」は、具体的には13節後半に書かれている通り、「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示」されるというのです。
 特に注目したいのは「柔和な行い」の「柔和」さです。「柔和」というと、日本語では性格や態度が優しく穏やかであることを示す言葉ですが、聖書的には、「柔和」という事柄は主として神との関係においてとらえられています。どうしても自分を中心に発想し、また自分のことを最初に考えて行動するのが人間の常ですが、そうではなく、神に仕え、また人にも仕える者として、神の言葉や教えに忠実に、また誠実に生きようとする、そんな信仰者のあり方や生き方が、この「柔和さ」には含意されているのです。
 こうした点を踏まえて、ある人は、聖書の語る「柔和」さを、“暴力を放棄し、神への信頼の内に人間を信用して奉仕していく勇気”と解説しています。ギリシア語ではプラユースという言葉ですが、辞書を見ると、この言葉の訳語は、ただ単に「柔和」のみならず、寛容、あるいは友好性などというも並記されています。
 * * * *
 内田樹さんが『呪いの時代』という本を書いて、現代日本の状況を、呪いを切り口にして問うています。学会などでの論争の場面にはじまり、また特にインターネット上で、相手への正当な批判や批評ではなく、無闇やたらに相手を傷つける攻撃的な言葉、相手を沈黙に追い込むような言葉が数多く飛び交っているというのです。
 ネット上において、また実際の関係の中で、相手の言い分には全く耳を貸さず、互いに語り合う対話なんてものを成立させず、「私は正しい、おまえたちは間違っている」と感情を込めない棒読みのように繰り返すだけ、そんな冷たい言葉の応酬により、相互の関係にさまざまな破壊が引き起こされているというのです。
 このように、互いの関係を壊していくような態度や語り口を、内田樹さんは「呪い」と表現しています。その場では一見勝利しているようでも、そこから何も新しいものが生まれない、なお悪いことに自らのかけた呪いは結局は自分にも向かってくる、そうした中で関係性はもとより、人間そのものの破壊がどんどんと進んでしまっていると、内田樹さんは語っています。
 皆さんもネットに日々、携帯やパソコンでアクセスしていて、この呪いと言われているような言葉がそこに記されていたり、またそんな関係を壊していくような言葉の応酬をご覧になったことがあるだろうと思います。もしかしたら、そんな呪いに巻き込まれてしまって、とても嫌な気持ちになったり、深く傷ついたりということもあるかも知れません。
 この『呪いの時代』を読んでおりますと、改めて言葉の持つ暴力性、それが呪いという形で語られていることを思わされるのです。そして、それは単に言葉の問題というのではなく、私たちがどんな考え方や生き方をしているのか、それと用いている言葉とは密接に関連していることも感じさせられます。

○身に着けるべき言葉の方向
 『舟を編む』という小説があります。直木賞作家・三浦しをんさんの書かれたもので、今年の本屋大賞を受賞しましたので、どこの本屋でも平積みとなっています。
 最初に見た時、どんな内容なのか分からず、買い求めることはなかったのですが、新聞広告で辞書編集について書いたものと知らされ、興味関心を抱いて読みました。
 『舟を編む』というのは、国語の辞書編集について描いた小説です。この本の装丁が、この小説で描き出そうとしている「大渡海」という名前の辞書の外観を示しています。大きな海を渡ると書く「大渡海」という名の辞書。この辞書の名前に込められた思いが、本の中に登場します。

 「辞書は、言葉の海を渡る舟だ…ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために」

 私たちが用いている言葉、それはとても広く深い海のようなもので、そんな広さ・深さのある言葉を思いに従って操るためには、こうした言葉の海を渡っていく舟が必要だというのです。辞書という舟に乗って、その言葉の海に浮かび上がってくる、これはという言葉、今この時を照らす言葉を、光のように集めるのだというのです。「もっともふさわしい言葉で、正確に(私たちの心に浮かんだり、わき上がったりするさまざまな)思いをだれかに届けるために」、そんな作業が必要なのだと語られています。
 小説の主人公は、上司から辞書編集の仕事を引き継ぎ、監修の国語学者と共に、また後輩の編集者たちと協力して、「大渡海」という辞書の完成を目指していきます。
 言葉の採集、カード作り、学者や専門家への辞書の記述を発注する手続き、紙の選定などなど、かなり細かい点まで描き込まれています。何としても面白いのは、言葉の意味とその理解、そいうした語釈について編集者間で議論する場面など、なかなか読ませる一冊です。
 後に辞書編集部に配属された一人の若い女性編集者は、辞書編集に携わる中で、少しずつ変化し、成長していきます。彼女は自分の変化についてこう語っています。

 「辞書づくりに取り組み、言葉と本気で向き合うようになって、私は少し変わった気がする…言葉の持つ力。傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力に自覚的になってから、自分の心を探り、周囲のひとの気持ちや考えを注意深く汲み取ろうとするようになった」。

 このようにこの小説は、言葉のプラスの力をこそ語り継ごうとしています。今紹介した部分が深く心に残りました。「言葉と本気で向き合うようになって…傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための(言葉の)力に自覚的になってから、自分の心を探り、周囲のひとの気持ちや考えを注意深く汲み取ろうとするようになった」。
 私たちが手に入れるべきは、人を呪う、人を傷つける、そんな言葉ではなく、何よりも誰かを守る、誰かに思いを伝える、そして誰かとしっかりと関係を結ぶ、そうしたことに力を発揮する言葉や語り、こうした力を身に着けたい、そんな思いにさせられる一冊です。
 * * * *
 「ヤコブの手紙」3章は、舌禍というものについて語った上で、神の御心と、その御心に満たされて「柔和」に生きることを勧めています。この勧めは、“暴力を放棄し、神への信頼の内に人間を信用して奉仕していく勇気”をもって生きることを求めています。
 17節にこうありました。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」。
 なかなかこうした神の御心に満たされて歩み、それを証しすることは難しいものです。しかし、私たちは誰かを傷つけるために神に招かれているのではなく、誰かを守る、誰かに思いを伝える、そして誰かとしっかりと関係を結ぶためにこそ招かれているのです。このような使命を与えられていることを深く感謝しながら、私たちから人へと向かっていく言葉や態度を見つめ直し、少しでも整えていくことができればと願います。

○私のみならず、触れ合う他者の回復をも
 日本基督教会の久野 牧という牧師の『ヤコブの手紙』の連続講解説教集から読みます。婦人会でこの手紙について学んだ際に、この説教集から様々に教えられました。
 久野牧師は、私たちに一人ひとりに聖書はどう生きることを求めているのか、これに真面目に向き合っていらっしゃいます。今日の箇所のまとめとして久野牧師はこう語っています。

 “柔和な人は、神のみ心にそわない悪や罪の中にある人に対しては、正当な怒りとまた悲しみを持ちながら、その思いを暴力的に相手に対して表すのではなく、その人の中にある癒されなければならないものを見出して、その癒しのために祈り、行動することができます。これが対人間ということで表される柔和さではないでしょうか。罪の中にあり、不信仰に走り、神を否定する人の中に、回復されなければならないものがあることを見出して、その回復のために、静かに、しかし力強く祈り続ける、決して諦めることなく、その人との関わりを持ち続ける、それが柔和なあり方です。神から与えられた知恵を備えている者には、そのような柔和な生き方が可能となります。そのような知恵を賜物として神から受けて、あなたがたは人々の回復のために仕えて欲しい、それがこの手紙を書いたヤコブの願いなのです”。

 実際に破壊的な語りをなす人、そんな態度の人に出会った時、できるだけ距離を取り、そのような破壊的な態度や語りに巻き込まれないようにと、関わりを避けている自分があります。しかしこの牧師は、その人の中にある癒されなければならないものを見出して、その癒しのために祈り、行動することを、こうしたあり方を聖書から聴き取っていらっしゃいます。
 私自身が生き方を変えねばならないことを痛感します。言葉のプラスの力を身に着けることを課題とし、この力を具体的な関わりの中に活かす、そんな信仰へと進んでいけますようにと心から祈ります。