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礼拝説教(テキスト)

2012年5月27日(ペンテコステ礼拝)

「被災地の中学校へ」(使徒言行録02:01〜13)
  古賀 博牧師


○ペンテコステって何?
 今日、私たちは今年度のペンテコステ礼拝を迎えました。
 ペンテコステとは、ギリシャ語で50番目という意味の言葉です。ユダヤ教に過越の祭から50日目に「七週の祭」と呼ぶ、小麦の収穫を祝う祭がありました。後にこの日は、モーセへと十戒をはじめ、数々の律法が授与されたことを覚えて、律法授与の記念日として大切されるようになります。「七週の祭」には、多くの人々がユダヤに戻ってきて、神さまからの賜物として律法が与えられたことを記念した礼拝が捧げられました。この「七週の祭」をギリシャ語に翻訳したのがペンテコステ。つまり過越祭から7週、つまりは49日を経過して50日目、という意味です。
 ペンテコステには、弟子たちへの聖霊の降臨と、またこの出来事によって遣わされていくものという存在である使徒へと変えられたことを記念します。そして、使徒たちの宣教により、世界各地に教会が成立していきました。こうした今から2000年前の出来事を記念し、また今も神から注がれ、この世に働きたもう聖霊をしっかりと受けていく、このことば今日の礼拝の方向であり、課題でもあります。

○隠れ暮らしていた弟子たちが…
 主イエスの復活の後も、エルサレムに隠れ住んでいた弟子たちでした。この弟子たちのもとに現れた主イエスは、彼らにこう告げられます。使徒言行録の1章5節以下から、主イエス・キリストの予言をご一緒に確認しておきましょう。
 「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』。8こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。
 ここで主イエスは、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語っておいでです。
 * * * *
 主イエスの予言を聞いた弟子たちは、この語りをそのままには受けとめ得なかったことでしょう。ひっそりと隠れて、人目につかないように暮らしていた彼らには、エルサレムはおろか、ユダヤとサマリアの全土まで出ていくことなど、予想すらできませんでした。彼らは、ただ主イエスの教えと思い出とを仲間たちの内でこっそりとあたため合っていたのです。
 このような弟子たちは、間もなく五旬節を迎えます。この祭の日に弟子たちは不思議な体験をしたのでした。聖書にはこう証言しています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。
 * * * *
 聖霊の降臨が起こり、聖霊の力に満たされることで、弟子たちは使徒へと変えられました。そして彼らは、主イエスの預言の通りに、聖霊によって新しい力を受けて、地の果てまで主イエスの福音を宣べ伝えていく歩みを始めていきます。
 主イエスが「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語られた通り、彼らはそれまで隠れ暮らしていた家の扉を、恐れから固く閉ざしていたその扉を開いて、外の世界へと歩みを進めていきました。
 聖霊によって背中を押され、それまで思ってもみなかった全く新しい歩みへと踏み出していく、聖霊の力を受け、聖霊に導かれる者たちの姿をここに見ることができます。

○「ほかの国々の言葉で話しだした」とは?
 今日は使徒言行録2章4節の「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」との証言に注目したいと思います。これは、その時だけに起こった奇跡を伝えているのではなく、使徒と変えられた者たちが、遣わされていった先々でどのように宣教に励んだのか、これをも表している証言だと受けとめましょう。
 今日に至るまでユダヤ教の礼拝は、唯一、ヘブライ語を用いて捧げられています。ディアスポラ(離散)の民と呼ばれ、世界中で生活しているユダヤ人たちは、各地にシナゴーグという呼ばれる会堂を建て、そこでヘブライ語による礼拝が続けています。
 シナゴーグは、安息日以外は学校の役割をも果たしてきました。どこででも真実な礼拝を捧げるため、シナゴーグで子どもたちへのヘブライ語教育が行われてきました。このようにして、ヘブライ語のみで礼拝を捧げ、神を証しする。これが古くからのユダヤ教の伝統です。
 こうしたユダヤ教の枠組みの中で、最初の歩みを始めたキリスト教ですが、使徒たちは民族の枠も、言語の枠も越え出ていきます。彼らが進めた宣教は、これだけが唯一正しい信仰や礼拝のあり方だと、自分たちの伝統を異邦の人々に強く押しつけるのではなく、むしろ各地に生きる人々のあり方や思いに寄り添う形で進められていったのではないでしょうか。
 パウロは、「コリントの信徒への手紙一」9章に印象的な告白を残しています。
 「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。
 ここから、この伝道者の柔軟性を知らされますが、時と場合に応じて、さまざまに変化が可能であるというのも、聖霊の働きがあることの証ではないでしょうか。
 聖霊に満たされた使徒たちは、各地で主イエス・キリストを証し、宣教していきますが、彼らは自分たちの言語や習慣、伝統というものを押しつけたのではありません。繰り返しになりますが、彼らが進めた宣教は、これだけが唯一正しい信仰や礼拝のあり方だと、自分たちの伝統を異邦の人々に強く押しつけるのではなく、むしろ各地に生きる人々のあり方や思いに寄り添う形で進められていったのです。

○聖霊に背中を押され
 ペンテコステの出来事に思いを巡らせる時、どうしても私の現状を振り返らざるを得ません。自分とエルサレムに隠れ暮らしていた弟子たちの姿と、私のこころのあり様がぴったりと重なるように思えるからです。
 聖霊をしっかりと受けて、聖霊の促しと導きによって、心の扉を広く他者へ、世界へ開いていきたいものです。こうしたことで、閉じこもって澱みがちな私の信仰に新しい風が吹き込まれ、聖霊によるいのちの息吹きに与ることができるのでしょう。
 * * * *
 昨年の3月11日に東日本大震災を経験した私たちです。この未曾有の出来事を通じて、一人ひとりの生き方と信仰とが神の御前に大きく問われました。
 この事態への取り組みへと早くから当たったのは、早稲田大学YMCAであり、早稲田奉仕園でした。早大Yメンバーを中心に、三学舎で編成された早稲田学生寮チームは、被災直後から支援活動を始めました。彼らは繰り返し現地に向かい、第7次隊までを派遣し、医療品をはじめとした支援物資の運搬、また津波と火災の被害の酷かった岩手県の大槌町で炊きだしを行い、またその地の避難所で暮らす子どもたちへの支援活動を行ってきたのです。
 ボランティアの派遣にあたっては、早稲田教会前で「派遣式」を行ってきました。聖書を読み、遣わされる者・送り出す者が共に祈るそんな式です。早稲田学生寮チームには、教会の青年や高校生も加わることを許され、私たちの教会も被災支援の活動を進めてきました。
 こうした支援活動は、現在、早稲田奉仕園が中心となって引き継ぎ、恵泉女学園大学の協力なども得て、昨年の冬にも、そしてこの夏にも引き続きの活動が行われようとしています。教会としてもできるだけの協力をと願っています。
 * * * *
 こうした被災支援の活動に積極的に関わったのメンバーで、震災直後から何度も現地へボランティアとして赴いた小畑昌彦くんという、信愛学舎OB学生がおりました。
 教員志望の小畑くんですが、一昨年の試験や活動では希望通りの道を拓くことができませんでした。そんな彼は、ボランティアと学びとを両立させながら、昨年の夏、再び中学校教諭の採用試験に臨んだのです。そして、東京都と岩手県の採用試験に見事に合格したのでした。
 二つの合格通知を受け取って、青年はこれからの人生を考えて祈りを深めます。そんな中で、3月以降に何度も訪ねた大槌町、あの破壊し尽くされた町の状況と、避難所で出会ったこどもたちを思いながら、岩手県での生活を選択していきます。それも、大槌・釜石地区の中学校への赴任を強く希望する、そうした決断をなしたのでした。
 早稲田奉仕園のスタッフから、小畑くんがそんな決断をしたと聞いて、私は深く深く感動しました。なかなかできる選択ではないと感じました。

○いまこの時代に働く聖霊を感じつつ
 私たちはとかく現状維持を望んでいます。しかしながら、時としてこうした私たち人間の思いと、神の御心とはすれ違いを起こすのです。
 いまこの現状にあって、新たに人に臨み、つき動かしていく聖霊の働きがあります。主イエスの弟子たちは、まさにこうした聖霊に導かれて使徒とされ、広く世界への宣教へと押しだされていきました。彼らとその宣教によって主イエス・キリストの福音にこころを動かされ、生き方を変えられた人々とが教会の形成していったのです。
 私たちは聖書から、かつてのペンテコステの記事を読むのですが、それを過去の出来事としてだけ読むのではなく、いまこの時、聖霊は私たちにどう臨んでいるのか、そのような気づきへと至っていきたいものです。
 あれから2千年が経った今も、聖霊は日本の地にあっても豊かに働いています。この聖霊の力を、また私たち一人ひとりもしっかりと、一身に受けていきたいと願います。
 ひとりの青年の姿と決断とを覚えながら、私たち一人ひとりもこころも大きく開いていきたい、このペンテコステに祈りを深く・新たにしてまいりましょう。