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礼拝説教(テキスト)

2013年4月14日(復活節第3主日)

「〈よわさ〉がつながる」

  マルコによる福音書 15章21〜32節

    有住 航伝道師


聖書〉マルコによる福音書 15章21〜32節
21:そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
22:そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。
23:没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。
24:それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
25:イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
26:罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
27:また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。
28:こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、
30十字架から降りて自分を救ってみろ。」
31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。
32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。


【春になって】
 先日わたしがかつて過ごした大学の写真をネットで目にしました。その大学は小高い丘の上にあって、正門へと至る道は桜並木が数百メートルに渡って伸びています。わたしが目にした写真はちょうど桜が満開の季節に撮影したもので、とても美しい写真でした。しかし、よくよく思い出してみると、大学に何年も通ったのに、こんなにきれいな桜並木の思い出がわたしの中に見当たりません。おそらくわたしは下ばっかり見て歩いていて、こんなきれいな桜並木を眺める余裕すらなかったんじゃないかと思いました。大学の華やかな雰囲気、とくに4月の賑々しくはつらつとした雰囲気に馴染めず「えらく場違いなところに来たものだ」と大阪の下町から毎日肩を落とし、重い足取りで大学へと通っていたことをこの美しい桜並木の写真は思い起こさせてくれました。
 春は新しいスタートの季節であり、新しい出会いに心躍る季節であるわけですが、新しい生活を迎えるに当たって不安を感じたり、うまくやれるかどうか緊張したりする季節でもあります。新しい生活が始まることへのプレッシャーから、人によっては調子を崩して暗い気持ちになったり、元気でなくなったりする人もいます。新しい生活、新しいスタートは期待と共に不安も伴うものです。みなさんの中にはこの春から新しい生活を始められた方もおられますが、どうか無理をせず、自分のなかにある不安を無視せず大切にして、その不安を周りの人と十分に分かち合いながら、じっくりゆっくり馴染ませていかれることをオススメします。

【「他人は救ったのに、自分は救えない」】
 イエスは「ユダヤ人の王を詐称した」罪で、逮捕され、二人の強盗と共に十字架にかけられようとしています。この物語の少し前のところで、イエスは最高法院、つまり当時のイスラエルのエリート層による裁判によって「死刑判決」が下されます。その理由は「神を冒涜した」と彼らに判断されたからでした。その後死刑判決が下されたイエスを祭司長たちはピラトへと引き渡します。
 イエスは2人の強盗と共に十字架にかけられますが、イエスを含むこの3人は人々の「安全・安心」を脅かした「社会の敵」であると見なされ、ローマ帝国の極刑の一つであった「十字架刑」に処されることになります。
 十字架にかけられたイエスの前を通りかかった人々、祭司長たち、律法学者たちは口々にいまや「社会の敵」に成り果てたイエスを侮辱しののしります。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。

【〈よわさ〉を許さない世界】
 「奇跡を行う人」「この世の救い主」として一世を風靡し、民衆の人気を集めたイエス、「あの人こそメシアである」と民衆の喝采を受けてエルサレムに登場したイエスはいまや無力にも十字架にかけられ、「社会の敵」として処刑されようとしています。人々からは「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしられています。
 イエスはこのようなののしりに対して何かを応えるということはありません。また、彼らが要求するように「十字架から降りてくる」こともありません。十字架につけられののしられるままのイエスの姿は民衆の絶大な人気を集め、「あの人こそメシアだ」と喝采を受けたあのイエスの姿からはほど遠いものに感じられるかもしれません。
 彼らが言い放った「他人は救ったのに、自分は救えない」という言葉は印象的です。彼らはイエスに対して皮肉混じりに「できるものなら、やってみろ」「人を救えるのに、自分自身を救えないなら意味はない」と言うのです。
 このイエスに投げかけられた「他人は救ったのに、自分は救えない」という「ののしりの言葉」はわたしたちが生きている日常の中のいたるところに溢れている言葉ではないかと思います。「人の世話ばかりして自分のことを怠る人はバカだ」「正直者はバカを見る」「他人に構ってるヒマがあったら、まず自分のことを何とかしろ」。このような言葉をわたしたちは日常的に耳にします。
 確かに自分自身が大変で余裕がないときに、他人の面倒を見たり、他人のことを考えたりすることはできないかもしれません。しかし、何気なく発せられるこのような言い方の中には、「〈よわい〉者は他人を救えない」「自分に余裕があるときしか他人に関わるべきではない」という考え方が潜んでいるのではないかと思うのです。それはつまり、「強い者/余裕のある者が、よわい者/余裕のない者を支える」という構図が当たり前とされる世界です。

【よわさは絆になりうるか】
 水曜読書会でわたしたちは荒井英子さんの『弱さを絆に』という本を一緒に読みました。ある時、一人の参加者が語った言葉がわたしの心の中に強く残っています。「『弱さを絆に』というけれど、本当に弱さが絆になりうるのだろうか。」
 「よわさ」が人と人とを「つなげる」ものになるのだろうか。これはとても大切で、重要な問いです。
 そもそも「よわさ」とは、また「よわさ」の反対の「強さ」とは何なのでしょうか。「強さ」というものを何でも一人で全部できること、他人の助けや支えがなくても生きていけることであるとするならば、〈よわさ〉とはその反対、つまり一人ではうまくやることができず、人の支えや助けがないと生きていくことができないということになるでしょうか。「強さ」というものが、一人で、何でも、誰の助けも借りずにできることであれば、「強さ」ということからは誰かと「つながったり」、助け合ったりすることは生まれない。「強く」あることが誰とも関わり合わずに生きていくことだとすれば、「強く」あることはわたしたちが考えているほどよいものではないのかもしれません。
 荒井英子さんの『弱さを絆に』という本のタイトルは北海道の浦河町にある「べてるの家」の理念のひとつだそうです。「べてるの家」には「弱さを絆に」以外にも自分たちで考えた理念がたくさん掲げられています。「安心してサボれる職場づくり」「手を動かすより口を動かせ」「偏見差別大歓迎」「幻聴から幻聴さんへ」「弱さの情報公開」「公私混同大歓迎」「べてるに来れば病気が出る」「利益のないところを大切に」「勝手に治すな自分の病気」「昇る人生から降りる人生へ」「苦労を取り戻す」。
〈この世〉的な常識や価値観をひっくり返したような、解放的に響く「べてるの家」の理念にハッとさせられる方も少なくないと思います。

【〈他人を救う〉ということ】
 わたしたちが生きているこの世界は「他人を救ったのに、自分を救えない」ということを大声で批判し、〈他人を救った〉ということはまったく評価しない、そんな世界なのではないでしょうか。どこか排他的で、何でも一人で出来るようになる「強さ」を求めるような個人主義が社会の隅々まで広まっているように感じます。
 このような個人主義や「強さ」というものが行き着く先は自己責任を際限なく個人に求めていくようなあり方でしょう。そしていつしか誰にも自分の悩みや弱音をさらけ出すことができなくなり、パンク寸前に追いやられてしまう、そんな世界になってしまっているのではないかと思います。
 イエスに「他人は救ったのに、自分は救えない」とののしった人々にとって、イエスはまさに「失敗者」であり「愚かな犯罪者」でありました。その人々から見れば、イエスは「自分を救えなかった愚かな男」と思われたでしょう。しかし、そのようにして死んだイエスが「神の子」であると福音書は告白するのです。
 イエスが神の子であることを証言するのは、祭司長たちがののしったように「奇跡を起こし、十字架から降りてきて、自分自身のいのちを救う」ということによってではありません。イエスと出会った人たちがイエスの姿に「救われた」と感じたこと、その経験においてイエスは紛れもなく「神の子」であったのです。「神の子」という称号はローマ帝国を軍事力によって滅ぼし、「力強い英雄」として権力を掌握したことによって、あるいは「十字架から降りてきた」ことによって与えられたものではありません。そうではなく、孤独と絶望の死を遂げたイエスの〈よわさ〉、「十字架から降りてくることができず」「他人を救ったのに、自分は救えなかった」とののしられたイエスの姿に対して与えられたものではなかったかと思います。イエスは「強さ」ではなく〈よわさ〉のゆえに神の子と呼ばれたのです。

【〈よわさ〉を苦労として分かち合う】
 わたしたちは確かに自分で自分を救うことができないのかもしれません。でも、それでよいと思うのです。わたしたちは自分自身によってではなく、自分の外からやってくる出会いや働きかけによって救われることがあります。それと同じように、自分なした小さな働きがもしかすると誰かの〈いのち〉を救う、神の大きな働きにつらなっているのかもしれないと思うのです。
 イエスの〈よわさ〉が他者と他者とをつなぐ〈おおきないのち〉へとつながっていくことを覚えつつ、わたしたちもまたここから共に歩み出していきましょう。

共に祈りましょう
 〈よわさ〉と共におられる神。強さが求められるこの世にあって、わたしたちが弱く、頼りなく思えるものの中に神がいつも共にいることを思い起こすことができますように。