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礼拝説教(テキスト)

2013年5月5日(復活節第6主日)

「されど、空の青さを知る」

  創世記 28章10〜22節

    古賀 博牧師



聖書〉創世記 28章10〜22節
10:ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。
11:とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
12:すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13:見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14:あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15:見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。
16:ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」。
17:そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」。
18:ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、
19:その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
20:ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
21:無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
22:わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」。


○2部構成の創世記
 現在、教会の婦人会では、旧約聖書全体を読むという学びを進めています。合計39書ある旧約聖書全体を、できるだけ早くに読み終えるため、各書の中心的なメッセージを確認しながら、ダイジェストで学んでいくことを心がけているのです。
 といいながらも、総論を2回の後、最初の創世記が5回目となるのにまだ終わっておりません。先月にやっとヤコブ物語の前半が終了したところです。この後、ヤコブ物語の後半、ヨセフ物語の前・後半と、まだ3回は創世記を学ぶことになりますが、ここまでで何と1年半が経過してしまいました。
 このペースだと、いつになったら全体を学び終えられるのか、かなり心配です。私が生きている間にはと申し上げていますが、少々心許なくも思っているのです。
 * * * *
 笑えない冗談はさておき、創世記の全体像を簡単に確認しておきたいと思います。
 創世記は大きくは2つの部分に分かれています。第1部は1章から11章までで、天地創造物語に始まる神話的な記述の部分です。そして第2部は、12章から50章までの族長物語。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと繋がっていく、イスラエルの父祖たちの物語です。
 第1部では、天地創造の物語が1章から2章に描かれ、その後に失楽園、カインとアベル、あるまとまりを持った洪水とノアの箱船の物語、バベルの塔の物語が非常に印象的な物語として語り継がれています。
 第2部では、アブラハム物語がイサク誕生の物語を含んで語られ、続いてヤコブの物語がイサクの結婚と死などを含んで一つの単元となっています。そして、これに一つのまとまりをもって別に成立していたであろうヨセフ物語が接続されて、続く出エジプト記の物語との橋渡しの役割を担っています。

○悪巧みし、騙すヤコブ
 前回の週日婦人会では、ヤコブの物語の前半部分を共に学びました。イスラエル12部族がこの人から出たと言われる民族の祖としてのヤコブ。母の胎内にある時から、非常に特徴的・個性的な人物であり、多くの人はきっとこの人に躓く、そんな人物であることを確認しました。
 アブラハムの息子イサクは、アブラハムの勧めで、父の故郷から迎えた女性リベカと結婚します。創世記の25章には、イサク・リベカ夫妻に与えられた双子の兄弟の話が出てきます(旧約聖書の39ページ)。21節以下を読むとこうあります。

 イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。
 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる」。
 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは60歳であった。

 母のお腹の中で既に争いが始まっており、弟ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたというのです、「ちょっと待て。俺の方が先だ」、そんな生まれ方だったとのこと。
 * * * *
 この誕生の姿に如実に象徴されているように、成長するに至り、この双子の兄弟は長子の権利・祝福を巡って相争うことになります。弟ヤコブが専ら知恵を働かせ、母リベカの力も借りてさまざまに策略を巡らせ、ついにエサウから長男の祝福を奪い取ってしまいます。
 この事件の経過は27章に詳しく記されています。年老いて目もかすむようになったイサク。死期が近づいていることを認識し、神の祝福をエサウに継続する儀式のために、自分の好物を野に出て獲ってくるように求めます。
 この話を小耳に挟んだリベカは、ヤコブを呼んで、家畜から肥えた子山羊を二頭取って来るように、イサクの好物料理は自分が作るので、それを持って父の下に行くようにと命じます。兄エサウは自分と違って毛深いので、触られるとばれてしまうというヤコブに、母親は兄の着物を着せ、イサクの触りそうなところに毛皮を巻き付けて毛深く偽装するように指示します。
 視力が不自由なイサクは、「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ」と訝りつつも、その者の身体を触って毛深さに安心し、また口づけの際には着物の匂いにも騙されて、ヤコブを祝福してしまうのです。

○ヤコブのあり方は私たちの罪の姿
 こうした事件に続く、28章から読んでいただきました。今日の箇所には、ヤコブの行いに怒り心頭となり、弟殺害を決意したエサウから逃れ、母方の親戚を頼って逃避行していくヤコブの姿が描かれています。ここは、ヤコブ物語の一つのクライマックスだと言われている箇所です。
 ある説教者は、ヤコブとは私たちの代表者であって、典型的な欠け多い人間として描かれているとしています。先般、週日婦人会において、ヤコブ物語の前半を学んだ際、「これほどまで、狡く・酷い行いをする人物を民族の大切な祖の姿として描いた、そのことの意味、神様の御心はどこにあるのでしょうか」と質問された方がありました。先般のヤコブ物語の学びを通じて、誰もが共通にこうした疑問を心に抱かれたことだろうと思います。こうした問いへの一つの答えが、この説教者のいう「私たちの代表」という理解ではないでしょうか。
 この説教者は、ここに描かれているヤコブとは、偽らざる私たちの真実の姿を示している、というのです。

 “わたしたち人間のいちばん深い苦悩は、やはり競争心と嫉妬心とによって人間関係を破壊していくということではないでしょうか。ヤコブほど悪辣なことはしなくても、もうちょっと穏やかな常識的な方法ではあっても、この種のことをしょっちゅう人間はやりかねないのです。そして人間関係が破壊されていくのです”。

 ヤコブの狡猾さや嫉妬に駆られての悪行とは、人間であるならば誰の心に潜んでいる、そんな罪の姿を明らかにしている物語だというのです。
 * * * *
 またある人は、神の選びの真実をここから読み取っています。誰もがこれはと認める、誰もが大いに賞賛する、そうした人物が神に選ばれ、器として立てられるのではなく、なぜあの人が、あんな人なのに、そう言われるような者が神に選ばれ、み業のための器として用いられる、ここに聖書の神の不思議さ、私たち人間から見るとある意味で不条理にさえ思える、そうした人間の思いを越えた御心の働きがあるというのです。この牧者は、人から「あんな人が」と言われる、そんな者のひとりとして自分も確かにあり、不思議さの中に用いられているのだと、正直に告白していらっしゃいました。この思いは、私にも共通しているものです。

○八方塞がりで四面楚歌
 ヤコブはベエル・シェバを立って、母リベカの故郷ハランへ向かって歩みを進めています。これは、とてつもない長く遠い道のりを、あたかも闇に紛れつつ夜逃げしていく、そんな逃避行でした。
 日もとっぷりと暮れ、道に迷うことを恐れて野宿を選択したヤコブ。不安と孤独を噛みしめながら、道端にころがっていた石を一つ取って、それを枕として荒野にそっと身を横たえたのでした。
 この時の休息とひとときの眠りとは、決して安らかものではなく、苦悩と苦渋とに満ちたものだったことでしょう。四方八方が塞がれ、前後左右も暗闇に閉じ込められてしまっている、もう不安と苦痛とで身動きがとれない、そんなもうどうしようもない状態の中での休息であったであろうと考えられます。
 決して安らかと言えない、たぶん極めて浅い眠りであったことでしょうが、それが故にか、ヤコブは夢を見たのです。この夢の様子が、12節にこう書かれています。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。通常、ヤコブの梯子と呼ばれているものです。
 先に申し上げたように、ヤコブは命を狙われての逃避行の最中、孤独であり、何の守りもなく荒野で石を枕にして闇の中に横になっています。八方塞がりで四面楚歌、これ以上はないという危機に取り囲まれ、押しつぶされそうになっているのです。
 そうした中に、何と神が天を開かれて、ヤコブの下に神の御使いたちが神に遣わされて降ってくる、この様子こそが、この夢には象徴されていると言われます。

○ヤコブを通じて、私たちにも
 13〜15節には、ヤコブに与えられた恵み深い神の祝福の言葉が残されています。

 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。

 この神からの祝福のメッセージは、祝祷としても用いられています。
 * * * *
 『讃美歌21』には、93番に礼拝文が7項目にまとめられています。それらは、以下の通り。1)招詞、2)栄光の讃美、3)十戒、4)使徒信条・ニケア信条、5)主の祈り、6)派遣のことば、そして最後に7)祝福・祝祷となっています。
 この祝福・祝祷には、11の聖句が置かれ、その一つに「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない」(創世記28:15による)とあります。
 今日の箇所に登場する祝福のメッセージは、ただヤコブにだけ与えられたのではありません。私たち人間の代表としてのヤコブ、そのヤコブに与えられた主なる神の豊かな祝福は、私たちにも、私たち一人ひとりにも豊かに注がれているのです。
 そのことを深く信じるが故に、このヤコブに向けられたメッセージは、礼拝の祝福・祝祷として多くの教会にて今も祈りの言葉として用いられてもいます。
 この祝福の言葉をいただき、18節以下にあるように、「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた」とのこと。
 ベテル、今でもキリスト教の教会や施設、会合などの名前としてしばしば用いられています。神から完全に見放され、切り離された状況にも、神が天から御使いを遣わして臨み、祝福を与えてくださる、こうした信仰の証として用いられている名称です。

○「井の中の蛙、大海を知らず」の続き
 日本クリスチャンアカデミーの聖書講座で、講師の吉岡康子牧師がこの箇所から語られました。吉岡牧師は、ベテル起源の物語を深く味わう時、ある諺に続くと言われている言葉を想起してしまう、と語られたのでした。
 その諺とは、「井の中の蛙、大海を知らず」。通常は「狭い世界に閉じこもって、広い世界のあることを知らない。狭い知識にとらわれて大局的な判断のできないたとえ」として用いられています。
 俗説ですが、この諺には続きがあるというのです。「井の中の蛙、大海を知らず」に続くとされている言葉、それは「されど、空の青さを知る」だとのこと。「井の中の蛙、大海を知らず…されど、空の青さを知る」、このように聞いて、これは実に恵みに満ちた続きの言葉だなぁと思わされました。
 * * * *
 私たちはどうあがいても、井の中の蛙をなかなか脱却できません。広い世界があることをどこかで認識しながらも、結局のところ、自らの築いた狭い枠付などを大切にして、それに深くとらわれて、大局的な判断や、聖書を通じて神が求めておられる信仰からほど遠い生活を送っています。それが故に、惑い・迷い・躓き、言葉や態度で人を傷つけたりの日々です。
 しかし、今日の箇所に証言されていますように、罪深く、また欠け多いヤコブにさえ、神は天の門を開いて降って臨み、祝福を与えてくださるのです。神は語られます、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない」。
 私たちは、自らの罪がいかに大きくとも、欠け多く、「あんな人が」と言われるような存在であるとしても、すぐに惑い・迷い・躓き、人とうまく関われない者であっても、諦めることなく神を見上げたいと願います。
 ヤコブに臨んでくださった神が私たちを愛し抜いていてくださいます。この神は真実であり、永遠だとの信仰をもって、狭い井戸の中からも神を仰ぎ、空を見上げてまいりたいものです。そして、見上げた空の青さを深く味わい、天から届けられる恵みに満たされ、自分の限界を少しずつでも脱していきたいと願います。
 所詮、井の中の蛙なのですが、この事実に居直るのではなく、自らの限界を知りながらも広く・深い神の御心に頼りゆく、「されど、空の青さを知る」、この信仰へと神の祝福に支えられ・導かれて歩み続けたいと願います。