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礼拝説教(テキスト)

2013年6月2日(聖霊降臨節第3主日)

「求めるべき輝きとは」

  マルコによる福音書 9章2〜8節

    古賀 博牧師


聖書〉マルコによる福音書 9章2〜8節
2:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3:服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4:エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
6:ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7:すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。
8:弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。


○マルコ福音書の中心的メッセージに続く箇所
 今日はマルコによる福音書9章の前半から、山の上で主イエスの姿が突然に変わるという出来事が報じられている箇所を読んでいただきました。通常、「山上の変貌」、あるいは「山上の変容」と呼ばれている箇所です。
 この箇所は、マルコによる福音書の最も中心的な使信に続いて語られている出来事です。この福音書の中心的メッセージは、8章34節だと言われています。こう教えられています。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
 このメッセージが語られた後に、今日の出来事が証言されていきます。
 * * * *
 このメッセージが、どんな文脈で語られたのかにも注目しておきたいと思います。
 8章27節以下で「ペトロ、信仰を言い表す」との表題の下、この福音書は一つの出来事を報告しています。ユダヤの北端、フィリポ・カイサリア地方を旅している中で、主イエスは弟子たちに、人々は私のことを何者だと言っているのかと問い、重ねて「それでは、あなたがわはわたしを何者だと言うのか」と、極めて鋭い問いを発せられました。これに対して、ペトロは「あなたはメシアです」と、彼らしい軽い調子で答えたのでした。
 続く箇所で、イエスは苦難と死、そして復活を初めて予告なさいます。ここでもペトロは、その予告の真意を測りあぐねて、イエスを諫めるという暴挙に出ます。そして、「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、大変厳しい叱責を受けています。
 ペトロとは一番弟子であり、また同時にこの福音書を読んでいる教会の人々を代表しています。こうした記述を通じて、この福音書は、イエスの弟子に続く、今を生きるキリスト者たちに、信仰の深まりをこそ求めているのです。
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
 このメッセージを受け入れて、主の求めの通りに歩むことができない、そんな弟子たちの姿が、今日の箇所にも重ねて記されていきます。

○ヘルモン山上での出来事
 今日の箇所に戻りますが、9章2節には「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とあります。
 ここで主イエスが伴われたという「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」の三人は、特別な位置を持っていた弟子たちです。会堂長の娘を癒す場面でも、この三人が連れていかれ、また後に、ゲッセマネの園で祈りを捧げられる際にも、主イエスはこの三名を選んで帯同します。
 この三名は、後のエルサレム教会の中心人物だとされており、初代教会の情勢というものが、証言の記述に反映されているのでしょう。
 ここに書かれている「高い山」とは、フィリポ・カイサリアにあるヘルモン山だと考えられています。海抜2800メートルの山で、その頂は年中雪に覆われているほどだと聞きます。イスラエルでも日本でも、高い山は一種の聖域・聖所としての扱つかわれています。ここでも特別な聖域・聖所へと、主イエスは弟子の代表たちを伴われたということでしょう。
 * * * *
 2節後半から3節には、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります。
 ヨハネの黙示録1章11節以下に終末の時に再臨する救い主の姿が予見されています。イスラエルを象徴する七つの金の燭台の中央に立つ存在。その者の髪の毛は、「雪のように白く」、その姿、特に「顔は強く照り輝く太陽のよう」とあります。ここに記されている白さ、また白さと表現される光と輝きとは、終末時に神が太陽の代わりとなって永遠の都エルサレムを照らすこと、この神を真実に仰ぐ者たちの帯びるであろう輝きを意味しています。
 主イエスの変容においても白さと輝きが強調されているのは、終末時の救い主を象徴しているのでしょう。
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 4節に「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」とあります。「神の人」と呼ばれる、イスラエル史上で有名な預言者たちがここに登場しています。
 モーセは、出エジプトの旅を導いた指導者です。この旅の途中で、律法の中心である十戒を神より授かった人物で、最初の預言者と呼ばれています。
 エリヤは、紀元前9世紀の半ばに北イスラエル王国に遣わされた預言者で、バアル宗教に傾く偽預言者たち450人と対決して勝利しました。最後は後継者エリシャを得た後、嵐の中を天へと巻き上げられたとされています。列王記下2章11節によると「見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」とのこと。このように突然に天へと挙げられたこの預言者は、終末時に来臨すると信じられていました。
 ここで旧約聖書を代表する預言者たちと、イエスが語り合っている、そうした主イエスの栄光に満ちた姿を、その服装のこの世のものとは思えないほどの白さ・輝き、預言者たちの顕現、そうした形でこの三人の弟子たちは経験したとのこと。

○ペトロの発言の背後には
 5〜6節にこうありました。「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』。ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」。
 この証言は、仮庵祭との関係で理解されています。仮庵祭とはユダヤ教の三大巡礼祭の一つで、秋にオリーブ、いちじく、ぶどうなどの収穫を祝った祭です。
 収穫期に畑のそばに建てる仮小屋のことを仮庵といい、労働者の寝泊まりの場所であると同時に、収穫物の保管庫にもなりました。できるだけ豊かな収穫を願い、その収穫を祝うしるしとしてエルサレムには立派な仮小屋が建てられたのでした。
 * * * *
 仮小屋を立てて、そこに偉大な預言者たち、何よりもキリストであるイエスを記念する、実りが豊かになるようにと祈る、これは後にこの三人が中心となって成立していく原始エルサレム教会がどんな祈りと方向を持っていたのかを、如実に象徴していると言われます。
 ペトロが安易に仮小屋を作り、教会を建設していこうと発言する、そのあり方への批判をも含んで、6節には「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と証言されています。
 加えて天から声が響きます。7節〜8節に「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」とあります。
 預言者やキリストを記念して、何らか建物を作る、その中に記念すべき者たちを囲い込む、そうしたことが弟子たちに求められているのではない、ということでしょう。そうではなくて、何よりも神の独り子である主イエスに聴く、その福音にこそ聴き、そしてその福音に生きることこそが、神の願いだと示されているのだと思います。
 冒頭に語りました通り、マルコによる福音書の最も中心的な使信は8章34節。次のみ言葉です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。このメッセージの響きの内に、ここを読んでいきたいと願います。

○二部構成の絵画—ラファエロの『キリストの変容』
 ルネッサンス期のイタリアの画家に、ラファエロという人がありました。この人の「キリストの変容」という絵。ヴァチカン美術館に所蔵されているのだそうで、1518年から1520年に描かれ、37歳で召天したこの画家の遺作(未完)と言われています。

キリストの変容.jpg

 画集から見ていただきたいと思いますが、上下の二部構成になっている絵です。上部に描かれたのが、山上の変貌の出来事。山の上という聖なる場所で、主イエスは光輝く白い衣で覆われ、救い主であるその姿を明らかにされたのでした。ペトロは感激しつつ、どうしてよいか分からなくて、とにかくもこの栄光の姿をとどめておけるように聖所を設けようとします。こうした弟子たちの心情を、ラファエロは神秘的な体験に出会って、酔いしれるような状態になり、地に倒れ込む三人の弟子たちを、この絵の上部に描いています。
 この画家は同時に、もう一つの出来事を下部に描いています。ここに描かれているのは、9章14節以下に証言されている、残る弟子たちが人々の求めに応えられず、霊に取り憑かれて苦しむ子どもを癒すことができなかったという事実です。
 この絵は教会への警句、そこに集う者たちへの示しを表しているのではないでしょうか。私たちキリスト者は、霊的な・神秘的なものに酔いしれて、それで満足、それでよしとするのではなく、どこに主の光を見、何に取り組んでいくのか、そのことを考えたいと願います。

○どこに救い主の光と輝きとを見出すのか
 この箇所から語るのに、“私の父(牧師)が好んで語った魯迅の小説、「小さな事件」を思い起こす”、と記した説教に出会いました。魯迅の「小さな事件」とは、私が持つ本には「小さなできごと」という題名で載っています。
 その牧師はこう語っています。

 “魯迅は北京の町で暮らすうち、日増しに人間不信を募らせていた。そんなある日、彼が一台の人力車に乗って走りだしたところ、突然、人力車の梶棒に一人の人間がはねとばされて、よたよたと倒れた。倒れたのはボロボロの着物をまとった老婆だった。魯迅は車夫に、誰も見ていないし、さっさと行ったらいいと命じた。けれど、その車夫は車を放り出したまま、その老婆を抱き起こし、支えながら、ゆっくり巡査の派出所の前へと行き始めたのだった”。

 車夫は自分の行為を巡査に告げ、その巡査は車夫からの伝言を魯迅に告げます。自分がはね飛ばしてしまった老婆に付き添う、だからあなたのために車を引けないとのこと。魯迅は、ひとつかみの銅貨を財布から出し、「どうかあの車夫に渡してくれ」と巡査に託したのです。
 説教は続きます。

 “魯迅は言う。「このできごとは、今になっても、たえず私の心に浮かんでくる。そしてそのたびに私は苦痛をしのんで、私自身について考えるように努力した。この数年来の文治も武力も、私にとっては、子どものころに読んだことのある「子曰く詩にいう」と同様一言半句も思い出すことができない。ただ、この小さなできごとだけがいつも私の目の前に浮かんでいて、ときにはそれがひときわくっきりとなって、私を恥じいらせ、私を革新させようとし、また私に勇気と希望を増させてくれるのである”。

 主イエスがその身にまとっていたという真の輝きとは、このような思いを私たちに引き起こすものであっただろうと、この牧師は語っています。
 栄光を自らの手中に収めたいとか、その輝きを建物の中に保存したいとか、そこに選ばれて、導き入れられる者だけがその輝きに与れる、そんなものではなく、「私を恥じいらせ、私を革新させようとし、また私に勇気と希望を増させてくれる」ものとして、真の主イエスと出会いたい、彼の栄光に与るとは、そうした思いとその思いに導かれる行動にこそあるのだろう、と説教は結ばれていました。
 先にお見せしたラファエロの絵の上の部分、恍惚状態に止まるのではなく、下の部分、無力であってもそこに関わり続ける勇気を、祈りを与えられたいと願います。

○「行って、あなたも同じようにしなさい」との響きの内に
 教会やキリスト教にも、人々の目を引くような演出や飾り付けというものがあります。しかし、煌びやかな会堂や、教職者が身に纏うガウンや美しい装束に主イエスの栄光が宿っているのではありません。
 ある牧師が取り継いだように、魯迅の「小さなできごと」に登場した車夫のような生き方・あり方こそが、真の光を放っているのではないでしょうか。あの車夫のような生き方やあり方が、私たちを聖書の教えに照らして「恥じいらせ、私(たち)を革新させようとし、また私(たち)に勇気と希望を増させてくれる」のではないでしょうか。
 本日の礼拝の招詞とした「善きサマリア人の譬え」の最後に残る主イエスのみ言葉に聴きましょう。主イエスは隣人とは誰かが分からないと嘯く律法学者に、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と語りかけ、「その人を助けた人です」と導いた後に言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。このみ言葉を受けての応答していく歩みにこそ、神の光や宿るのです。こうした輝きをこそ、求めて進みたいと願います。