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礼拝説教

2013年7月7日(聖霊降臨節第8主日)

「コイノス(けがれ)を共に」

  マルコによる福音書 7章1〜23節

    古賀 博牧師


聖書〉マルコによる福音書 7章1〜23節
1:ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
2:そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
3:――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
4:また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
5:そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。
6:イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている』。
8:あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。
9:更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
10:モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
11:それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
12:その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
13:こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。
14:それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
15:外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。
16:聞く耳のある者は聞きなさい。
17:イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
18:イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
19:それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。
20:更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
21:中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
22:姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
23:これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。


○清さを問題にしたユダヤ教・社会
 マルコによる福音書の7章の冒頭部分を読んでいただきました。
 今日の箇所で、ユダヤ教での清めが問題とされています。3節以下にこうあります。

—ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。—

 清い、清くないとこまごまと規定されている中で、主イエスとその弟子たちは、清めのための手洗いをせずに食事を摂っていて、厳しく見とがめられたというのです。
 * * * *
 ユダヤ教の会堂にはミクバと呼ばれる水槽がありました。これは、身体全体を清めるために沐浴できる小さなプールのようなものです。井戸や付近の川から水を引き、これを用いて、清めの儀式が、律法やタルムードの規定によって行われていたとのこと。会堂に入るのに、手のみならず、身体全体を洗い清めよう、教師や祭司にこの清めの儀式が課せられました。 このミクバの小型版がミクベで、これは清めの手洗い場です。ミクベという水槽の水を用いて、敬虔なユダヤ人はまず手などを清めてから会堂に入るのです。
 * * * *
 ある注解書に、手洗いの規定の一部が紹介されていました。次のように手を洗ったとのこと。
1)両手の爪の先をしっかりと立てて、まず上から水を注いで手首まで水で洗い流す。
2)互いの手をこするが、片方の手にこぶしを作って、それでもう片方をごしごしとこする、また反対の手をごしごしとこする、このように両手を洗う。
3)両手を洗うことが済んだら、指先を下に向けて、手首のところから水を流す。
 こうした一つひとつの手順を踏んで手洗いを行わなければならなかったのです。

○形式主義に傾いては…
 こうした律法的な習慣を大切にし、事細かな律法によって日常生活を縛っていたのが、当時のユダヤ教でした。数多くある細かい規定や教えの全てを守ることが、その者の敬虔さ、信仰の証だと考えられました。
 そして、一方では律法や規定を守ることができない者たちを、罪人と呼んで、自分たちの交わりから排除し、自分たちの関わりや交わり、そして社会を純化しようとしていたのです。
 律法を厳格に守ることこそが信仰の証だと考えていたファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスに従う弟子たちの律法違反を許せない、と強い憤りを覚えたのです。
 5節の「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とは、なぜ律法を守らない、何と不埒なという思いが響いています。
 こうした告発に対して、主イエスはイザヤ書の預言をもって答えています。
 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。
 この預言の言葉を通じて主が問われているのは、形式ではなく、神を信じ・信頼する心なのだということでしょう。この点に関して、次のように語っている人があります。
 “宗教が形式化すると心が冷え、神の愛から離れる。その一方で、外延的な規律や規則を守ることにのみ安定を見いだそうとする。その結果、内的・動的な生命を見失う”。
 実際、形式主義に傾き、規則で縛りつけ、内的・動的な生命を失ったがごとき集団があるのように思います。こうした誤った信仰のあり方を、主イエスは8節で「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と批判しておいでです。
 * * * *
 当時のユダヤ教の実態は、9節以下で明らかにされています。
 十戒の第4戒に「父と母を敬え」とあり、出エジプト記21章に「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とまで記され、父母を扶養すること、家族制の保持が厳しく規定されています。
 ところが、当時、こうした戒めは既に骨抜き状態であったというのです。11節にあるように、「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものはコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父母に対して何もしないで済むのだ」と言われていたとのこと。本来は父母の扶養のために用いるべきものを、これは神に捧げるものと言えば転用できる、そんな悪しき習慣に人々は毒されていたというのです。
 一方では家族制という社会の根幹を破壊しかねない、そんなあり方や罪を平気で許しておきながら、一方では手を洗わないで食事をした、言わばとても小さなことを見過ごさない、そうしたご都合主義の律法遵守が声高に叫ばれていたのでした。これが当時に現実です。

○汚れ(穢れ)=コイノス
 今日の箇所に何回か登場する「汚れた」という言葉に注目したいと願います。2節には「汚れた手」、また15節、18節、23節には動詞で「汚す」という言葉が登場しています。これは形容詞では「コイノス」、動詞では「コイノオー」という言葉です。
 カトリックの聖書学者・雨宮彗さんによると、この言葉の起源は「共有の」という意味であったとのこと。この「共有の」という意味で「コイノス」が登場するのは、使徒言行録に残っている初代教会の信徒たちが持ち物を共有にしていたという記述です。
 使徒言行録の2章44節に「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。この箇所の「すべての物を共有にし」に、「コイノス」という言葉が用いられています。
 「コイノス」はこの「共有の」という意味の他、「普通の」という意味でも用いられ、少し侮蔑的には「通俗的な」「月並みな」との意味で用いられていたそうです。
 ところが、紀元前1世紀のユダヤ地方で、「コイノス」は、宗教的な意味を重ね持つようになります。ユダヤ人は「世俗的な」との意味で、この言葉を用いたとのこと。
 ユダヤ人にとって、この「世俗的な」という言葉は特別な響きを有していて、この言葉は聖なるということの対義語でした。つまり、「コイノス」(世俗的な)とは、神に属していないということ、聖なる性格を完全に欠いていることを意味しました。
 ここから、コイノスは「汚れた」(穢れた)という意味の言葉としてもユダヤで用いられていきます。「コイノスな生活」とは、神との関係が完全に断ち切られている生活、罪にまみれた生活、つまりは穢らわしい異邦人たちの生き方を意味するようになります。
 ユダヤ教で、この穢れ(コイノス)を洗い流し、遠ざけることが、聖なる者となることであり、神の救いの条件ともなったのです。律法規定を守る・守らないによって、穢れた者、つまりは「コイノス」を身に負う者たちを特定して、そんな穢れた者たちとは触れ合わず、自分たちの交わりから完全に排除し、こうしたあり方を通じて自分たちの清さを保とうとしました。

○初代教会が交わりをコイノーニアと呼んだのは
 「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とは、お前たちは穢らわしい罪人だと断罪し、切り捨てるニュアンスでの告発でしょう。
 しかし、主イエスはわざとこの枠組みから踏み出して、「コイノス」としての穢れを背負い込まされた人々と食卓を囲み、彼らとの交わりを喜び、なお進んで関わるために、食前の手洗いを放棄したのではないか、そのように読んでいる人があります。神から切れた「コイノス」、世俗的な存在と排除された人々と、穢れとしての「コイノス」を共有しようとした、それが批判覚悟で手を洗わないで食事をするというあり方だったと受けとめている人があるのです。
 初代教会の交わりが「コイノーニア」と呼ばれたことは、皆さんもご存じのことと思います。今回この箇所を学んでみて驚かされたのですが、「コイノーニア」という言葉は、「コイノス」を起源としているとのこと。直接的には、元々のこの言葉も持つ意味「共有の」から派生し、共々に分かち合う、原始教会にあった深い関わりを基本とする関係性を意味しています。
 教会が自分たちの交わりを「コイノーニア」と表現したことには、ユダヤ教的な「コイノス」(穢れ)の捉え方への批判があり、当時のユダヤ教の神との関係の捉え方を変革し、ユダヤ教の避けた穢れを越えていこうとする方向が表現されている、と解釈している人があります。
 穢れを恐れず、穢れをも共にし、ユダヤ人・異邦人という差別や律法の枠組みも越えた交わりを、初代教会は主の福音にしっかりと立ち、異邦人との間に築きあげていきました。

○ヘイトスピートなどの現実を越えて
 かつて信濃町教会で奉仕され、現在、東北学院大学で教えておいでの佐藤司郎牧師は、今日の箇所をめぐる注解の最後にこう記していらっしゃいます。

 “キリスト者こそ、迷信や偏見や差別から自由でなければならない。われわれを縛っているものはもはやない。われわれは主イエスの十字架の死のあがないによって罪から解き放たれ、自由の中で神に仕えることを許されている”。

 こうした語りに続いて、今日、招詞としましたエゼキエル書の預言が引かれています。エゼキエル書36章26節にこうあります。

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

 実に印象的な預言です。この預言の言葉を引いて、佐藤牧師はさらに言葉を続けます。

 “この新しい心をわれわれは主イエスによって与えられた。この心は、自由の心、あたたかい心である。この自由と愛の心において、われわれはイエス・キリストの道を歩んでいきたいのである”。

 * * * *
 過ぐる日曜日の午後、教会の青年たちは、大久保において在特会などが行っている、排外的なデモの見学に出掛けていきました。極めて悪質なヘイトスピーチの実態・実際に触れ、この問題を自分たちの課題、日本社会の課題として考えるためでしょう。
 私は読書会もあって一緒に行けませんでしたが、言葉にするのもおぞましいほどにひどい侮蔑的・攻撃的な言辞を、どう見ても普通のおじさん・おばさんが叫び、プラカードとして掲げ歩いていたとのこと。
 こうした言動を生み出していく根っこに、外国人差別や穢れの感覚があることを思います。いまの日本社会の中で、教会は、教会に集う者は、主イエス・キリストの福音にしっかりと立って、私たちが直面する現実と取り組み続けなければなりません。
 エゼキエル書は預言します。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。この預言の言葉を引いて、佐藤牧師は語っていました。“この新しい心をわれわれは主イエスによって与えられた。この心は、自由の心、あたたかい心である。この自由と愛の心において、われわれはイエス・キリストの道を歩んでいきたいのである”。
 初代教会の交わり、コイノーニアがそうであったように、どなたとの間でも、どんな国の人々とも交わりを築いていく、これが現代の教会においても課題ではないでしょうか。主の福音の指し示す交わり、穢れといわれている不当な現実をも共にしていく交わり、主の拓いてくださった真のコイノーニアへと歩み・関わりを進めていきたいと願います。