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礼拝説教

2013年8月4日(平和聖日)

「その子どもの親・兄弟は…」

  マルコによる福音書 9章33〜37節

    古賀 博 牧師


〈聖書〉マルコによる福音書 9章33〜37節
33:一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34:彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
35:イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。
36:そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。


○平和聖日を迎えて
 日本基督教団では、1962年に毎年8月の第1聖日を「平和聖日」と定めました。この日に、聖書を通じて神の御旨としての平和を学び、平和の実現を求めて真剣な祈りをささげてきたのです。
 「平和聖日」が制定されるに至ったのは、西中国教区からの訴えによってのこと。広島への原爆投下によって被爆した牧師・信徒たちが、1961年の8月6日、広島原爆投下の日を覚えて「平和聖日」を守るようにと、日本基督教団に要請しました。この訴えは、広く教団諸教会に届き、翌1962年、教団は8月の第1聖日を「平和聖日」と定めたのです。
 その後、1967年3月に教団は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(通称:戦責告白)を、当時の教団議長・鈴木正久の名前で公にすることになります。この戦責告白を踏まえ、「平和聖日」に、かつて教団が戦争に協力した罪の告白を含めて、主の福音に照らしていま私たちはどう生きるべきかを問いつつ、礼拝を捧げてきました。
 8月の第一主日にあたり、私たちは「平和聖日」を記念しつつ、神の御旨としての主イエスの福音に聴き、平和実現への祈りと決意とを新たにしたいと願います。

○主を信じて従う者のあり方
 今日の箇所は、カファルナウムへと到達した主イエスと弟子たちの姿について証言しています。
 ここへと至る旅の道筋で、弟子たちは何やら取り憑かれたように言い合っていたということです。こうした弟子たちに向かって、主イエスは「何を議論していたのか」と尋ねています。歩きながら、口角泡を飛ばして激しく言い争っていた、そんな弟子たちの姿を見られたということでしょう。
 弟子たちは、本当のことを言うことができずに、「彼らは黙っていた」とあります。実は、彼らは「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のでした。
 * * * *
 そんな弟子たちに、主イエスは35節で次のように教えていらっしゃいます。

 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。

 「全ての人に仕える者」という語り、仕える者にはディアコノスという言葉が用いられています。ディアコノスとは、当時のギリシアの社会にあっては、食事に際して給仕をする人を意味していました。この給仕役と同じような働きが、キリスト者のあり方の模範としてここに示されています。
 後に、初代のキリスト教会は、この仕える(ディアコノス)という言葉でもって、教会的な役割として執事を表現してきました。初代教会に於いて、執事とは具体的には集う人々のお世話をする、一人ひとりの問題・課題について聞き、困っている人々に寄り添い、問題を解決する手助けをする、こうしたことが執事の役割でした。
 * * * *
 35節には「一番先になりたい者は、全ての人の後になり」とも教えられています。
 ある人は、ここでの主イエスの求めとは、全ての人の一番後ろにいる人、そんな存在のさらに後ろに行くということではないかと語っています。列の最後尾にある人が確かに存在すると発見する、そしてその者のさらに後ろに回り込むことだというのです。
 このことは、ただ並びとして後ろの後ろへ行けというだけではなく、列の最後尾に佇まざるを得ない人々と共にあることを意味しています。一番後ろに立たされていた人を受けとめ、彼らと共に立つ、その人々の重荷を担う、これこそが主イエスの求めだというのです。
 主イエスは「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」との語りでもって、「だれがいちばん偉いかと議論し合」うとの思いに駆られ、こうしたことにエネルギーの全てを注ぐ弟子たちに、主イエスを信じて従う者のあり方を鋭く教えられたのでした。

○2千年前のパレスチナ地域の子ども
 ここで主イエスは、教えの真意を示すため、一つの行動を起こしていらっしゃいます。36節以下をもう一度読みます。

 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。

 先に教えられたことの象徴として、誰が一番偉いかを言い争う弟子たちのあり方の対極として、最も小さき存在としての子どもが示されているのであろう、そんな感じで受けとめてきました。
 ところが、ある説教を読んでいて、この子どもとは、戦災孤児、難民の子ども、路上生活を余儀なくされている、そんな者たちではあったとの読み方があると知りました。
 * * * *
 『共観福音書の社会科学的注解』というものがあります。これは、ブルース・マリーナとリチャード・ロアボーの共著で、ブルース・マリーナは『古代ユダヤへのタイムトラベル』という本で知られている新約聖書学者です。彼らはアメリカで「コンテキスト・グループ」という研究会を形成し、聖書を歴史的・文献批判的な読み方に加えて、社会学的・文化人類学的コンテキストから理解しようと学びと研究とを進めているというのです。
 『古代ユダヤへのタイムトラベル』でも鋭く指摘されていましたが、21世紀に生きる私たちの感覚や習慣からは、2千年前のパレスチナ地域の生活や感覚は理解できない、そのためにどうしても聖書と同時代の幅広い地域・文化・習慣などへの接近が必須だというのです。
 社会科学的注解は、今日の箇所に関して「子供」を取り上げてこう記しています。

 “無垢で疑うことを知らず、夢見がちで喜びに満ちた子供が、優しいイエスの膝で戯れているというイメージは、現代人の自民族中心主義的かつ時代錯誤的な投影である。…
 古代における子供時代は恐怖の時であった。出生時の死亡率は時として30パーセントに及ぶことがあった。生きて生まれた子の他の30パーセントも6歳までに亡くなり、16歳までに60パーセントが亡くなった。飢餓・戦争・病気・社会混乱の場合に、最初に被害を被るのは子供だった。地域や時期によっては、大人になるまで生き延びることは祝うに足る十分な理由となる”。

 * * * *
 ここで主イエスが抱き上げられた子どもは、“飢餓・戦争・病気・社会混乱”の最中に置かれていた一人です。子どもとは、解説にありました通り、この世の悲惨な状況の被害を最も顕著に受ける存在。そんな子どもを、ここで主イエスは抱き上げられ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる」ことを求められたのです。
 誰が最も大きいのか、誰が一番かと、仲間内でそんなことにだけ心を傾け、自分たちのエネルギーを割き・注いで、周囲の現実を見ようともしていない弟子たちがあります。そんな弟子たちへの実に厳しい批判が、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」との語りかけから響いてくるように感じられます。

○アフリカ・ザンビア共和国の現実
 夕礼拝で、マルコによる福音書の連続講解を試みていまして、6月半ばに今日の箇所を取り上げました。その説教の準備をしている時、G8サミットが閉会しました。
 今年の6月にイギリスは北アイルランドのロック・アーンで開かれたG8サミット。この先進8ヶ国首脳会議にて、グローバル企業や富裕層による「税逃れ」を封じるために連携を強化することが、一定程度の合意となりました。
 「税逃れ」の問題は、議長国イギリスによって提起され、論議を深めるために、多国籍企業が積極的に活動しながら、全く税収が得られないアフリカ諸国の首脳も、その会議の場に招かれたとのこと。
 * * * *
 サミットが終わった6月18日に、TBSの「ニュース23」が、「税逃れ」の問題を巡って特集を組んで、アフリカ南部に位置するザンビア共和国のことを報じました。
 ザンビア共和国のマザブカという都市にある砂糖企業(ザンビアシュガー)は、5千3百人を越える従業員を抱える大きな会社で、親会社はイギリスの巨大企業だとのこと。年間の売り上げは、1兆1千億円となるとのこと。広大なサトウキビを持っていて、刈り取りの作業は手作業で行われ、労働者には1日約370円の給料が支払われています。かなりの重労働ですが、実に安い賃金です。月に11億円以上の利益があるにもかかわらず、「税逃れ」が行われ、2007年からザンビアへ納税は一切なし。たぶん国で最も大きなこの企業からの税収がなく、この国は依然、貧困状態を脱することができません。
 ザンビアの貧困率は68%、5歳以下の子どもの45%が栄養失調だと報告されました。マザブカにある「ナカンバラ診療所」には毎日沢山の患者が訪れていますが、人手も医薬品も足りておらず、治療を十分に行えないため、特に幼い子どもたちが次々に亡くなっていくとのこと。
 テレビは、点滴や栄養補給してもらっている子どもたちの姿を映し出しました。うつろな眼の彼らのベッドの横の壁に、大きなゴキブリが何匹も這い回っている、そんな映像でした。
 町のマーケットでザンビアシュガーの作る砂糖を売る、若い女性の姿も紹介されました。20kgの砂糖を売って、一日100円になるかどうかの収入。さらに女性は1日20円の税金を毎日、お店に集金にくる徴税人に支払っており、こども5人を抱えて実に苦しい生活を送っています。巨大企業は一切税金を払わず、町で貧しいながらも必死に働く5人の子持ちの若い女性が、一日のわずか100円の賃金の5分の1を、税金として徴収されているのです。
 特集の最後には、ザンビアシュガーの主催のプロゴルフトーナメントの様子が映し出されました。このトーナメントの優勝賞金は日本円で1200万円だったとのこと。
 何ということでしょう。同様のことが、ザンビア共和国のみならず、農業・鉱山資源の豊かなアフリカの国では、どこででも起こっているというのです。

○その子どもの親・兄弟は
 こうした映像を観ながら、今日の聖書箇所について思わされました。
 旅の途中で「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた」弟子たち。そんな言い争いにのみ気を取られて、自分がのし上がっていくことだけを願っていた弟子たち。そんな者たちが見過ごした、進みゆく道の途中に、到着したカファルナウムの道端にひっそりと横たわっていた現実。この現実を見据え、弟子たちの心の向きを思いながら、主イエスはひとりの子どもを抱き上げたのでした。その子の親は、そして兄弟は果たして生きていたのでしょうか。その子どもの今日、そして明日からの生活はどうなるのでしょうか。
 * * * *
 この世界の現実のただ中で、最も後ろの者と共に立つ、あるいはその人々の重荷を担う、列の最後尾に佇まざるを得ない人々と共に、こうした主イエスの求めは、今の私たちにも発せられています。この主の教え・勧めを私たちはどう聴くべきなのかを思わされます。
 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」との主イエスの語りを受けて、今、飢え・苦しんでいる子どもの現実を私たちはどう見つめ、この現実にどうコミットしていくのか、私たちの姿勢が主イエスから鋭く問われています。

○平和を実現し、つくり出すことを求める主イエス
 ここに集う誰もが、この世界にある厳しい現実へと思いを向け、さまざまな奉仕や支援へ参与し、自分の時間も労力もお金も用いておいでのことでしょう。そのような業を祈りをもって続けながら、歪んでしまっている現在の社会構造をも変えていく、そのためにまず自分自身のあり方と生き方とを見つめ直す、そんな祈りと信仰を抱いて、真実に生きたいと願います。
 主イエスは平和をただ祈るようにとだけ教えられませんでした。招詞とした、山上の説教の冒頭、祝福を通じて、主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語られています。口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とのみ言葉でした。主の求めは、平和の実現、平和をつくり出すことにあります。ただ平和を待ち望むのではなく、具体的な行動へと主イエスの勧めの内に踏み出していく、「平和聖日」にあたって私たちの今を見つめ直したいと願います。