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礼拝説教

2013年9月8日(聖霊降臨節第17主日)

「必要だった苦難と歳月」

  ヘブライ人への手紙 11章1〜3節

    古賀 博牧師


〈聖書〉ヘブライ人への手紙 11章1〜3節
1:信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
2:昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
3:信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。


○ヘブライ人への手紙に関して
 ヘブライ人への手紙は、整った文体と美しいギリシャ語で書かれ、新約聖書中で最も優れた文書とされています。
 ヘブライ人という宛先は2世紀末の付加、この手紙にもともとは表題はなかったとのこと。手紙と呼ばれていますが、むしろ説教という性格を持っており、一連の説教を体系的に整理したものと考えられています。
 古くはパウロの手によると言われていましたが、その後の研究でその説は否定され、現在まで著者は確定されてはいません。90年から95年頃に書かれ、ドミティアヌス帝時代に厳しい迫害を受けていたローマ在住のキリスト者たちへと書き送られ、信仰の危機に直面するそうした人々を勇気づけ、励ます目的で記されました。
 * * * *
 今日は、こうしたヘブライ人への手紙の11章の冒頭部分を読んでいただきました。今日の聖書箇所は「信仰の勇者の賛歌」といわれるものの冒頭であり、信仰の立場を端的に示し、信仰の定義と言われる事柄を語ったみ言葉として広く知られています。
 1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語られています。この手紙の著者は、神の約束を揺るがないものとして、堅く信じていました。神の御心に反する事態が生じており、大きな苦難の中で自分たちの希望はかき消されたかに見える、その今でさえ、神が聖書を通じて約束して下さっていることは必ず成就すると信じていたのです。はっきり見定められないとしても、今この時にも神による希望は確かにあると信じる、そんな信仰を力強く告白しています。

○ひるむ者たちへ向けての説教
 み言葉が生み出された背景を踏まえるために、10章の35節以下をも読んでおきます。

 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない」。しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

 ここから、当時、この手紙の語りが向けられた人々が、今どのような状態に置かれていたのかを推測できます。
 先に述べた通り、90〜95年頃、ローマで厳しい迫害が起こりました。キリスト者の多くは迫害の厳しさに耐えかねて棄教していきました。そんな状況下にあっても、信仰を確かなものとしていくことを手紙の著者は求め、ひるんでしまっているキリスト者たちを勇気づけようとしています。
 35節に「自分の確信を捨ててはいけません」とあり、そのためには「忍耐が必要」だと語られています。
 加えて、旧約聖書のハバクク書2章3節以下を引用し、39節に「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と、キリスト者として生き続けていく道を語り、またそのあり方への励ましを強く宣べ伝えています。
 「ひるむ」とは、闘う勇気がなくなってしまって、恐れの中でただ縮こまっている、恐れだけを感じてにっちもさっちも行かない状態を指します。このような「ひるむ」あり方ではなく、患難・苦難に前向きに対処していく、それが聖書の語り継ぐ「忍耐」のあり方です。
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 こうしたことが10章の終わりで語られ、続いて11章の1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と書き進められています。
 「望んでいる事柄」とは、期待されてしかるべき希望、天にある約束のものを意味し、具体的には来るべき神の世界、揺れ動くことのない神の王国を指しています。これらが、主の再臨によって近く実現すると、当時のキリスト者は信じて生きていました。
 「確信する」は、単なる口先での約束としてではなく、それを実体としてとらえる、確実に保証されているものと受けとめるという意味があります。
 また「見えない事実を確認すること」と宣べ伝えられています。今は見えていないけれども、この今も神のご計画の内にあり、迫害に怯え、命の危機に瀕している苦難と試練のこの時にも神の希望は芽生えていると信じ、ここにも神の恵みを数えていくあり方が、この「見えない事実を確認すること」ということでしょう。

○柳澤桂子さんの思い
 柳澤桂子さんという方がいらっしゃいます。「般若心経」を現代語訳した『生きて死ぬ智慧』を2004年に出版され、大きな話題となって、私はこの方のことを初めて知りました。
 現在、76歳となられた柳澤桂子さん。お茶の水大学の理学部を卒業の後、フィアンセの待つコロンビア大学へ。留学を終えて帰国し、結婚して二人の子どもにも恵まれ、仕事・生活の両面で充実した日々を送っておいででした。ところが、31歳の時に原因不明の病いにかかります。激しい嘔吐と腹痛、頭痛、めまい、周囲からの刺激があれば覚醒するがすぐ意識が混濁する傾眠状態に苦しんでおいでになりました。以後61歳に至るまで30年間、原因不明のこの病いとの闘いを続けられたのです。
 身体の自由を次第に奪われてついには寝たきりになって、それでも身体の痛みはどんどん厳しくなったとのこと。ついに尊厳死を決断なさいます。“もう我慢できない、十分苦しんだ、もういい”と身体につけている装置を外してほしいと医師に申し出たのです。家族は病と闘い続けておいでになった彼女を思い、悲しみの中に桂子さんの願いを受け入れます。 
 死へ歩みを進めようとしていたまさにその時、母親が癒されるよう願っていた息子さんが友人の内科医に相談し、そうした中、ある精神科医が遠くから往診してくださったとのこと。
 その医師の診察・診断によって、周期性嘔吐症候群という病気だと判明し、抗うつ剤・抗痙攣剤を併用して、何とか日常生活を送ることができるまでに回復なさったというのです。
 30数年も原因不明の病で苦しんできて、たった一度の往診によって解明・回復、奇跡としか言いようがなかったと書いてあります。こうした体験を通じて、この方は、苦難から少しずつ解放され、覚悟した死から、許されてある恵みの生へと歩みを進めておいでになりました。
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 柳澤桂子さんは「般若心経」を現代語訳されましたが、一方で聖書やキリスト教とも深い関わりを持っておいでになります。特に岸本和世牧師との文通・関わりを通じて、ボンヘッファーはじめ、神学者の紹介を受け、神学書をも熟読してこられたとのこと。
 ボンヘッファーの言葉として有名な、「神の前に、神とともに、神なしに生きる」。これを副題としている『いのちの日記−神の前に、神とともに、神なしに生きる』という本があります。彼女の宗教観をまとめた一冊です。
 この本を読むと、柳澤桂子さんは、長い年月をかけて、自らの痛みや辛さの体験の最中で、聖書のみ言葉、神学者の言葉と、血の汗を流すように格闘し、少しずつご自分の中に受け入れておいでになったことを知らされます。
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 この本に、中世ドイツの神学者、神秘主義者であったエックハルトとの対話が記されています。エックハルトの『神の慰めの書』から、彼女は以下のような文脈を引用します。言葉が非常に難しいので、私なりに訳しかえをします。
 ”自分の欲望や願望を捨て、自我を断念して、神が私たちに与えたもう事柄に入っていくことが、誠に正しい回心の業であることを知らねばならない。主イエスの語られた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)とのみ言葉の深い意味とは、そのような回心を求めてのものだ。自分の十字架を負えとは、十字架であり、苦悩である全てのものを手放せということだ。このように自我より真に脱出した人にとっては、すべては喜びの出来事となるのであって、そのような人こそ、神に真実に従い得るのだ”。
 その上で、この方はこう記しておいでです。

 “このような言葉を読んではいたが、言葉の上っ面をなでただけで、意味することが少しでもわかるようになるには、私にとってその後20年という歳月が必要であった”。

 短い言葉ですが、語りの重さをつくづく思わされるのです。彼女の語る20年、普通に言っても実に長い歳月です。加えて彼女にとっては難病の只中、痛み・苦しみの連続の日々の20年。その苦難と歳月を通じて、上っ面ではなく、言葉の意味を本当に理解しておいでになったのです。苦難も歳月も必要だった、そのような柳澤桂子さんの思いが伝わってきます。

○不信仰を脱していくために
 この方の語りを通じて、改めて聖書のみ言葉に生きる、信仰に生きる、とはどういうことなのかを考えさせられます。
 柳澤桂子さんほどではないにせよ、私たちにも全ての存在、人からも神からも完全に見放されていると感じてしまう時があります。病をはじめ、さまざまな苦難・困難の最中で、呻くように立ちすくんでいることがあります。
 今日の招きの言葉としたのは旧約聖書「コヘレトの言葉」3章1節。次のように宣べ伝えられています。

 何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

 神の時を語る有名な箇所です。私たちが経験する何でもないように見える出来事、偶然と思っていること、あるいは逃れられない運命だと諦めていること、それらは実は神の時の中で生起したこと、一つひとつが神の御手の内に、そのご計画の中に置かれているのだと、聖書は宣べ伝えます。
 この「コヘレトの言葉」3章は続いて、神の時をさまざまに証し、11節にこうあります。

 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

 この箇所は以前の口語訳が名訳でした。その言葉が、今でも多くの人の心に深い印象を残しています。口語訳はこう訳していました。

 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。

 「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と聖書は語り継いでいます。どう考えても恵みとは言えない、美しいなどと表現できない、自らが、社会が直面するその厳しさ・辛さ・不条理などを踏まえて、なお「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と聖書は語り継ぐのです。
 ここにはこう告白したものの真実な信仰が生きているのだと思います。コヘレトの言葉の編集がバビロン捕囚後だとすれば、紀元前5世紀頃のこと。今から約1,400年ほど前に生きていた信仰者の告白です。この言葉を生んだ信仰を覚え、それに深く共感しつつ、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳したのでしょう。
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 今日の聖書箇所、ヘブライ人への手紙の11章1節は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と宣べ伝えています。繰り返しになりますが、「望んでいる事柄」とは、期待されてしかるべき、来るべき揺れ動くことのない神の王国の実現を指します。その実現を実体として捉えるほどに確信し、そうは見えないけれども、今も神のご計画の内にあり、この厳しい苦難と試練の時にも神の希望は芽生えていると信じ、恵みを数えて生きる、命の危機に瀕してもこうした信仰に生きようと、この文書は脅え・ひるむ者たちを励ましています。
 私自身もまた、現実の厳しさの前に、いとも簡単に脅え・ひるむ、不信仰な者でしかありません。しかし、礼拝を通じて聖書に学び、聖書に聴くことを通じて、神の御手の働き、全てを美しく整えてくださる神のご計画を信じて、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰へと導かれたいと願っています。一つひとつの苦難、解放・解決までの歳月も、この私に必要だと神が備えてくださったのだと、直面する現実と前向きに取り組み続ける、そんな信仰へと十字架の主の執り成しのもとに進みゆきたいと願います。
 聖書の言葉の上っ面をなでるだけではなく、意味することが少しでもわかるようになる、そのための体験と歳月、これを大切にしてきたいと思うのです。