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礼拝説教

2013年11月24日

「〈誰もゆるさない〉世界を越えて」

 マルコ福音書18章21〜35節

    有住航伝道師

〈聖書〉マルコ福音書18章21〜35
21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

1.「仲間を赦さない家来のたとえ」を再読する

 今日は、マタイに福音書の「『仲間をゆるさない家来』のたとえ」を読んでいます。「天の国は次のようにたとえられる」という言葉を持って語られるひとつの「たとえ話」です。

 みなさんはこの物語を読んでどのように感じるでしょうか。よくある解釈としてはこういうものがあります:この王とは神のことである。そして、わたしたちは抱えきれない負い目や罪を神に対して持っているけれども、神は憐れみによってわたしたちを赦してくださるのだ。だから、わたしたちも互いに「許せない」と思うことがあっても、神がわたしたちをゆるされたように、互いに許そうではありませんか。このように教えられてきたのではないでしょうか。

 しかし、このたとえ話が示しているメッセージは、はたして、そのような「道徳的な教え」なのでしょうか。この「王」は本当にわたしたちの神のことを指しているのでしょうか。これらのことを念頭に置きながら、物語を読み直してみたいと思います。


2.家来の「借金」

 まず読んでいて気になるのは「借金」のことです。この家来は、王に1万タラントンの借金があったわけですが、これはちょっと考えられない額の借金です。1タラントンは、諸説ありますが、だいたい6000デナリオンに相当すると言われています。1デナリオンは、一般的な労働者の1日の日当にあたると言われているので、1タラントンは6000日、つまり16年分の賃金となります。すでに莫大な金額ですが、驚くなかれ1万タラントンはその1万倍、つまり16万年分の借金を、この家来は王に対して負っているということになります。これは法外な借金です。1万タラントンという借金とはつまり、一生かかっても、どんなにがんばろうとも、決して返すことができない借金、ということです。

 しかし、この家来はどうようにして1万タラントンもの借金をこさえたのでしょうか。この家来が、ハイリスク・ハイリターンの仕事をしていたとは思えませんし、ギャンブルなどでこさえるにしても、こんなに巨額にはならないでしょう。そもそも返済能力のない人間に、返せない額のお金を貸す人などいません。これはつまり、一生掛かっても返せない借金を家来に負わせ、罪悪感を持たせることによって、この家来の生活・人生・いのちを、王の支配下に置き、一生奴隷のような存在に留め置き続けている、ということなのではないかと思います。

 普通に考えれば、そんな金額を返せるわけがないのに、家来は王に対して「どうか待ってください、きっと全部お返しします」と言っています。この家来は自分の借金の額、その実態をよく分かっていないのではないか、とさえ感じます。


3.王の「ゆるし」?

 王は最初から、この家来が1万タラントンもの借金を返済することができないことを分かっているはずです。そんな額を返せる人間などこの世にはいません。にもかかわらず、王は家来を呼びつけ、自らのからだ、家族、持ち物すべてを売り払ってでも、金を作れと恫喝します。わたしには、この王の言葉は非常に恐ろしく聞こえます。

 物語では、王は家来を憐れに思い、その借金を帳消しにしてやりますが、王にとっては1万タラントンという金額が重要なのではありません。生かさず・殺さず、死ぬまで自分のために働いてもらうこと、すなわち家来の〈いのち〉をコントロールし続けることが重要なのです。王にとっては、返済できるはずもない1万タラントンを帳消しにしてやったところで、懐は痛まないでしょうし、むしろこの家来に恩を売ってやったぐらいに思っていたのかもしれません。そう考えていくと、この1万タラントンという借金自体が、本当に正当なものだったのかすら、怪しくなってきます。だとすれば、この王はいったい何を「ゆるし」たと言うのでしょうか。


4.「ゆるす/ゆるさない」=「アフィエーミ/クラテオー」

 この物語をさらに読み解くために、物語のキーワードになっている「ゆるす」そして「ゆるさない」という言葉を詳しく見てみたいと思います。

 物語の中で「ゆるす」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「アフィエーミ」という言葉です。この言葉には、法的な負債あるいは道徳的な負い目から解放されるという意味がありますが、ニュアンスとしては、放り出す、放っておく、という意味のある言葉です。つまり、聖書における「ゆるす」とは、相手を自由にすること、相手の存在をそのままにしておくこと、というイメージです。

 反対に、「ゆるさない」と訳されるギリシャ語は「クラテオー」です。この「クラテオー」には「ゆるさない」という意味のほかに、服などに汚れが付いて落ちないという意味があり、また「相手をコントロールする」という意味のある言葉です。

 つまり、聖書において「ゆるさない」というのは、相手をつかんで離さず、自分のコントロール下に置く、ということです。これは「ゆるす」ということが、相手をそのままにしておくというニュアンスがあることと非常に対照的です。


5.「クラテオー」に注目して物語を読む

 「ゆるさない」とは相手をつかまえて離さないこと、「ゆるす」とは、相手をそのままにすること。このようなイメージを頭に置きながら、たとえ話を読み直してみると、物語の中でいったい誰がゆるしたのか、誰がゆるしていないのかが、はっきりと浮かび上がってきます。

 家来は1万タラントンという莫大な借金を抱えて首が回らず、自分の人生・いのちはお金を貸している王にすべて握られ、コントロールされています。ある日突然、家来は、借金を取り立てようとする王の下に連れてこられます。「連れて来られる」と言うくらいですから、おそらくは他の家来たちに両脇を固められて、ひきずられるようにしてやってきたのでしょう。

 王は家来に対して全額返済を命じますが、発言を翻し、家来の借金を帳消しにします。この王からすれば、お金が返済されることが重要なのではなく、この家来の生活と〈いのち〉をコントロールすることの方が重要なことですから、ここで一旦家来を「自由」の身にするわけです。

 借金を帳消しにされた家来は、その王から受けた「恩」をアダで返すような行動を起こします。家来は、仲間に対して100デナリオンの借金を取り立て、捕まえて首を絞めます。この「捕まえて首を絞める」という言葉も「ゆるさない」という意味のある「クラテオー」が用いられています。「自分はゆるしてもらったのに、なんてひどい家来だ」と思うかもしれません。しかし、この家来をわたしたちは責められるでしょうか。庶民的な感覚からすれば、16万年分の借金をゆるされた、ということをリアルに感じること自体、無理な話だと思います。逆に、100デナリオン、つまり3ヶ月分の給料という、現実的な金額を重視するこの家来の気持ちも分からないではありません。「自由」の身になった家来は、3ヶ分の給料を返してもらって、どうしたかったのでしょうか。もしかすると、家族と共にこの町を離れ、自由の身分として新しい人生を再スタートさせようと考えていたのかもしれません。

 しかし、この家来はその仲間を捕まえて首を絞め、牢屋にぶちこんでしまいます。家来は仲間をクラテオーする、すなわち、相手を自分のコントロール下に置いてしまうのです。

 事の次第を聞いた王は、家来を呼びつけ、借金を元に戻し、先ほど家来がしたのと同じように、家来を牢屋にぶち込んでしまいます。王は再び、この「不届き」な家来を自分のコントロール下に置くことになるのです。

 聖書における「ゆるす」ということが、相手を自由にあるならば、この物語の中で、いったい誰が「ゆるした」者だったのでしょうか。一度はゆるし、家来を自由にした王も結局、借金を負わせ続け、牢屋につなぎ止め、監視を強めることで、家来をさらにコントロールする方向へと向かってしまいます。このイエスの譬え話の登場人物は、よくよく読んでみると、結局誰も「ゆるすこと」ができない、そんな人間の姿が描かれているのではないかと思うのです。


6.「天の国」での「ゆるし」を考えよう

 このように読んでみると、このイエスの譬え話は、なんと救いのない物語なのだと思えてきます。こんな救いのない話をイエスがわざわざするはずがない、と思う方もおられるかもしれません。きっと、イエスの譬え話を直接聞いた弟子たちも、わたしたちと同じように「結局誰もゆるせていないではないか、これのどこが天の国なのか」と思ったのではないでしょうか。

 近年、聖書学の領域では、イエスが語る「たとえ話」の読み直しが進められています。わたしたちはこれまで、イエスがたとえ話という手法によって「天の国/神の国」の内容を直接的に明らかにしていると思ってきたわけですが、もしかすると別の可能性もあるのではないかということが言われるようになりました。新共同訳では、たとえ話の導入部分で語られるイエスの言葉を「天の国、あるいは神の国は次のようにたとえられる」というように訳していますが、これが実は「天の国、神の国をこのたとえ話と比べてみなさい」という意味で解するすこともできるのではないかという提案がなされています。

 もしイエスが「天の国とたとえ話を比べてみよ」と言っているとするならば、「たとえ話で語られる世界」は「天の国」そのものではなく、むしろわたしたちの生きる、いまのこの現実を象徴的に描いたものということになります。その場合、物語に登場する「王」は、わたしたちの「神」ではなく、この世を支配する権力者ということになります。

 イエスは、弟子たちに「今から語る『たとえ話』と、わたしたちが求める天の国とを比べてみよ」と言い、「たとえ話」を語ります。そこで語られた内容は、結局「誰もゆるさない」社会のありようであり、わたしたちの生きる社会の現実の写し絵です。弟子たちは、当然イエスに対して異議を申し立てます。「これはあんまりではないですか、結局誰もゆるしていないではないですか、これが天の国なのでしょうか。」

 もしかすると、イエスはこのような弟子たちの反応を期待して、逆説的にこの「たとえ話」を語ったのではないか。イエスは極端にも思えるたとえ話を用いながら天の国における〈ゆるし〉とはどういうものなのかについて活発に議論されることを望んだのではないだろうか。


7.「ゆるす」ことの難しさ

 聖書における「ゆるす」ということは、相手を自由にすることです。それは「もうしない」と相手に約束させることによって「水に流してやる」ということではありません。「ゆるす」とは相手の存在をそのままにすること、相手のあり方をある意味で認めることでもあります。

 しかし、これはわたしたちにとって大変難しいことです。わたしたちの日常を思い返してみても、わたしたちが相手をゆるすことができるのは、その相手がその行動を改め、再び迷惑をかけられたり、怒ったりしなくて済むようになるからです。

 しかし、これは一見「ゆるしている」ように見えますが、実際には相手が再び自分に迷惑をかけたり、自分を怒らせたりしないかどうかを絶えずチェックし、相手をコントロールしようと常に監視を続けることを要求します。これでは「ゆるす」側も、「ゆるされる」側も、結局は自由になることができません。これはまさに、冒頭でペトロがイエスに問うた「何回ゆるせばいいですか」と尋ねた、その有り様と同じです。「あいつは私に1回迷惑をかけている。あいつは2回わたしを怒らせた。あいつは4回!もう我慢ならん」というように、相手を「ゆるしている」ようで、実際は「ゆるさない」世界の中に留まりつづけているのです。

 そんなペトロ対して、イエスは「7回ではなく、7の70倍」ゆるせと語りました。7×70、数にして490回。これはすなわち、いちいち数え切れない回数、つまりは「上限無くゆるせ」ということです。このイエスの答えは、「相手の罪の数の指折り数え、相手を絶えず監視し続けるあり方」の限界を踏み越えていくものであったとわたしは思います。イエスは、誰もゆるされないあり方を越えて、誰もがゆるし/ゆるされ合う、新しい関係性を生み出していくことを、このたとえ話によってわたしたちに示そうとしているのではないかと思うのです。

 わたしたちはいま、「ゆるしとは何か」「どのようにゆるし/ゆるしあう」関係を結んでいくことができるのかという問いを、イエスから投げかけられています。この問いかけに応え、イエスの弟子たちと同じように、わたしたちもまた互いに意見を交わし合い、思いを分かち合うことができればと願っています。「ゆるし/ゆるしあう」関係を求めて、共に考え、歩んでいきましょう。


共に祈りましょう:

ゆるしを先立たせる神よ、どうかわたしたちを「誰もがゆるされる世界」へと招き入れてください。わたしたちは、誰かの失敗や過ちを数え上げ、自分たちの正当性を守ろうと躍起になることがあります。どうかわたしたちが「誰もゆるさない」あり方を越えて、共にゆるし/ゆるされあう関係を、そんな世界を創り出していく働きへと導いてください。