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礼拝説教

2016年1月3日 新年合同礼拝 説教

「幸せを数えたら…」

  コリントの信徒への手紙二 1:3〜7

    古賀 博牧師

〈聖書〉コリントの信徒への手紙二 1:3〜7
 3:わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。4:神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。5:キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。6:わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。7:あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。


○2016年を歩み出すにあたって
 新しい年、2016年を神さまによって与えられ、その最初の主の日に、私たちはこの礼拝へと集いました。この年も、同じキャンパス内で活動を続けている5つの教会・集会が合同での礼拝を主の前に捧げることができ、とてもうれしく思います。
 * * * *
 「コリントの信徒への手紙二」の1章から学んで、新年を歩み出していく私たちの信仰を整えたいと願います。
 パウロは、挨拶に続いてこの手紙を、私たちが信じる神がどんなお方であるのかを明らかにし、この神を褒め称えることから書き出しています。はっきりとした信仰の告白を込め、神への心からの賛美を為そうとしています。
 そうしたものが、1章3節の語りです。

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」。

 「慈愛に満ちた」とは、神が私たち人間を覚えて、その心を豊かに働かせてくださる様を語った言葉です。神は私たちを憐れみ・慈しんで、親しみを込めた愛の叫びを上げるほどの深く豊かな感情を、私たちへと向けてくださった、そうした神の姿が「慈愛に満ちた」と表現されています。
 さらにこの神は、私たちに「慰めを豊かにくださる」というのです。聖書での「慰め」とは、傍らに立って語りかける、呼びかけるという意味を持っています。相手と同じ場所に立って、これ以上ない親しみの内に、私たちの痛みや苦しみに寄り添いつつ語りかけてくださるというのです。こうしたお方が「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」の真実だと、パウロはまずこの神を心から賛美しています。

○パウロの実感の込められた告白
 続く4節に、実に印象的な語りが登場します。

 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。

 3節にありましたように、神は「慈愛に満ちた父」であり、私たちに「慰めを豊かにくださる」お方です。この方は、どんな状態にあるとしても、私たちを決して見捨てることなく、慰めと励ましとを送ってくださいます。
 この慰めを神から受けることによって、私たちもまたその慰めという神の働きを写し出す生き方へと導かれるというのです。
 この語りは、パウロの人生を踏まえた上での信仰の証しです。パウロは、迫害者から伝道者へと劇的に回心し、キリストを宣べ伝えて歩んだその半生を通じて、多くの苦難・艱難を経験しました。それらの只中で、神の慰めを確かに・豊かに受けたのです。
 この手紙の11章の23節以下には、パウロがその伝道旅行の道すがら、実際に体験した苦難・艱難がリストとして示されています。そこには、投獄、鞭打ち、投石、海での難破、川で溺れ、盗賊に遭い、同胞に騙され、異邦人に迫害され、町で受け入れられず、荒れ野で飢え乾き、海の上に漂い、偽キリスト者たちとの対決などなどの苦難を経験してきたことが語られています。こうした経験を通じて、パウロはただ嘆きにだけとどまったのではなく、11章29節に「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」と告白しています。執り成しの思いこそが強められたと言うのです。
 続く12章には、パウロが抱え込んだ深刻な病について告白されています。癒してほしい、何度祈っても聴かれず、生涯、彼を痛めつけ続ける程に重い病を抱えたというのです。そうした中、ついにパウロの祈りへ届いた神の答えを踏まえて、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と告白しています。
 数々の苦難、その内で最も深刻であった癒されない病を抱えた中にも、新たに主にあって、愛する者を覚えて心を燃やす、自らの弱さや欠けにも神の恵みを実感する、そんな信仰へと、パウロは導かれていきました。

○忘れられないあるご婦人の証し
 今日の箇所に登場する4節の響きを、私はある方の証しの姿と共に深く心に留め置いています。
 私はここに改めて遣わされるまでの13年、山口信愛教会という地方の小さな教会で奉仕いたしました。その時代、有吉あさ子さんというご婦人が、家庭集会にてこの箇所を読んで証しをされたのです。
 2003年、今からもう14年も前に79歳で天へと召されたこの姉妹。若き日から結核の治療に追われ、生涯、入退院を繰り返し、晩年には重症の心不全に苦しまれました。彼女がまだお元気であった時、家庭集会でご自分の病の半生を証しされ、その時に読んでくださったのが4節のみ言葉でした。再度お読みします。

 4:神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。

 病弱な有吉あさ子さんは、奉仕を通じての信仰の証しをと願いながらも、教会の兄弟姉妹を覚えて祈ることしかできない、そんな嘆きを次のように口にされました。

 “病気ばかりで、私に今できることは、兄弟姉妹を覚えて祈ることだけ。本当に小さな業、それしかできないのです。神の恵みに感謝し、何としても神の御旨に応えたいと思っています。でも、私にできるのは本当に小さな業、そのことが残念でなりません”。

 そんな彼女ですが、この“本当に小さな業”に、最後の最後まで奉仕されました。自宅にあっては、兄弟姉妹を覚えてあさ子さんが毎朝祈り、夫の昇一さんがその祈りを受けとめて、祈りに覚える方々に手紙を書き続けられました。
 こうした有吉あさ子さんの祈りと奉仕は、病院でも継続されました。少し状態が安定してくると、病院の公衆電話から、何人もの方々に電話をかけ、その方たちに慰めと励ましを語り継がれました。最後の入院、天に召されるほんの2週間前まで、もう立ち上がることができなくなるまで、身体の痛みを押してまで、彼女はずっとこの業を続けられたのです。
 お見舞いに伺うとよく公衆電話で電話していらっしゃいました。それが誰へのものであったのか、彼女が召天された後、私はその真実を知らされたのです。

○印象的な「SACHIKO」の歌い出し
 今日の説教題、「幸せを数えたら」とは、ある歌の歌詞からの言葉です。37年も前、1979年に大ヒットした「SACHIKO」という歌がありました。フォークシンガー・ばんばひろふみの歌です。
 一番と二番、最初に登場する歌詞がとても印象的なのです。

〈1番〉 幸せを数えたら 片手にさえ余る
    不幸せ 数えたら 両手でも足りない
〈2番〉 幸せを話したら 5分あれば足りる
    不幸せ 話したら 一晩でも足りない

 最初に聴いた時は何とも暗い歌だな〜と、軽く聴き流していました。その後、40年近い年月を歩む中でさまざまな事柄を経験し、この歌の歌い出しそっくりの心情や生活実感に支配されている、と思うことがあります。幸せや満足の実感はほんの少しだけ、それに対して日々感じる不幸せや不満はもう数知れない、実に不信仰なことですが、そうした感覚や心情を抱えている自分を発見するのです。
 * * * *
 私事ですが、心臓の病のために一昨年に大きな手術、昨年の春には心不全で1ヶ月半に亘る長期入院を余儀なくされました。私の心臓は人の半分の機能しかないそうで、無理が利かないため、仕事の形態や食事などを見直し、整えていく必要があると診断されました。
 長かった入院生活においては、電気ショックやカテーテル手術も受けましたが、心臓の状態が安定せず、退院後もAEDを背負うようなベストをつけて、突然死を避けて9月までを過ごし、今後も病状によっては身体に機械を埋め込むことになるかも知れません。
 こうした中で、どうしても暗く後ろ向きになり、不幸せ・欠けばかりを見つめる、そんな風に心が動きました。入院中、改めて深く思わされたのが、今日の4節のパウロの語りであり、このみ言葉を堅く信じて奉仕を続けられたご婦人の姿だったのです。

○数えるべきもの、語り継ぐべきもの
 私だけではなく、ここに集う誰もがさまざまな苦難・困難、あるいは病や痛みを背負っていらっしゃることと思います。時として、祈っても祈ってもそれらから一向に解放されない、場合によっては一生癒されることがない、そんな深刻な悩みや病をも抱え込んでしまう、こうした厳しさを私たちはそれぞれの人生において経験します。
 しかし、どんな状態に私たちが置かれるとしても、神は私たちを見捨てない、そのように聖書に語り継がれています。私たちに豊かに臨んでくださるのは、「主イエス・キリストの父である神」、この方は「慈愛に満ち」で「慰めを豊かにくださ」います。
 それぞれが抱え込まざるを得ない痛みや病は、ただ孤独に耐えなければならないのではなく、慈愛の神がそれらを共にし、真の慰めを与えてくださいます。
 そしてさらに、神から与えられる慰めの体験を、私たちが「あらゆる苦難の中にある人々を慰め」へとしっかりと繋いで、彼らのために祈り・奉仕していくことができるように、神は私たちを欠けのあるままに用いてくださいます。
 ならば、私たちが神の御前に数えるべきは、不幸せの数ではありません。また、続けるべきは不幸せを巡る語り・嘆きの言葉ばかりではありません。そうではなく、神の恵みを数え、痛みや苦しみの中にも神に道備えられる感謝を証ししたいと願います。
 “幸せを数えたら 片手にさえ余る…幸せを話したら 5分あれば足りる”という状態を脱し、幸せと神の恵みを限りなく数え、その感謝を尽きることなく語り継ぐ、そんな確かな信仰を求めて、新たな2016年へと共に、神に伴われつつ歩み出したいと願います。

〈祈り〉
 主なる神さま、2016年の最初の主日礼拝に、愛する方々と共に集うことができて感謝します。
 あなたは今年も、近隣にあり、共に支え合い、祈り合うキリスト者たちをここへと集めてくださいました。教派も国籍も違う私たちですが、あなたにあって深く結ばれ、一つであることを確認して、宣教の活動を続けることができますように。
 神さま、どんな状態に置かれても、あなたが私たちに寄り添い、見捨てずに支え、導き、慰めを与えてくださることに感謝します。
 新しい命、新しい年への歩み出しが許されたとの感謝をもって、何よりもあなたの恵みをこそ数えつつ、周囲への執り成しに、どんな場にあってもあなたの証しに生きることができますように。
 この一年、あなたの祝福を受けて、お一人おひとりの健康が支えられ、その生活と働き、ご家庭に神の恵みが満ちあふれますように。
 一言の感謝・祈り、主の御名によって祈ります。アーメン。