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礼拝説教(テキスト)

2012年2月5日「台木と穂木」(ヨハネによる福音書15:1〜10) 古賀博牧師

○神と国・民との繋がりの象徴としてのぶどう
 今日は「ヨハネによる福音書」15章の冒頭部分を読んでいただきました。「わたしはまことのぶどうの木」とは、よく知られている主イエス・キリストの語りです。
 ぶどうの木は、新約聖書だけではなく、旧約聖書にもさまざまな譬えとして語られています。それらは基本的に、イスラエルの国と民族とを象徴しており、農夫の世話を受けてぶどうが生い茂り、豊かに実をならせる様は、主なる神によってもたらされる国と民の繁栄と祝福とを意味していました。
 「イザヤ書」5章の1節以下を読んでおきましょう(旧約聖書1067ページ)。第一イザヤは次のような預言を残しています。
 「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った」。
 今読みましたところに描かれているのが、神と国・民との関係です。
 しかし、このよき関係を国と民の側が破っていくのです。2節b以下にこうあります。
 「しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。5さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ6わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)」。
 ここでぶどう畑はユダ王国のことを、ぶどうの木はイスラエルの民を表しています。神が肥沃な地にぶどう畑を作り、そこに神の民としてのぶどうの木を植えたというのです。ところが、このぶどう畑になったのは酸っぱいぶどうで、食べられるものではなかったのでした。
 神の期待を裏切った国と民の趨勢について「囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ …これを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂」り、厳しい日照りに遭うと、ユダ王国がその罪に故に滅んでいくことが預言されています。
 この箇所に明らかなように、ぶどうは神と民との繋がりや関わりを象徴として、旧約聖書時代から用いられてきたのです。

○台木(主イエス)に穂木として接がれた私たち
 イスラエルにとってぶどうとは、古くから身近な作物であり、食べ物でした。ぶどう酒の原料としてのみならず、干しぶどうとしたり、種は炒って煎じて飲み物とされ、薬としても用いられたと聞きます。
 ぶどう畑も一般的なものであり、日本のように棚作りではなく、垣根作りであったそうです。
 そして、良い実をならせるために接ぎ木をしました。野生の強い台木を探し当ててきて、それを畑に移し替えます。この台木に良い品種をならせる枝を接ぎ木しました。台木に接がれる枝を穂木といいます。今日の説教題を「台木と穂木」としましたが、これは接ぎ木の有り様を意味しています。
 このようにして作った実をならせるぶどうの木を、3年間、徹底的に刈り込むのだそうです。この期間は実を結ばせることなく、刈り込んでぶどうの力を内に蓄え、実りへと向かって備えるのだそうです。一度実がなった後も、また不用な枝を刈り込んで落とし、本当に必要な枝だけ、つまりは実を結ぶであろう枝だけを残していくとの作業を繰り返すのだとのこと。

 さて、今日の箇所でのキーワードは「メイネン」というギリシャ語です。この言葉には「つながる」「とどまる」「内にある」などの意味内容があります。
 この言葉は、「ヨハネによる福音書」のみならず「ヨハネの手紙」にも繰り返し用いられているヨハネに特徴的な用語です。特に「ヨハネによる福音書」15章では、17節までになんと11回も用いられています。
 福音書や手紙の他の箇所で、この言葉がどのように用いられているかを比較してみますと、主イエスとその弟子たちとの実に深いいのちの繋がりを示す場面で、この「メイネン」が用いられ、「つながる」「とどまる」「内にある」ことを宣べ伝えているのです。
 このようにメイネンという言葉を繰り返し用いながら、主イエスは弟子たちに自分に「つながる」ことを求めました。これは、ぶどうを台木に接ぎ木していくあり方からして、いのちの源である自分との繋がりで真のいのちに生きるようにとの勧めでしょう。
 「とどまる」との意味を通じては、主イエスの教え、福音に立ち続けることが求められているように感じます。また「内にある」ことからは、忘れることなく、常に心に教えを置いて、立ち返るあり方への求めがあるのではないでしょうか。

○3〜5節を中心として
 当時のぶどうの栽培方法を踏まえて、主イエスは語っておいでのようです。
 2節には「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とありますが、まさにこの通りのことが行われたのです。様々に接ぎ木をして、良い実をならせる枝とそうでない枝とが峻別され、刈り込まれました。
 また6節に「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」とあります。実際、台木にうまく接ぐことのできなかった枝は枯れてしまいますので、それらは集められて焼かれたのでした。
 このように実を結ばない枝の除去や排除、焼却についても語られているため、ここは裁きの文脈でも読まれてきました。先んじての13章でユダの裏切りの予告やペトロの離反予告の響きを重ねて、そうした裏切り者や離反者、そして神の思いに反して実を結ばない者は、ここに記されているように除去・排除の対象となる、そんな読み方もされてきたようです。
 しかし、私たちは3〜5節に重きを置いて読みたいと願います。3節で主イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と、主にある恵みと救いとを弟子たちに宣言してくださっています。
 ある聖書注解者は言葉を補いつつ、この主の語りの内容を展開しています。「あなたがたは私があなたがたに語ったことばによって、すでに豊かな信仰に生きる聖なる仲間として清いのです。切り捨てられることなどありません」。主イエスが選び、接ぎ木した枝を、彼自らが除去したり、排除することはないというのです。この主の恵みにしっかりと立ち続ける中で、台木である主に「つながる」「とどまる」「内にある」穂木としての使命を実感したいものです。

○神さまの「思い」
 今日から第36期の教会聖書講座が始まります。今回の講座は全体として「私と聖書〜○○の視点から」との主題で行っていきます。
 第3回だけは趣向が変わっておりまして、『ガリラヤのイェシュー』を用い、さまざまな方言でもって聖書を読み、じっくりと味わいたいと願っています。「セケン語訳聖書」とも言われるこの聖書が発行され、訳者である山浦玄嗣さん(内科医)は、大船渡にて津波の被害にも遭っていらっしゃるということもあり、さまざまなところで大きく取り上げられています。
 先頃、文春新書から『イエスの言葉』という本も出されました。これはこれまでギリシャ語から山浦玄嗣さんの故郷の言葉、ケセン語に聖書を訳していく過程で、考えたり、感じたりしてきたことをまとめられた一冊です。聖書の内容を、身近な人の心に響く言葉にどう置き換えることができるのか、何を聖書は語らんとしているのか、そうしたことを深く問いながら進めておいでになった翻訳作業、その過程での思いや祈りをさまざまに教えられます。
 全体で38項目にわたって記されていますが、一番最初の項は「神さまの思い」と題されており、「ヨハネによる福音書」の冒頭部分が取り上げられています。
 新共同訳聖書でこの福音書の1章1〜2節はこう記されています(163ページ)。
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。
 この箇所を山浦さんは、「初めに在ったのァ 神さまの思いだった。思いが神さまの胸に在った。その思いごそァ神さまそのもの。初めの初めに神さまの胸の内に在ったもの」と訳しています。このように「言」を「思い」と訳しておいでなのです。かなり印象的な訳です。
 また1章4節の「言の内に命があった」という箇所を「神さまの思いにァ あらゆるものォ 生がす力ァ有って」と訳し、後の文章を通じて、聖書の語る「命」の意味内容について、ご自分の理解を書いていらっしゃいます。
 聖書に「命」(ギリシャ語でのゾーエー)との言葉が数多く登場するが、それは人間が元気に、幸せに活き活きと生きること、このことをぜひ覚えて読んでくださいと語っておいでです。
 聖書の語る「命」とは、人間が元気に・幸せに活き活きと生きるということ。「言の内に命があった」という語りは、山浦さんの主張を踏まえるならば、次のようになります。神さまの思いとは、人間に元気に・幸せに活き活きと生きる力を与えるもので、神さまの思いは、そうしたものとして私たち一人ひとりに臨み、注がれているというのです。

○元気に、幸せに活き活きと
 とかく私たちは神を誤解しています。神さまは人を厳しく監視しており、神の御心に立ち続けているのか、そうでないのかを常に問い、そのことをもって善し悪しを判断される、そんな恐い方だと考えて、神の前に萎縮してしまっていることがあります。
 こうした誤解とは往々にして、伝統という名を持つ教会の教えや、これこそは大事にしなければと神ではなく、人間が言っている戒律などから発しており、信仰という名で人々を縛り付ける方向へと動いていく、そんな傾向があります。主イエスが批判しておられる律法主義のあり方を、教会やキリスト者が悲しいかな体現してしまっていることがあります。
 でも、神さまは人間が元気に、幸せに活き活きと生きることを望んでおられるのです。神さまの思いとはこうしたものだと、「ヨハネによる福音書」は冒頭から宣べ伝えているのなら、今日の箇所を裁きの響きで読む必要はありません。
 3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と主イエスは大いなる恵みと救いとを宣言してくださいました。そして、神の側から接ぎ木した枝を除去・排除することはないというのです。この恵みに立ち続ける中で、「つながる」「とどまる」「内にある」を、穂木としていのちの源の台木に恵みによって接がれたものとして、主イエスからいのちと力とを与えられつつ、それぞれのあり方で元気に、幸せに活き活きと生きることを祈り求めたいと思うのです。

○穂木としての使命
 ある牧師は、毎週の礼拝の最後、祝祷と共に響いている神のみ声を次のように取り継いでくださいました。「おい、今週もよろしく頼むよ」。こうしたみ声でもって、神は私たちを礼拝からこの世へと送り出されるというのです。そして、神の祝福をそれぞれの場に持ち運ぶ者として、その使命に生きてくれと、「おい、今週もよろしく頼むよ」と私たちを派遣されるというのです。
 実際の生活を見るならば、「おい、おい、私はそんなことを望んでいないよ」と神を嘆かせる者でしかない私たちですが、それでもなお、そんな者を毎週の礼拝へと呼び集め、改めて整えてくださり、「おい、今週もよろしく頼むよ」と繰り返し派遣してくださるというのです。
 「わたしはまことのぶどうの木」と語られる主イエス・キリストは、ここに集う一人ひとりを、恵みによっていのちの台木に接ぎ木してくださっています。私たちは誰もが穂木としての働きを、主によって強く望まれ、励まされています。
 私たちは、それぞれのあり方でもって、元気に、そして幸せに活き活きと生きることを通じて、こうした主の恵みに、「おい、今週もよろしく頼むよ」と派遣してくださる神の御旨に応えていきたいと思うのです。