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礼拝説教(テキスト)

2012年1月22日「愛なき時代に」(マタイによる福音書24:1〜14) 古賀博牧師

○マタイ福音書の黙示録
 「マタイによる福音書」には、23章後半からキリストの来臨と終末を巡っての記録が続きます。
 この箇所は、マタイ福音書の黙示文学、あるいは黙示録と呼ばれています。黙示とは元々は隠されているものの意味や秘密を明かすということで、ここでは、キリストの来臨と世の終わりについてを秘密の内容としているということになります。

 24章ではまず1〜2節にエルサレムの滅亡について語られています。これは23章の37節以下に語られたエルサレム荒廃の予言を受けてのことです。1〜2節をお読みします。
 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。
 主イエスは弟子たちに向かってエルサレムの神殿崩壊を告げていますが、これは主イエスの独自の予言ではなく、旧約聖書「ザカリヤ書」に残る、エルサレム全体の崩壊の預言を背景にしてのものと理解されています。
 「ザカリヤ書」14章には、来るべき主の日、つまりは終末の時、主はオリーブ山に立たれ、その山を東西の半分に裂けさせ、同時にエルサレムも半分は滅亡することが預言されています。オリーブ山とはエルサレムという都の東にあり、深いキドロンの谷を隔てて、町と向かい合っている山で、この山の頂からエルサレム全体が眺望できるようです。
 「ザカリヤ書」14章では、この都を望む山が大きく二つに裂けて、エルサレムの町も、そこに暮らす人々も、そして国自体も半分とされるとの情景をまず描きます。その上で、「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」と語りを進め、破滅的状況にあって新たに神の統治が始まり、安住の地としての新しいエルサレム建設、この幻が語られています。
 こうした「ゼカリヤ書」の預言を意識しながら、弟子たちは、かつて預言されたような終末はいつ実現し、主の到来はどんな徴を伴っているのかと3節に問うのです。
 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」。
 この問いへの答えとして、主イエスを通じて、終末の恐ろしい情景や現象というものが次々に語り出されていくのが、今日の箇所です。

○救いの完成としての終末
 さて、聖書の語る終末に関して、その意味と方向とをしっかりと踏まえておくことが大切です。聖書の語り継ぐ終末、あるいは終末論とはエスカトロジーといわれるもので、とかく日本などでブームになる破滅的な終末論、これはカタストロフィーと表現されますが、この二つは区別して考える必要があります。
 今日の箇所からも明らかなように、キリスト教の終末論=エスカトロジーにも、破滅・破局的側面があります。しかし、キリストの再臨と結びついた終末論は、単なる破滅・破局ではなく、別の側面にこそ光を当てるのです。
 キリスト教は、キリストの再臨を世界に一つの結論が出る時と捉えています。第一のキリストの来臨、つまりはクリスマスにはじまった主イエスの生涯を通じて、成し遂げられなかった事柄に最終的な答えが神から与えられるのが終末であり、その時には福音が全世界の宣べ伝えられ、神の愛がこの地上を満たして、ついに救いが完成する日なのだと考えるのです。
 このように神の愛がこの地上を満たし、ついに救いが完成する日が終末であるのならば、恐れてばかりいる必要はありません。むしろその終末の日が少しでも早く到来するようと、私たち一人ひとりも祈り求めるべきであろうとも思います。

○終末への過程(一般的予兆とキリスト者への迫害)
 しかし、こうした完成としての終末に至るまでには、過程というものがあります。そして、終末へと至っていく道筋には、私たちキリスト者にとって、かなりの困難や苦しみが満ちています。今日の主イエスの語りには、この終末へと至っていく過程に起こり、私たち人間を惑わし、悩ます数々の出来事が語り継がれています。
 主イエスは、まず一般的な予兆について語ります。それが5節から7節までです。5節にあるように「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わす」、また6節には「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と語られています。続く7節には、紛争と飢饉、地震が予兆として起こると予言されています。
 しかしこれらの一般的現象の全てが、「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と8節に語られています。事態はもっともっと深刻さを増すというのです。

 主イエスの語りは、9節以下で今度は教会やキリスト者が具体的に直面する現象へと移ります。「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。
 12節に語られている「不法がはびこる」とは、律法が廃れて、無法の状態に至るということです。招詞とした「ローマの信徒への手紙」13:8〜10に、パウロは律法の中心とは何であるかを語り継いでいます。「そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約され」るのであり、この隣人愛こそが「律法を全うするもの」だと宣べ伝えられています。しかし、この律法が廃れ、無秩序な状態になることによって、「多くの人の愛が冷える」というのです。愛の心が冷えていく、世の中だけに限らず、キリスト者、教会において人々の心が冷え切って、愛が見出せなくなる、実に印象的で、また非常に示唆的な語りであるように感じます。

○阪神・淡路大震災時のある家族
 12〜13節にある「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」を巡って語られたメッセージを忘れることができません。
 それは今から17年前、あの阪神・淡路大震災の現実を踏まえて、当時、西中国教区の議長であった八十川昌代牧師が、教区の集会にて語られたメッセージです。
 神戸市内で長く奉仕なさった後に、西中国、広島主城教会へと転任なさった八十川昌代牧師。長年住み慣れた場所を襲った大震災を人ごととは思えず、ご自身も大変大きな衝撃を受けたというのです。地震による建物の倒壊、そして神戸市長田区を中心とした大規模な火災によって、6千人を超える方々の命が奪われました。住み慣れた町、教会活動を通じて交わりや関わりを与えられた多くの方たちの生活の場が、地震によって破壊されたのだと語られました。
 阪神・淡路大震災は、日本におけるボランティア活動の分岐点ともなり、若者を中心として救援ボランティアが多数集まり、長期にわたる支援活動の担い手になるなど、痛み・苦しみにも明るいニュースを届けた反面、被災者どうしの諍い、火事場泥棒のような行為や詐欺、隠れたところでの暴力や抑圧など、人間の世の常としての悲しく冷たい側面をも浮き彫りにしたのでした。どうしてもこうした暗さの部分に目を留めざるを得ないのだとのお話。
 厳しい被災の現実の最中、苦しみにさらに苦しみを重ねるようなこうした出来事を見つめながら、この牧師はどうしても今日の聖書の箇所を、主イエスが世の終わりに至る過程の状況を予言していらっしゃる、その言葉の一つひとつを思い起こさざるを得なかったというのです。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」、そんな暗い現実が私たちの生活の最中に、特に被災者たちの直面している現実の中に立ち現れてきてしまっていることを、本当に悲しく思っているとのお話でした。

 主イエスはこの時、私たちに何を課題とするようにと求めておられるのか、このことについて一つの家族のあり方から学ぼうと、ある被災家族の姿について語られたのです。
 倒壊した家の下敷きになってしまった一家4人。壮年の夫婦二人と息子の3人は、自力で、あるいは周囲の助けを借りて、何とか瓦礫から這い出すことができたのだそうです。ところが、一番高齢の家族であるお祖母さんは倒壊家屋の奧に閉じ込められてしまったのでした。多くの人の手を借りて何とか助けだそうとしますが、震災直後の混乱状況の中、大型の重機も到達できず、人力ではどうしても限界があります。お祖母さんの手や身体の一部に触れることができるまでは瓦礫を撤去できたそうです。しかし、どうしても助け出すことができません。
 人命救援は時間との闘いです。時間が経過と共に生存率は下がっていきます。この家族は丸二日経ってもなお、お祖母さんを瓦礫から助け出すことはできなかったのです。
 家族は最後まで諦めず、瓦礫の隙間から手を伸ばしておばあさんの手を握り、身体をさすって励まし続けます。厳しい寒さの中、家族が交代でこうした業を続けたというのです。
 最初は声を発することもでき、会話も交わせたお祖母さんですが、時間の経過と共に次第に弱っていき、意識を失い、昏睡状態へと至っていきます。瓦礫の下で段々の弱りゆく生命、冷えていく身体、それでも家族は隙間から必死に手を伸ばし、彼女の手を握り、触れ得る身体をさすって、お祖母さんに少し熱を与えよう、その命を繋ごうと必死に奮闘します。こうした状態で3日が経過し、ついにお祖母さんは瓦礫の下にて亡くなられたというのです。
 結果から言えば家族を助けることはできなかった、彼らの行いは無駄だったのか、そうした思いにどこか引きずられつつも、八十川牧師は、彼らから学び、示しを受けたいと語られました。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」、そんな現実に直面せざるを得ないとしても、キリスト者・教会は愛を諦めない、最後まで兄弟姉妹・仲間をあたため続ける、そしてさらに社会をもあたためる、そんな業に祈りと命を燃やしたいとお話になりました。

○愛なき時代としないために
 先週、支区のワンドロップ献金のお願いを配布し、今日はまた支区東日本大震災被災支援特別委員会が行う、被災支援募金(第Ⅱ期)のお願いを配っています。二週連続しての献金・募金のお願いをなす、そのことを大変心苦しくも思っています。
 現在は隠退なさいました大塩清之助牧師が、北支区の集会で東京教区の歴史について講演なさった際、沢山の教会があるこの東京においてこそ、キリストのからだとしての教会を教会ならしめるものは何なのかを意識しなければならないと語られました。
 数多くある各個の教会が主によってこそ結ばれて、全体としてキリストのからだとしての教会を形成していくのですが、からだの部分・肢体として、それぞれが生きて働くためには、血管が繋がれて、その血管を通じてあたたかな血液がそこに流れなければならない、こうした繋がりの中にまさに血が通い合う、そんな深い結びつきが生まれていくのだというのです。
 教会どうしをつなぐ血管の役割を果たすのは、まず第一に他教会を覚えての祈りであり、次に大切なのは互助だとお話になりました。お互いを覚えて祈り、お互いに助け・補い合うために互助する、この二つの業がキリストのからだの血管と血液の働きを担うというのです。
 ワンドロップ献金は支区内54教会・伝道所の内、人的・経済的な困難さを抱える群れを覚えて祈り、互助するためのものです。今日新たにお願いしております被災支援募金も、まず第一には東日本大震災で津波の被害を受け、また倒壊の危険を抱える4つの小さな教会を覚えて、その教会の経常会計を支える互助のために用いられます。
 こうした献金・募金を通じて、愛を諦めない、仲間をあたため続ける、そしてこの社会をもあたためる、そんな方向へと具体性をもって進みたいと思うのです。

 斉藤和義が「やさしくなりたい」で、「愛なき時代に生まれたわけじゃない」と歌っています。私たちの生きているこの時を愛なき時代としないために、愛に生きることを使命とされている私たちは、まず仲間とされている教会を覚えて主に望まれる業へと励んでいきたいと願います。そこからさらに、この世を、広く社会をあたため得る働きを祈り求めていきたい、そう思うのです。
 13節後半に「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と語られています。第一には、迫害を耐え忍ぶようにとの勧めですが、この「耐え忍ぶ」には使命に立ち続けるとの意味もあるそうです。
 どんな時代にあっても、厳しい迫害の時にも、教会・キリスト者は備えられている使命に立ち続けていくよう、主イエスによって「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と求め・促されていると知りたいと思うのです。