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礼拝説教(テキスト)

2012年1月29日「ひとあし、またひとあし」(詩編119:105〜112) 古賀博牧師

○最長の詩編119編を貫いているもの
 今日は「詩編」119編の105節以下を読んでいただきました。
 「詩編」119編は、全体で176節にまで及ぶ実に長い詩で、150編ある「詩編」の内で最長のものです。全体が22の小節に分かれていまして、そこにアレフから始まりタウに至る小節の区分が置かれています。アレフ以下タウに至るまでヘブライ語の22の字母というものを表題に用いて、各小節8節のリズムで歌われています。一定の韻を踏む形で成り立っており、そのリズムと韻とは、この詩を諳んじるためのものでした。176節に及ぶ長編のこの詩も、そのリズムに従って繰り返し諳んじていたイスラエルの人々は、いつでもこの「詩編」に記されているみ言葉を心に呼び起こしつつ歩んできたのでした。
 これほどに長い「詩編」119編の全編を貫いているのは、神の律法と教えへの大いなる信頼であり、神の御旨に誠実に応答していこうとの信仰の姿勢です。今日は、交読詩編として119編の冒頭部分を取り上げましたが、最初の1〜8節に以下のようにありました。
 「いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず 主の道を歩みます。あなたは仰せになりました あなたの命令を固く守るように、と。わたしの道が確かになることを願います あなたの掟を守るために。そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても 恥じ入ることがないでしょう。あなたの正しい裁きを学び まっすぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください」。
 この冒頭の部分から、この詩を歌った人の誠実な信仰が読み取れると言われます。この119編の作者にとっては、神の教えに対して誠実に生き抜くこと、また何を差し置いても神を求め、全身全霊で神を信ずることこそが生きる上での課題だったのです。

○人生という巡礼の旅を導くもの
 今日の箇所に「あなたのみ言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」と歌われています。これは、古くから多くの人々に慰めと励ましとを与えてきたみ言葉です。
 イメージされているのは、人生という長い旅を巡礼していく者の姿。暗き闇の中に彷徨い、神の救いを祈り願いながら、人はそれぞれの重荷を背負って人生という巡礼の旅を続けます。
 そうした人生は、私たちの祈り願いにもかかわらず、決して一直線のものではありません。時として道を誤り・踏み外して、私たちは道に迷います。このようにどちらに進んでよいのか判断に迷う中に、この人は、実に小さくか弱くとも、一つの確かな希望の光が与えられているのだと歌いました。こうしたことが、「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」とのみ言葉の真意です。
 旅人が掲げた光とは、優れたサーチライトのように遠くまでを照らし、暗闇にもしっかりと道を示し得た、そんなものではありません。今から約3千年前、当時を旅する者たちが持ち得た光とは、小さなランプでした。小さく平たい皿に少量の油を盛り、そこに灯心を浸してこれに火を灯したのです。これには風を避けるフードもなく、激しい風に煽られるならばすぐに消えてしまうような代物。実にかすかな光、ささやかで弱い光です。しかし闇の中ではそんな光をも必要とし、ほんの一歩先を照らしながら、旅人は夜を歩んだのでした。
 この光がなければ、旅人は闇に飲み込まれてしまいます。深い闇の中に微かで弱い光を灯し、この光に頼って一歩を踏み出す、その光がさらに一歩先を照らすので、そこに一歩を踏み出す、このような一歩、また一歩を積み重ねながら、旧約聖書時代を生きた人々は巡礼の旅としての人生を歩み続けました。

 讃美歌288番は、こうした歩みを信仰の人生になぞらえて歌い継いでいます。1〜2番にこう歌われています。

たえなるみちしるべの ひかりよ 
家路もさだかならぬ やみ夜に
さびしくさすらう身を みちびきゆかせたまえ
ゆくすえとおく見るを ねがわじ 
主よ、わがよわき足を まもりて
ひとあし、またひとあし みちをばしめしたまえ

 このように、私たちが踏みゆくひとあし、またひとあしを支え、暗きに道を確実に示めす光として主イエスがいらっしゃることを歌っているのが、この讃美歌です。
 今日の箇所との関連で言えば、私たちのひとあし、またひとあしを支えて、闇の中に道を照らし出していく光として神のみ言葉が与えられていると、今日の「詩編」の作者は告白しているのです。
 この告白の背後には、どのような状態にあっても私たちを見捨てることなく、必ず共に歩んでくださる主なる神への信頼と感謝とが響いています。そしてこの確信を杖として代々のキリスト者たちは歩みました。彼らの信仰の一番の基いには聖書のみ言葉が置かれ、み言葉に真摯に聴き、み言葉に励まされて、彼らは生き続けたのです。

○ある姉妹の証し
 年のはじめに年賀状の交換し合いました。わずか年一度のことですが、親しい人たちとそのように年頭の挨拶を交わし、また互いの近況をも知らせ合ったのでした。
 かつて奉仕した山口信愛教会の会員や関係者ともそのようにして挨拶を交わしたのですが、お一方からご家族連名で年賀状が届きました。現在、愛媛県松山市で息子さんの家族と一緒に生活をしておいでの姉妹があり、姉妹に加えて息子さん、そしてお連れ合いさんの3名の連名での年賀状でした。書いてくださったのは息子のお連れ合いさんです。
 少しずついろいろなことが分からなくなっている、つまりは痴呆が深くなってきている姉妹を支えながら、何とか元気でやっていると書かれていました。悦子共々、山口で長く独りで暮らした姉妹が、今ご家族と一緒の生活を許されていること、良かったと語り合いました。
 早くに夫を亡くされて以降、20年近く長く独りで生活していらした姉妹。毎年年明けに初週祈祷会という家庭集会を行い、皆してその方のお宅を訪問し、集会後には交わりを深めました。こうした折りに彼女はご主人が最期のことについて証ししてくださったのです。
 県庁職員として公共事業を担当しておられ、ある工事受注をめぐってトラブルとなり、ついには訴訟にまで発展、県の担当者としてこの訴訟にも巻き込まれたというのです。
 様々な出来事の中での板挟み状態は大きなストレスとなり、彼の免疫を低下させたのでしょう、癌を発症され、発見された時点で既に末期に至っていたとのこと。激しい痛みを訴える彼の看病を病院にて続けながら、姉妹の心は一つの疑念で占められていたというのです。
 「こんなに主人が苦しんでいる…、自分も迷っている…、本当に神さまはいらっしゃるのだろうか…」、そんな思いで過ごしておいでであったそうです。「神さま、あなたはどこにいらっしゃいますか」、そんな祈りとも知れない問いかけを続けながら、一向に答えは与えられなかったというのです。
 当時の牧師に躓いて、教会からも離れ、ひたすら孤独にこうした思いを噛み締め、「神さま、あなたはどこにいらっしゃいますか」と祈りつつも答えを得られずにいらしたのです。
 ある時、他教会の牧師が心配してお見舞いにこられたとのこと。彼女はその牧師に「先生、神さまは本当にいらっしゃいますか?」と尋ねられたのだそうです。いきなりの鬼気迫るような問い、その牧師は彼女を包み込むように、「神さまは確かにいらっしゃいますよ。いまも生きて働いていらっしゃいますよ」とはっきりと語られたとのこと。
 この一言に本当に安心して、ご自分を保って愛する方を最期まで看取られます。教会にもその後に復帰し、長く喪失感に苦しみながらも、何とか信仰を捨てずに歩んでくることができたとおっしゃるのです。
 お話の際には、必ず「マタイによる福音書」28章を読まれました。今日、招きの言葉とした箇所です(新約聖書60ページ)。
 少し前の16節以下を読みます。

 「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』」。

 20節の後半に登場する「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのみ言葉を頼りにし、これを杖として、あの苦しみの最中を歩むことが許され、以後様々な困難の中にも導かれてきた、そしてこれからもこのみ言葉を、この主イエスの約束を信じて生き続けたい、そんな証しを私たちは何度も伺いました。
 「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」とのみ言葉に触れる時、私はこうした姉妹の証しを、彼女の信仰の姿を思い起こすのです。そして私もまた、彼女のように示されたみ言葉を頼りに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との主の約束を信頼して、人生を歩み続けたいものだと思わされるのです。

○印象的な14節の勧め
 『今この時 この祈り』に記されている「めざめ」という祈りがあります。これは関茂という牧師が、新年にあたって祈ったものです。
 このように祈られています。

神さま 新しい一日と新しい週 新しい月と新しい年を ありがとうございます
いつもお与えくださる新しい目ざめと 新しく起たせてくださる暮らしの中で
しっかりと立ち 心は高く 唇には新しい賛美の歌をいただいて
どうか 恐れなく進ませてください
心を閉ざしてくるつらいこと 目や耳をふさいでくる悲しいこと
さまざまな嵐は まだあるでしょう
それでもわたしたちは呼ばわります 深い淵から 涙の谷から
そして死の陰の谷からも祈ります
だから み言葉を聴かせてください どうか み言葉で生かしてください
くり返して 新しく 何度でも
生かされている一日 一週 一か月
支えられている一年 さらに一生涯を
ありがとうございます 神さま

 印象的な祈りの言葉であり、時折思い起こしては、こんな祈りを捧げることができればと思わされています。
 早いもので2012年も一月が経とうとしています。これからの一年、どんなことに出会うのか、残念ながら私たち人間には見通すことができません。この方が祈っているように、確かに「心を閉ざしてくるつらいこと 目や耳をふさいでくる悲しいこと さまざまな嵐」、そのようなものに私たちも直面することがあるでしょう。そうした中で、私たちは「深い淵から 涙の谷から そして死の陰の谷からも祈」らざるを得ないことがあるかも知れません。そうした歩みの支えとして、この方は「だから み言葉を聴かせてください どうか み言葉で生かしてください」と祈っています。その思い・祈りを新たにする私たちでありたいものです。
 「詩編」119編は、「あなたのみ言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」と告白しています。このように告白できる信仰へと向かって、み言葉を頼りに歩み始める私たちでありたいものです。「心を閉ざしてくるつらいこと 目や耳をふさいでくる悲しいこと さまざまな嵐」に出会うとしても、「だから み言葉を聴かせてください どうか み言葉で生かしてください」と祈りつつ、この祈りを生む信仰を求めていきたいと願います。 私自身、遅々とした信仰の歩みですが、御心へと向かい、み言葉を頼りとして、一歩ずつ、ひとあし、またひとあし積み重ねたいと願っています。聖書に親しみ、神の御心へと着実に歩みを進める、そんな信仰を求めながら進んでいきたいと願います。