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礼拝説教

2013年6月30日(聖霊降臨節第7主日)

「それが一流選手のあかし」

  マルコによる福音書 10章35〜45節

    古賀 博牧師


聖書〉マルコによる福音書 10章35〜45節
35:ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。
36:イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37:二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。
38:イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39:彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40:しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。
41:ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44:いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45:人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。


○二人の弟子たちの願いとは
 今日は「マルコによる福音書」10章35節以下を読んでいただきました。ここに記録されているヤコブとヨハネという兄弟の願いは、私たちの心に巣くっている罪を如実に表しています。
 この二人は「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と、主イエスに申し出たのです。このように証言されています。37節以下をもう一度読みます。

 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」。彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」。

 主イエスが栄光を受ける時、主の力に与り、あわよくば自分たちもその栄光に浴したい、あるいは強い権力や人を支配する力を身に帯びたい、このような願いは私たちの心にも沸き上がってくる根深い誘惑の思いです。こうした誘惑から逃れられずに、この想いに突き動かされ、いつの間にか身近な関わりの中で、あるいは本当に残念なことですが、教会の交わりの中で、知らず知らずの内に強い立場に立とうとしてしまっていることが私たちにはないでしょうか。

○早稲田奉仕園の園章
 主イエスご自身のあり方、語り継いで下さった福音の方向がどういったものであるかを、私たちはこの箇所の語りから学び、心にとどめたいと願います。42節以下をご覧ください。

 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 古くから早稲田教会に関わっておいでの方々には、馴染みの深い聖書箇所ではないでしょうか。マルコによる福音書10章42節から45節までは、早稲田教会の母体となった友愛学舎、その学舎を含めた働きである早稲田奉仕園、この団体の園章と呼ばれて、大切にされてきた聖書箇所です。
 奉仕園という名前が最初に用いられたのは、友愛学舎の創設者であるベニンホフ宣教師によってのことです。ベニンホフ宣教師がアメリカに書き送った手紙が、『早稲田奉仕園100年の歩み』に記録されています。手紙を通じて、奉仕園という言葉を紹介し、自分の日本での宣教活動への理解を求めています。1918年、今から93年前に記された手紙です。
 「奉仕とはサーヴィス、園とは庭または公園を表す」と紹介し、友愛学舎のみならず、もっと広い宣教の働きを奉仕園との名称で示し、同時に兄弟寮としての信愛学舎も紹介されています。それぞれの名前が何から導かれているのかを、ベニンホフ宣教師はその手紙に記しておいでですが、奉仕園の名前はマルコ10章42〜45節からだと示していらっしゃいます。
 今日の聖書の箇所を基盤として奉仕園の活動は展開され、その中に早稲田教会も育てられてきたのです。友を愛し、信・望・愛を大切にし、そして人に仕える、そのような祈りと願いの下に、私たちの教会も歩みを出発して今日へと至っているのです。

○イエス・キリストの真実を歌った「キリスト賛歌」
 主イエスは弟子たちに、「仕える者」となるように求めておいでです。45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあるように、主ご自身が仕える者として遣わされ・生きた、そのあり方に連なり、その生き方へと進んでほしい、そうした願いを込めて語られています。
 * * * *
 イエス・キリストの歩みについて、今日の招詞としました箇所から確認しておきましょう(新約聖書363頁)。
 今日の招詞は、「キリスト賛歌」の一部です。「キリスト賛歌」とは、初代教会で繰り返し歌われた賛美歌です。賛美を通じて、初代教会の人々はイエス・キリストの生き方を心に刻み、それに倣おうとしたのでした。6節以下を読みます。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 6〜7節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とありました。神と全く同じ存在であられたキリストが、人間になられたとの告白ですが、間に置かれている「かえって自分を無にして、僕の身分になり」に注目して読まなければならない箇所です。「かえって自分を無にして、僕の身分になり」とは、自分を全くの無にして、奴隷そのものになったということです。続く「人間と同じ者になられました」という「人間」は単数ではなく複数で、正確に訳せば「人間たちと同じ者になられました」となります。つまり、全く自分を無として一介の奴隷となったキリストは、一人ひとりの人間に、つまりは全ての人に仕える者となられたのだ、と告白されています。
 主イエス・キリストの生涯に触れ、そして主の十字架を経験した初代教会の信者たちは、主イエスの復活と昇天の後、聖霊の導きの下に教会を形成し、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきます。こうした中で、主イエスの生き方、またその生き方を写し出した教えとして深く人々の心に刻まれたのが、「仕える」というあり方でした。
 「マルコによる福音書」を通じても確認しましたように、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主ご自身がその宣教の目的をはっきりと宣べ伝え、自分のあり方に倣うようにと、弟子たちに求めていらっしゃいます。そうした主イエスは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と、仕える者となるように励まし勧めておいでなのです。

○ブラジルサッカーの強さの秘訣
 先般まで、日本クリスチャンアカデミーの聖書講座の入門クラスが行われました。アカデミーの運営委員のひとりとして、この講座の責任を負ったのでした。聖書講座の内、入門クラスというのは初めての試みでもあり、広く周知できませんでしたので、残念ながら参加人数が少なく、講師にも申し訳ないので、悦子にも頼んで夫婦してこの講座に出たのでした。
 講師の吉岡康子牧師から、主として旧約聖書を通じて、さまざまにお話を伺うことができました。本筋のお話はもちろんのこと、横道に逸れた話もなかなか面白く、大変興味深く聞かせていただいたのでした。
 6月17日(月)が最終回で、この日は主としてヨナ書からお話をしていただきました。ヨナ書の話も大変に興味深く面白かったのですが、少しでありますが、サッカーに関する話を聞きました。
 コンフェデレーションカップの第一戦が行われたばかりの時でした。日本がブラジルとどんな試合をするのかが注目を集めたことは、皆さんもよくご存じかと思います。来年に行われるワールドカップの前哨戦として注目を集めた大会でしたが、ブラジルには0対3で完敗、その後、イタリア、メキシコにも敗れ、3戦全敗で日本は大会を終えてしまったのです。
 吉岡康子牧師のお連れ合い、吉岡光人牧師は私の神学校時代の同級生ですが、大のサッカー好きです。そんな彼は、いつもテレビでサッカー中継を熱心に観ているとのこと。日曜日の朝4時からのブラジル戦を、早起きして観たというのです。説教もあるのに、どれだけサッカー好きなんだと、康子先生は半ば諦めつつも、呆れかえっているんだと語られたのです。
 * * * *
 そんな吉岡光人先生が、常日頃、ブラジルのサッカーの凄さ、またその強さの秘密に関して、ホペイロの存在があってこそとお話になっているとのこと。
 ホペイロという言葉を私はその時に初めて聞きましたが、これは用具係を意味しています。インターネットで調べると、ホペイロというのはポルトガル語で、用具係を意味しているというのです。プロサッカーチームで、選手の使用するスパイクシューズ・ユニホーム・ボールなど用具の整備をする係だとも出てきます。
 このように、ホペイロとは、チームに同行して、各選手のシューズやユニホーム、ボールを整え、グランドの整備を行い、選手達が快適に練習を行い、試合に臨めるようにと、いつも裏方として奉仕しているのだそうです。ブラジルの各チームには、このホペイロという役割がしっかりと位置づけられ、機能している、そこにブラジルサッカーの強さがあると、吉岡牧師は常々語っていらっしゃるとのこと。
 深く心に残りましたのは、ブラジルサッカーの一流選手たちは、試合で活躍した際、仲間やサポーターと喜びを分かち合うことに先だって、このホペイロとこそ喜びを分かち合うというあり方でした。試合でゴールを決めるなど活躍した選手は、まずホペイロのところにいってきちんと挨拶し、「ありがとう」と心からのお礼を述べ、喜びを共に分かち合うのだと聞きました。
 こうしたことがきちんとできるかどうか、そこに一流であるのか、そうでないのか、分かれ目があるというのです。どれだけサッカーがうまくても、それだけではダメで、目立たないところで奉仕・協力してくれている人々をしっかり認める、そうした人をこそ重んじ、心から感謝する、こうしたことが独自のサッカー文化として根付いている、と聞いたのです。

○一流はないけれど、真実なキリスト者を目指し
 私はこの話を聞いて、即座に今日の聖書箇所を思い起こしました。そして、私たちの教会において、このホペイロに関する話を皆で確認しなければと思ったのです。
 私たちの教会にも幾人ものホペイロさんがいらっしゃいます。第一・第二礼拝のために、ティーアワーのために、聖歌隊はじめ各部・各会の働きのために、教会の業の一つひとつにおいて、見えないところで、隠れたところで奉仕してくださっている方々が多くあることを思います。そうした教会のホペイロさんたちに、私たちはきちんと感謝できているだろうか、その思いをきちんと伝えられているだろうか、もっと言えば、そうした存在があって、この教会の礼拝が、活動が、一つひとつの業が支えられていることに気づいているだろうか、そんなことを思わされました。
 * * * *
 私たち人間は、どうしても目立つものや煌びやかな者に目を引かれ、注意を向けます。そして、そんな者に憧れるのです。しかし、どんな組織も団体も、そして教会もそうですが、目立つ人々、煌びやかな人々でのみ成り立っているのではありません。目立たない、泥や埃にまみれながら、本当に地道に、隠れたところで人々のために奉仕を続けていてくださる方があります。そんなホペイロさんの働きや奉仕に支えられて、私たちは毎週の礼拝を捧げ、ティーアワーを行い、各部・各会で活動することが許されています。
 教会のホペイロさんにしっかりと気づき、心から感謝できるキリスト者となりたいと願います。そして、また私たちの力を、ただ目立つ働き、煌びやかな活動にだけ注ぐのではなく、目立たなくとも人々に仕えていく、この働きへもしっかりと注ぎたいと願います。キリスト者に一流はありませんが、これこそが真実なキリスト者の歩みの方向ではないでしょうか。
 主イエスは、私たちに教え、勧めていらっしゃいます。

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。

 私たちの力やエネルギーを、ぜひとも主に喜ばれる方向へと用いながら、目立つ働きだけではなく、地道に人々へ仕えていく方向にも注ぎながら、共々に祈りと思いを合わせて、主にある教会を形成し続けたいと願います。