wasedach_title.png

印刷用表示 |テキストサイズ 小 |中 |大 |

礼拝説教

2013年7月14日(部落解放祈りの日:聖霊降臨節第9主日)

「〈園丁〉のイエス」

  ヨハネによる福音書 20章11〜16節

    有住 航 伝道師

聖書〉ヨハネによる福音書 20章11〜16節
11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。


*「部落解放祈りの日」に祈りを合わせる
 今日7月14日は日本キリスト教団の部落解放センターが定めた「部落解放祈りの日」です。日本基督教団は1975年7月14~15日に開催された常議員会において部落差別問題特別委員会の設置し、教団として部落解放の働きを始め、部落解放センターの設立に至りました。この原点を記念して、部落解放センターでは7月の第2主日を「部落解放祈りの日」として定め、全国の教会・伝道所に部落解放の働きのために祈ってほしいと働きかけています。わたしたちのこの礼拝も「部落解放祈りの日」に連なる礼拝として、部落解放の働きをみなさんと共に分かち合うことができればと思います。


大阪での出会い・東京での出会い

 私は大阪にいた時分から、部落解放の働きに関わる機会をたくさん与えられてきました。最初のきっかけは部落解放センターが毎年8月に行っている「部落解放青年ゼミナール」というプログラムに参加したことでした。部落解放というテーマを教会の宣教の業として懸命に担っている方々に出会い、差別がなくなることを願う祈りに触発されてきました。今も関東の地で部落解放の働きに加えられていることは自分にとって大きな喜びであります。
 生まれた場所や皮膚や目の色を理由に人々から差別され、不当な扱いを受け、抑圧されるということが、残念なことに、わたしたちの社会の中に今も残り続け、繰り返されています。
 「部落解放」の働きとは、そんな社会の中でわたしたち一人一人が差別されることから、そして差別することから解放されていく世界を目指すものであります。それは「人間性の回復」を求めるものだと言えるでしょう。いま「解放」というテーマを考える上で、わたしたちが手にしている福音書は大切な気づきを与えてくれるものだと思います。福音書に示されている「解放の福音」を共に分かち合いましょう。


*〈復活したイエス〉に気付かない人々

 ヨハネ福音書において、復活したイエスに最初に出会ったのはマグダラのマリアでした。朝早く、まだ暗いうちに、イエスが葬られた墓に向かったマグダラのマリアは、墓石が取りのけられ、イエスの遺体がその墓の中から取り去られてしまっていることに絶望し、墓の外に立って泣いていました。十字架刑という極めて惨たらしく、呪われた刑罰によって殺されてしまったイエスの、その遺体が、誰かによって持ち出され、墓が荒らされている。殺されたあとですら、遺体すら丁重に扱われない。愛する人が殺され、その遺体と墓が何ものかによって侮辱される。こんなひどいことがあってよいのか。マリアは絶望的な思いで涙を流していました。マリアは、イエスの墓の中にいた「白い衣を着た二人の天使」に「なぜ泣いているのか」と問われ、こう応えています。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(13節)

 こう言いながらマリアが後ろを振り返ると、そこには復活したイエスがいるのですが、マリアはそれがイエスだと気付かず、「園丁」と勘違いし会話を続けます。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」(15節)

 この箇所だけでなく、「イエスの復活物語」には自分の目の前にいる人がイエスであるということに気付かないという描写が繰り返し描かれます。これは非常に興味深いことです。これらの人々は、なぜ目の前にいる人がイエスであると気付かないのでしょうか。
 生前のイエスと最も近いところにいたはずのマグダラのマリアや弟子たちでさえ、復活のイエスになぜか気付きません。ルカ福音書に描かれる「エマオの途上」の物語でも復活のイエスと一緒に旅をし、会話をしていたにもかかわらず、それがイエスであると気付かないのです。


*〈ケープ—ロス〉としてのイエス

 マグダラのマリアは自分の後ろに立っていた男がイエスであると気付きません。かのじょはその男をイエスではなく「園丁」だと勘違いしています。新共同訳では「園丁」と訳されているのは「ケープ—ロス」というギリシャ語です。辞書によれば、「ケープ—ロス」とは英語で「ガーデナー」、すなわち「庭を管理する人」「庭の管理人」「庭師」という意味です。マリアがいたのはイエスの墓があった墓地でしたから、この場合の「ケープ—ロス」は「墓地管理人」という意味合いだろうと思います。
 「墓地管理人」というと、多磨霊園や富士霊園で庭木を刈ったり、花を植えたり、墓石を磨いたりという仕事をイメージしますが、当時の「墓地管理人」の仕事は相当に苛酷なものでありました。当時、遺体は火葬ではなく土葬するのが普通であり、横穴式の墓に遺体を入れ、石でふたをするというような仕方であったようです。そのため、誰かが遺体を担いで墓穴の前まで運び、墓穴の中に遺体を納めなければならず、そのような労働を担ったのが墓地で働くことを生業にした「墓地管理人」でした。
 「墓地」という場所は生きている者が生活する場所ではなく「死者」が住む場所です。墓地は「日常」と切り離された「非日常」の場であり、そこで働く人々もまた「非日常の存在」であると見なされました。
 民数記19章には、死体の扱いに関する律法規定が記されています。これを読む限り、古代イスラエル民族にとって死体とは穢れたものであり、死体に触れた者は穢れるのだ、と考えられていたようです。

「 すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。 その人は三日目と七日目とに、この灰の水をもって身を清めなければならない。そうすれば清くなるであろう。しかし、もし三日目と七日目とに、身を清めないならば、清くならないであろう。すべて死人の死体に触れて、身を清めない者は主の幕屋を汚す者で、その人はイスラエルから断たれなければならない。汚れを清める水がその身に注ぎかけられないゆえ、その人は清くならず、その汚れは、なお、その身にあるからである。」(民数記19章11節以下)

 古代イスラエル民族は律法によって死体と死体に触れる人を穢れたものと見なしています。しかし実際問題、家族などが亡くなった場合には誰かが遺体を墓に納めなければならないわけで、そうしたときに家族の代わりに遺体を運び、墓に納めていたのがこれら墓地管理人だったわけです。「死体に触れる者は穢れる」と考えられていた中で、その「穢れ」を一身に背負い、誰かがやらなければならない仕事を担っていたのが、墓地管理人たちでありました。
 この人々は「死体に触る者は穢れる」という考えのゆえに、「穢れた人」「普通ではない人」「罪人」とみなされ、共同体から断絶され、疎外され、差別されて生きていたのではないかと思います。マグダラのマリアは復活したイエスを「墓地管理人」と勘違いしています。マグダラのマリアには、イエスの姿がそのような差別を受けていた「墓地管理人」の姿に見えたのです。このマリアの描写に従えば、イエスはマリアがよく知っていた生前の姿ではなく、「墓地管理人」に見えるような姿で復活したということを示しているのではないでしょうか。


*〈復活〉の姿

 わたしたちは「復活のイエス」の姿をどのようにイメージしているでしょうか。なんとなく後光が射して、柔和で小綺麗な姿で復活したとイメージしているかもしれません。しかし、十字架刑という惨たらしい死刑に処され、その遺体すらきちんと取り扱われることのなかったイエスの姿は、とてもじゃないけれど「きれい」と言えるものではなかったと思います。この世において最も凄惨な形で死んだイエスが「復活する」。それは、生前の面影を残した、若々しく、りりしい姿ではなく、血と汗と土ぼこりによごれ、ぼろぼろの衣服をまとい、香油すら塗られることのなかった、生々しい傷跡を残した姿で〈復活〉したのではないかと思うのです。
 マグダラのマリアが目の当たりにした「復活のイエス」は、この世で厳しい差別にさらされていた「墓地管理人」の姿で現れました。それは、復活したイエスが〈この世〉で差別され、絶望のただ中にいる人といまも共にいるのだ、ということを示しているのではないかと思います。マグダラのマリアが復活したイエスに気付かなかったのは、かのじょが「不信仰」だったからではなく、「復活したイエス」が生前の面影のない、この世で差別されている者の姿で現れたからではなかったか、とわたしは思います。


*わたしたちの思いもよらないところに復活するイエス

 復活したイエスは、生前のイエスがそうであったように貧しい者、絶望の中にいる者、差別されている者、「罪人」と呼ばれる者と同じ姿、同じ場所に現れます。復活したイエスは、美しい神殿の玉座に鎮座する方ではなく、いまも〈この世〉の中で、厳しい状況にある人と共にいて、その苦しみを共に担われる方である。「イエスの復活」という出来事はそのことをはっきりと示しているように思います。
 〈この世〉の絶望と差別を一身に受け、十字架にかけられたイエスは、最後までイエスと共にいようとしたマグダラのマリアのもとに復活した姿を現します。復活のイエスは、たくましく、美しい姿とはほど遠い、「この世で差別されている/小さくされている人々」の姿をまとって、マリアのもとに現れたのでした。
 イエスは、絶望の中にいたマリアや弟子たちと共にいたように、いまこのときも、わたしたちの「絶望」と寄り添うように、共におられるとわたしは信じたいです。イエスは「この世の絶望」という場に復活するのだ。このことは、この困難な時代を生きるわたしたちにとって、かすかな希望の種になりうることです。
 イエスが「この世で差別されている/小さくされている人々」の姿をまとって復活されたことを覚え、わたしたちの「絶望」を共に担ってくださるのだということに信頼を置きつつ、神の解放の業にわたしたちが連なることができればよいなあと思います。言葉を交わし、思いを共有し、知恵を出し合いながら、共に新しい歩みを起こしていきましょう。


*共に祈りましょう:
解放をもたらす神、
イエスが「この世の絶望」のただ中に〈いのち〉を携えて復活されたことを覚え、
そのことに希望と信頼を置くことができますように。
すべての差別がなくなりますように、心から祈り求めます。
どうか、すべての人が、差別から解放され、一人ひとりが豊かな〈いのち〉を生きることができますように。