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礼拝説教

2013年7月21日(聖霊降臨節第10主日)

「まずは自分→他者」

  エフェソの信徒への手紙 4章25〜32節

    古賀 博 牧師



〈聖書〉エフェソの信徒への手紙 4章25〜32節
25:だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26:怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。
27:悪魔にすきを与えてはなりません。
28:盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29:悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
30:神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31:無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。
32:互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。


○エフェソの信徒への手紙の全体構造
 今日はエフェソの信徒への手紙から読んでいただきました。
 全体で6章あるこの手紙。最初の1章から3章までに教義的なことが置かれ、その後4章から6章には実践的な事柄が記されています。神の救済の出来事が教義学的に語られ、教会・実生活においてどう生きるべきかを語る、そんな全体構成となっています。
 * * * *
 このようなエフェソの信徒への手紙の内で、教義を踏まえての実践について語られている部分、4章から共に学びたいと願います。12節から13節にはこうあります。
 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
 ある人が、このみ言葉を踏まえて、“信仰も、また教会も常に建て続けられていくものである”と語っていました。完成された信仰、あるいは完全なる教会というものはなくて、常に聖書のみ言葉に立ち返りつつ、神の前に悔い改めて、自らの信仰を、そして教会を建て続けていく、育成し続けていく、こうしたことが語られているというのです。

○古い生き方を捨てよ、との使信
 真実なる信仰への道筋の上に置かれた私たちに、この手紙は「古い生き方を捨てる」ようにと求めています。4章の21節以下を読みます。

 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 キリストに結ばれて新しくされた人として生きる、このことが25節以下に示されています。 

 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 こうしたあり方が真の信仰に生きる者の課題として示されています。ここに書かれている一つひとつのことを具体的生活を通じて実践していくようにと、この書は私たちに求めています。

○教会の交わりを破壊するもの
 29節以下をもう一度読みます。

 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 この箇所の「悪い言葉」というところには、原語では「腐った、古くなった」という意味の言葉が用いられています。ある牧者は、今私たちが用いている新共同訳聖書の前身、共同訳聖書の訳語が文意に即して最も適切であったと、「人を傷つける言葉」という訳語を紹介しています。共同訳聖書では、ここは「悪い言葉」ではなく、「人を傷つける言葉」と訳されていた、そのことを受けとめたいものです。
 * * * *
 「人を傷つける言葉」というものが、実際にあることを思います。私自身も知らず知らずの内にそうした言葉を吐き出してしまっていることでしょう。深く反省しなければなりません。
 そんな言葉や語りが、教会の交わりをいとも簡単に破壊していく、そのような状況に初代教会は実際に何度も直面したのです。

○「その人を造り上げる」言葉や語り
 こうした現実に対して、どのように言葉を用いていくことが求められているでしょうか。「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と勧められています。「その人を造り上げる」に、建築家や建築物を表すオイコドメーという言葉が用いられています。
 この手紙の著者は、4章の16節にこう書き残しています。

 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

 教会という共同体の成長に繋がる、よき建築物のように用いている具材がしっかりと組み合わされる、そうした共同体で集う一人ひとりの信仰が形作られていく、内なる人を育み、強めていく、そんな言葉が必要とされているのだと、教えられています。
 こうした言葉や語りを形作り、また交わしていくというのはとても難しいことですが、一人ひとりがもう一度自分の語りがどんな風に響き、他者にどんな影響を及ぼしているのか、それを冷静に見つめ直すことは大切なのではないでしょうか。

○韓国の格言から
 『先生たちがえらんだ 子どもに贈りたい120の言葉』という本があります。神奈川県の小学校において現役教員として活躍の5名の先生たちが編集した本で、小学生に向けて贈りたい短い言葉が120も選ばれています。いずれも実に短い言葉です。納得のできる言葉、美しい言葉、また元気や勇気が与えられる言葉、小学生に向けての本ですから、実に分かりやすい数々の言葉が集められています。
 この本に、韓国の格言が紹介されています。“行く言葉が美しければ、来る言葉も美しい”。言葉に添えてこう書かれています。

 「おれは」と切り出すのと、「わたくしは」と切り出すのでは、後に続く言葉も違ってきます。「売り言葉」に「買い言葉」という言い方もあります。「何やってんだー」と子どもに言ったら「人間やってんだー」と言い返してきたという話があります。こういうときには、心配そうに「どうしたの?」と言ってあげれば、相手も心を開いて話してくるれかも知れませんね。相手から返ってきた言葉にムカツク前に、自分の投げかけた言葉について吟味してみることも、ときには必要ではないでしょうか。

○ストロークの法則
 この格言に触れて、私は「ストロークの法則」というものを思い起こしました。ストローク(stroke)とは、心理学の用語で「他者の存在や価値を認めることを意味する、何らかの言動や働きかけ」を表しています。
 「ストロークの法則」とは、次のようなものだと聞きました。“ある人に、相手の反応はどうあれ、こちらからあたたかいものを与え続けると、それはいつしかあたたかい大きな固まりとして戻ってくる。逆に、ある人に、相手の反応はどうあれ、こちらから冷たいものを与え続けると、それはいつしか冷たい大きな固まりとして戻ってくる”。こうした法則だそうです。
 * * * *
 ストロークとは、交流分析の中心となる基本概念の一つで、辞書には「相手のことをほめることもストロークであるし、悪く言うこともストロークである」とあります。
 そして、このストロークには、肯定的ストローク(positive stroke)と否定的ストローク(nagative stroke)の二種類があるとのこと。肯定的ストロークには、なでる・抱擁する・握手するなどの「肉体的肯定的ストローク」、微笑む・うなずく・じっくりと話を聴くなどの「心理的肯定的ストローク」、また、ほめる・語りかける・励ますという「言葉による肯定的ストローク」があります。逆に、「相手を悪く言う」というのが代表的な否定的ストロークで、この他にも、殴る・蹴るなどの暴力が「肉体的否定的ストローク」、無視・睨みつける・信頼しないという「心理的否定的ストローク」、非難する・責めるなどの「言葉による否定的ストローク」があるようです。
 この肯定的ストロークによっては、相手に喜びや自信が与えられるとのこと。肯定的ストロークは与えられた人の心の糧となり、そこに「あなたの存在は、大きな価値のあるものであり、そしてかけがえのないものである」とのメッセージを伝えるというのです。逆に否定的ストロークとは、相手に「私はあなたを認めていません」というメッセージを送るものであり、相手の自尊心を傷つけ、同時に自信を失わせるものとなると言うのです。

○神の肯定的ストロークに出発したキリスト教
 キリスト教の出発も、神からの肯定的ストロークに根ざしていることを思います。
 ご存じの通り、キリスト教の出発点は、主イエスの十字架上での贖い死と栄光の復活とにあります。主イエスは私たちの罪のために十字架に架けられ、苦しみつつ血を流しつつ、私たちへの愛を貫いてくださいました。十字架とは、当時、最も忌み嫌われていた極刑です。この刑に処された者は、人々の目の前で長時間苦しみ続け、血を流しながら、じわじわと死に至っていきました。
 主イエスは、こうした十字架の痛み・苦しみを経験する中に、自分を十字架に架けた人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)との執り成しの祈りを捧げられたと、聖書は告白します。この主の赦しと愛の内に、全ての人々の罪は担われ、主の血によって贖われたのでした。この主の十字架の恵みに触れることによって、また主の甦りにある希望の光によってキリスト教は出発しました。
 * * * *
 罪ある私たちへの赦し、そしてそのような者にも恵みを与えてくださる神の愛について、「エフェソの信徒への手紙」は、2章の4節以下にこう記しています。

 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、——あなたがたの救われたのは恵みによるのです——キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

 直前の3節のみ言葉によれば、「生まれながら神の怒りを受けるべき者」であった私たちをも、「神は…この上なく愛してくださり、その愛によって…わたしたちをキリストと共に生かし」、恵みにより救ってくださったというのです。こうした告白から、神の「肯定的ストローク」の内に私たちが恵みにより置かれていること、常に神の「肯定的ストローク」が主イエスの贖いと救いの業を通して、一人ひとりに与えられ続けていることを知りたいと思います。

○自分→他者を整える
 この神の「肯定的ストローク」を注がれる私たちは、この世においてどう生きていくように神に望まれているでしょうか。韓国の格言には、“行く言葉が美しければ、来る言葉も美しい”とあり、聖書は「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と勧めています。
 私たちがその語る言葉において、人と接する態度において、どうあるべきなのかを改めて考えたいものです。神の「肯定的ストローク」を、主の十字架の愛によって注がれている私たちは、それぞれが語る言葉、私たちから発せられて他者へと“行く言葉”を美しく整え、私たちから発せられて他者へと向かう“行く態度”に神の恵みと神の愛とが漂うようにとから祈り求めていきたいと思うのです。