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礼拝説教

2013年9月15日(聖霊降臨節第18主日/敬老の日礼拝)

「今日の当番『カーテン半分』」

 イザヤ書 46章1〜4章

    古賀 博牧師


〈聖書〉イザヤ書 46章1〜4章
1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。
 彼らの像は獣や家畜に負わされ お前たちの担いでいたものは重荷となって
 疲れた動物に負わされる。
2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。
 その重荷を救い出すことはできず 彼ら自身も捕らわれて行く。
3:わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。
 あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。
4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。


第二イザヤの活動と時代
 今日は、イザヤ書46章から読んでいただきました。イザヤ書は3部構成となっています。活動した時代背景の異なる3人の預言を合体編集して、イザヤ書という預言書は出来ました。1章から39章までが第一イザヤ、預言者イザヤは紀元前8世紀にエルサレムで活動しました。続く40章から55章が第二イザヤ。通称ですが、この第二イザヤは紀元前6世紀に捕囚先のバビロンで活動した預言者です。そして第三部は第三イザヤ。名前が分からないため、第三イザヤと呼ばれますが、捕囚からの帰還者を迎えたエルサレムにおいて活動し、56章以下にその預言が置かれています。大まかに、こうした三部構成でイザヤ書は成り立っています。
 * * * *
 46章の預言を取り継いだ第二イザヤは、先に述べた通り、バビロン捕囚期に活動しました。新バビロニア帝国によって、南ユダ王国は破壊され、パレスチナの地から遠くバビロンへと、3千人を越す人々が拉致・連行されました。主として祭司や長老など宗教的社会的指導者層に属した人々でした。こうした人たちが連れ去られることによって、国は完全に機能を停止し、滅亡し、長く荒廃してしまう、そんなことが起こったのです。第二イザヤもそのように捕囚された民のひとりでした。名を知られぬこの預言者は、捕囚先のバビロンにあって、他の民たちと同じ苦しみを味わいつつ、神のみ言葉を取り継ぐ働きを担ったのです。

第二イザヤの取り継いだ神の決断
 第二イザヤの預言のクライマックスだと言われているのが、今日の46章です。
 46章の1〜2節で、預言者は今、捕囚地バビロンにおいて、その地の人々が信仰していた神々が、新しい大国ペルシャの出現によりどうなるのか、その末路を神の言葉として取り継いだのです。こう預言されています。

 ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ お前たちの担いでいたものは重荷となって 疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず 彼ら自身も捕らわれて行く。

 これが、バビロニアで多くの人々に信仰されていた神々の末路だというのです。
 「ベル」「ネボ」とは、当時、バビロニアで信仰の対象となっていた神々の名前です。「ベル」とはヘブライ語のバアルです。イスラエルの人々は、バビロニアの主神マルドゥクに対しても「ベル」という名前を用いたのでした。「ネボ」とは、主神マルドゥクの子、あるいはこの神の使者であり、「ネボ」という神は、文学と科学を司る存在として信仰されていました。
 こうしたバビロニアの神々は神像とされており、この像が信仰の対象で、新年行事の時には船や動物に乗せられ、大切に持ち運ばれたとのことです。しかし、新しい大国の出現により、バビロニアの神々はその権威を失墜し、神々の像を運んだ人々、そして獣や家畜の単なる重荷・お荷物となり、人々を疲れさせるだけだと語られています。
 * * * *
 続く3節から4節では、バビロニアの神々とは対称的な形で、イスラエルの神ヤハウェの真実について、神の言葉が取り継がれています。3節4節をもう一度お読みします。

 わたしに聞け、ヤコブの家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 遠く異教の地にまで引かれてきて、捕囚状態に苦しみ・嘆いていたイスラエルの人たち。彼らはこう感じていました、自分たちを選び、祝してくださった神は消失した、あるいは神は私たちを捨て去られた、故にこの苦難を味わっているのだと。そんな嘆きを抱く人々へと向かい、第二イザヤは、イスラエルの神はいまこの時、私たちへどんな思いを向け、私たちの人生に対してどのような決断を抱いていらっしゃるのかを語り継いだのです。
 我々の信じる神は、我々を見捨てられたのではない、私たち人間が生れ出た瞬間から、年を重ね、年老いて再び神の御もとへと召されるまで、その人生の全てを担ってくださるのが主なる神だ、どんな状態にあっても私たちと常に寄り添い、担い、共に歩んで救い出す、そんな強い思いを抱いていらっしゃる、というのです。
 * * * *
 訳し出されてはおりませんが、4節には、その一言一言に「わたし」という主語がつけられているとのこと。つまり、「あなたたちは生まれた時から[わたしに]負われ 胎を出た時から[わたしに]担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、[わたしが]背負い、[わたしが]救い出す」、原文にはこのように[わたし]という言葉を重ねながら、神は深い愛と配慮をもって、あなたを生涯を通じて支え・導くと語っていらっしゃるのです。
 これ程までにイスラエルの民に熱い想いを抱き、一人ひとりの人間の人生に責任を負い、導こう、そうした神の御心が告げられています。一方には人や家畜に運ばれなければならない神があり、一方には人を最初から最後まで「担い」「背負い」「救う」決断をしておられる存在があるというのです。イスラエルの民を選び分かたれた神は、その契約の責任をどこまでも果たそうと決断・宣言していらっしゃる、第二イザヤはそのように預言しています。
 厳しい捕囚の状態にあり、故郷を遠く離れた異国の地で、神は我々を見捨てたもうた、あの力強い神は私たちの近くにはいない、そう感じていたイスラエルの人々は、第二イザヤの取り継いだ、神の決断・宣言にどれ程に勇気づけられたことでしょう。

私たちを背負い、担ってくださる神
 イスラエルの信仰の原点、出発点となったのは、出エジプトという奇跡でした。ご存じの通り、モーセに導かれたイスラエルの民たちは、奴隷状態に置かれていたエジプトから脱出して、荒野を40年間、旅して、約束の地カナンを目指しました。
 申命記は、イスラエルの民たちが、神によって約束された地カナンを目前として、モーセの口を通じて、律法全体を改めて確認する、そうした情景を描いています。出エジプトの旅の全体を振り返りつつ、モーセは説教を通じて、神の律法を民たちに語り聞かせます。
 そうした中に、今日、礼拝の招きの言葉としたみ言葉があります。申命記1章29節以下を再度読みます。

 うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。

 実に印象的な神の姿が、モーセの口を通じて証言されています。
 出エジプトの旅は、食べる物・飲む物に事欠き、自然環境の極めて厳しい荒野・砂漠を40年もの長きにわたって彷徨うものでした。日々出会う苦難・患難の只中に、多くの嘆きが生まれ、精神的・身体的に痛めつけられたのです。奴隷であってもあのままエジプトにいて、今よりも恵まれた生活を送っていた方が良かった、そんな嘆きが人々の口から漏れました。また、もう駄目だ、もう歩めない、そんな状態へと立ち至ったことも多々あったのです。
 そんな嘆きの民たちに神は寄り添い立って、「父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」と、モーセは証しています。
 * * * *
 今日のイザヤ書においても、招きの言葉とした申命記においても、私たちに寄り添い立ってくださり、私たちの抱え、背負って歩んでくださる神のあたたかな恵みが証言されています。
 有名な「フット・プリント」(あしあと)の詩を共に思い起こしたいと願います。
 神と共に歩んできた人生の終わりに、砂浜に残る足跡を振り返ったと、その詩はうたいます。歩んできたその砂浜、ところどころその足跡は一組だけでした。悲しみや苦しみの時、一組の足跡しか見出せず、嘆きを語った人に対して、主なる神は次のように優しく語りかけられます。

 “私の愛する子よ、私はあなたを離れたことはない。あなたが悲しみの時、苦しみの時、嘆きの時、一組の足跡しか見つけられないのは、この私があなたを背負って歩んでいたからだ”。

 嘆き呻く私たちを、愛の神は丸ごと抱えて、背負って歩んでくださるのです。

「今日の当番・ゆうなちゃん カーテン半分」
 『THE YMCA』というニュースが、毎月教会に届きます。このニュースの1面にラポールというコーナーがあります。ラポールとはフランス語で、相手と向き合って、心を合わせていくことを意味する言葉だそうですが、ここにキリスト者たち、主として牧師や神父ですが、聖書に照らして短いメッセージが毎月掲載されているのです。
 9月号は、ぶじみ野バプテスト教会の大島博幸牧師が「期待し、期待されて生きる」と題しての文章を寄せていらっしゃいます。冒頭から驚かされるのですが、この大島牧師のお子さん、小学校1年生の3学期から2年3ヶ月にわたって長期入院したというのです。ペルテス病という病のためとあります。大腿骨の骨頭が血行障害で壊死して扁平になり、骨盤との接合がうまくいかずにひどく痛む、そんな難病だと書かれています。
 小学校1年生の長男が、痛みを伴う難病で2年以上も入院。その子も、そして家族もさぞかし大変だっただろう、そんなことを思いながら読んだのです。
 こう書いてありました。

 “長男と同じ病気の子どもも何人か入院していました。こうした子ども達のため、病院内には養護学校の分校があり、小中学生が治療を受けながら通っていました。
 ある面会の時、長男の1年生の教室に行き、何気なく「今日の当番・ゆうなちゃん カーテン半分」という黒板の文字に目がとまりました。「これは何?」と長男に聞くと、毎日何かの役割がクラスの一人ひとりに与えられ、今日はゆうなちゃんがカーテンを半分開ける役割だったというのです。しかもそれが半分という役割に驚きましたが、ここでは何らかの役割が与えられることが喜びなんだと教えられました。
 担任の先生はクラスの一人ひとりに、その日の子ども達の健康状態を配慮しながら、その子が担えるような役割を与えているそうです”。

 長期に入院している子どもたち、その子たちの病院内での学びと生活を思わされます。そうした中で、「カーテン半分」という当番、その子の担える役割を病状に照らして一人ひとりに振っている、先生の素晴らしさ、そして役割を果たす子どもの思いや喜びをも思わされます。

半分、いや1/3、たとえ1/10であっても
 この文章を読みながら、この1年続けてきた誕生会を通じて伺うことのできた証の数々を思い起こしました。それらが実に穏やかで、あたたかな響きを伴って、私の心に蘇ってきたのです。
 昨年10月から始めた誕生会ですが、多くの方々が積極的に参与してくださり、お互いを覚え、また知り合う、そんなよい機会となっていて本当に感謝です。特に高齢の兄弟姉妹方が、時にはユーモアを交え、また時には原稿まで用意して、遠くの方はお手紙を認めてくださって、ご自分の近況やこの間の歩み・思いを証してくださっています。そうしたお一人おひとりの証に、教会全体が大きく励まされています。
 年を重ねることで、やはり身体が弱ってくることは誰にとっても必然です。そんな老いの事実をただ嘆くのではなく、若い時のように力を発揮できない、どこへでも身軽に動き、訪ねること難しいとしても、それでもなお、教会に通い、兄弟姉妹の関わりを進め、なし得る奉仕を地道に、そうした前向きな想いの証を、私たちは繰り返し伺うことができました。こうした証を通じて、私のみならず、早稲田教会の多くの方々が励ましを受け取ってきた、これが誕生会を通じての恵みではなかったでしょうか。
 「今日の当番 カーテン半分」という言葉に触れて、私は、高齢の方々の思い、祈りとが、この言葉と響き合うように感じられました。全部という訳にはいかないかもしれない、でも半分、いや1/3であっても、たとえ1/10であっても、今、なし得ることを積極的に、前向きに、その思い・祈りで歩んでおいでの方々があります。
 * * * *
 イザヤは、一人ひとりに向けられた神の決断をこう取り継ぎました。

 あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

 こうした神の御心が、私たち一人ひとりに向けられています。人生のどの段階でも、必ず私たちを担い、背負い、救ってくださる神がいらっしゃいます。この神を心から信頼し、今この時なし得る奉仕を、それぞれに行い、主なる神を信じ、証していく、そんな業へと共々に進みゆきたいと願います。