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礼拝説教

2013年10月13日(聖霊降臨節第22主日)

「都市に根付く」

 マタイ福音書 25章31〜40章

    有住航伝道師

〈聖書〉マタイ福音書 25章31〜40章
31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33羊を右に、山羊を左に置く。34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』


【旅と骨】

 8月に「青年の旅」というプログラムに他教派の青年たちと共に参加することができました。前回は「ナヌムの家」でのお話をさせていただきましたが、今回は、旅のはじまりの場所であった北九州・筑豊でのことをお話ししたいと思います。

 筑豊では、江戸時代末期から石炭の採掘が行われていましたが、炭鉱の街として栄えるようになるのは、関東大震災以後のことです。被災した関東ではない場所で、安全に鉄を供給する必要があり、北九州に大規模な製鉄工場が建てられます。鉄を精製するためには、大量の石炭が必要とされ、筑豊の炭鉱は爆発的に発展を遂げることになります。九州中の農村から、仕事を求めて人びとが筑豊へと集まり、移住し、炭鉱労働者として働くようになりました。

 その中には、朝鮮半島から渡ってきた人びともいました。戦前から戦中にかけての時代になると、ますます石炭が必要とされるようになりますが、日本人の労働者が兵隊にかり出されるため、労働者の減少を穴埋めするために、朝鮮半島から強制的に人びとを連れてきて、厳しい炭鉱労働を強いました。

 かれらの中には、危険な炭鉱労働で命を落とす人も多かったと聞きました。しかし、危険な炭鉱労働で亡くなったかれらの骨は、きちんと弔われることなく、墓さえも作られることなく、そのままにされたそうです。筑豊では、日向墓地と呼ばれる墓地を訪ねました。ここは、もともと日本人の墓なのですが、後年ある方の証言によって、炭鉱での強制労働で亡くなった朝鮮人の骨が、この日向墓地の隅っこに埋められているということが分かったのです。実際に訪れてみると、山深い里山の中に日向墓地がありましたが、案内された朝鮮人労働者の墓は、墓石の代わりに少し大きめの石が目印として置かれているだけでした。今でも、そこに誰が葬られていて、何人の骨が埋められているのかは分からないままとなっています。

 北九州でわたしたちが滞在した在日大韓・小倉教会には、かつて崔昌華(チェ・チャンファ)という牧師がいました。かれは筑豊の地で牧師として働いているときに、炭鉱労働者として死んでいった、朝鮮人同胞の骨が、まともに葬られていないことを知り、心を痛め、無念仏に入れられている朝鮮人同胞の骨を集めて回る、ということをはじめます。崔昌華牧師は、故郷に帰ることなく死んでいったかれらの骨を、故郷である朝鮮半島へと返そうとするのです。筑豊中のお寺を周り、昔の名簿を調べ、同胞と思しき名前を見つけては、寺の住職に骨を引き取りたいと頼み込みます。しかし、すでにその骨は、同じく身元が分からず、引き取り手の無かった多くの骨と共に、無念仏として、大きな箱にまとめて仕舞われていて、どれがその人の骨なのか、わからなくなってしまっていたそうです。話を聴きながら、玄界灘を越えて、遠い日本の地で炭鉱労働者として生き、死んでいった人びとの歩みに思いを馳せ、その人生を丁寧に辿り直していくような、現地の人びとの働きに触発されました。


【聖書における「旅」】

 聖書の中には、さまざまな事情から、自分が生まれ育った場所から離れ、「旅」の途上にあった人びとが数多く登場します。古代社会における「旅」というものは、わたしたちがイメージするよりもずっと危険をともなうものでありました。たとえば、ルカ福音書にある「善きサマリア人のたとえ」に登場する、あるユダヤ人は、旅の道中、強盗に遭遇し、身ぐるみを剥がされた上に半殺しの目に遭っています。

 また、イエスの時代、1世紀のパレスチナにおいて、「旅」の状態にあった人びとの多くは、社会的に厳しい生活を余儀なくされた人びと、社会の底辺にあった人たちでありました。干ばつによる不作のために、農業を続けていくことができず、畑を棄て、食い扶持を求めて放浪の旅に出ざるを得なかった人たち。何らかの事情により、共同体から追い出されてしまい、当てもなく放浪の旅を続けた人たちがいました。また、羊飼いのような、職業上、旅することを余儀なくされる人びともいました。「羊飼い」というと、「立派」な職業のイメージがありますが、この当時の羊飼いは、どちらかというと、羊の所有者からこき使われ、休みなく働き、野宿を強いられ、夜は野犬から身を守らなければならない、苛酷な条件の中で働かなければならない人びとでした。

 絶えず移動を強いられ、旅の途上に置かれていたのは、このような、経済的にも、政治的にも、危機的な状況の中にいた人びとでした。それは、自ら望んで「旅」に出たというよりも、やむにやまれぬ状況に押し出されるようにして「旅」に出て行かざるをえなかった、そういう人びとであったわけです。


【旅人へのホスピタリティ】

 このように、当時の「旅」というものが、常に危険と隣り合わせであったことから、人びとの間には、「旅人」に対して、できるかぎりのもてなしをし、水や食糧や泊まるところを提供する、ということが、正しい振る舞いとして考えられていました。

 「旅人をもてなす」という描写は、「招きのことば」でも読まれました、アブラハム物語にも描かれています。アブラハムは、旅人の姿をした神とその使いを見て、走り寄って旅人を出迎え、丁重にもてなそうとして、こう言います。お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れを癒してから、お出かけください。アブラハムの旅人に対する態度は、旅人が実は神であった、ということとは関係ありません。アブラハムは、その旅人が神とその使いであるかどうかを知らずに、「正しい振る舞い」として旅人をもてなそうとしたのです。そのもてなしの行為により、アブラハムとサラは、神から祝福を受けることになります。

 また、みなさんと共に読みました、マタイ福音書において、イエスは「王と家来」というたとえ話を用いて、こう語っています。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれたのは、わたしにしてくれたことなのである」。イエスは、祝福が与えられ、神の国を受け継ぐのは、「最も小さい者」を助けた人であると言います。この「最も小さい者」の中に、飢えている人、病の中にいる人、獄中にいる人と共に、旅をしている人が挙げられています。このように、聖書全体を通じて、旅人をもてなし、休む場所を提供することは、「神の道」に適うことであるのだ、そのことが一貫して描かれているように思います。


【都市に根付く】

 何度かお話をさせていただいておりますが、わたしは、大阪の釜ヶ崎という街で思春期を過ごしましたが、旅の途中に、ふと、そういえば、わたしが釜ヶ崎で出会った「おっちゃん」たちの多くが、北九州の出身者であった、ということを思いだしたのです。筑豊の炭鉱は、1960年代以降、新しいエネルギー資源である石油に取って代わられ、次々に閉山していくのですが、炭鉱が閉山したあと、おおぜいの炭鉱労働者はどこへ行ったのか。もしかすると、釜ヶ崎でわたしが出会った北九州出身のあのおっちゃんたちは、炭鉱が次々と閉山していく中で、北九州から大阪へと仕事を求めて旅し、釜ヶ崎に移住した、元炭鉱労働者であったのかもしれません。

 筑豊の炭鉱が閉山していく1960年代、当時の大阪は1970年に開かれる大阪万博に合わせた建設ラッシュを迎えており、おおくの日雇い労働者が必要とされていました。その日雇い労働者の中に、職を失い、大阪へと移住した筑豊の労働者たちがいたのかもしれません。日雇い労働者として働き、高度経済成長を一番底辺から支えてきたおっちゃんたちは、その後、景気の悪化によりクビを切られ、失業し、野宿生活を余儀なくされていきます。そして、最期は、路上で孤独に死んでいきました。

 わたしの師匠である、金井愛明先生は、釜ヶ崎の地で、そこに生きる労働者と共に生きようとした牧師の一人でした。金井先生は、自らも労働者として共に汗を流し、労働者のための食堂を作り、衣料品を安く提供するバザーを開き、労働者が来ることができる「家の教会」を作り、釜ヶ崎の中で人びとが集まることのできる場所を作り続けてきました。景気の悪化により失業し、野宿生活を余儀なくされる人たちが増えてからは、炊き出しや夜回りをはじめ、野宿生活のゆえに孤立してしまう人びとをつなげようと働きました。

 わたしはこれまで、金井先生が釜ヶ崎の中でやろうとしたことは、キリスト教信仰に基づく「労働者/野宿者の支援」であると単純に考えていましたが、もしかすると本当はそれだけではなかったのかもしれないと思うようになりました。金井先生は、自分の生まれ故郷や家族と切り離され、大阪という大都市の中で、孤立・孤独の状況にある人を、「釜ヶ崎」という、新たな共同体の中に、一人のメンバーとして迎え入れ、この街に根付かせる、そんな働きを担っていたのではないかと思うのです。

 このような働きは、言い換えるならば、聖書の伝統に基礎付けられた「旅する人びと」への奉仕に他なりません。共同体を失い、孤立する人を、もう一度共同体へと根付かせ、その人の〈いのち〉を回復すること、それはまさに福音書のイエスがなした〈奇跡〉であり、それは「教会」という場所が果たすべき役割なのではないか、そう思うのです。


【「旅する人びと」の家としての教会】

 早稲田教会に連なるわたしたちもまた、大なり小なり「旅する人」であると言えるのではないでしょうか。もちろん、わたしたちはかつての人びとのように、強制的な事情があるわけではないですが、しかし、生まれ育った街を離れ、バラバラに散らされて、この東京という大都市に移住しているこの状況は、わたしたちもまた「旅」というものに基礎付けられた者の一人であることを示しています。

 東京は今や、ものすごく大量のもの、商品や情報が飛び交い、ものすごく早いスピードですべてが高速回転しているような、ある意味で極端な場所であると言えます。あまりにも忙しい、この街の暮らしの中で、そのスピードについて行けず、疲れてしまうこともあります。時には、たち止まり、深呼吸をし、休みたいと思うこともあります。また、時に、こんなに賑やかな街であるにもかかわらず、孤独を感じることもあります。自分が「共同体」というものの中におらず、孤立し、バラバラに散らされているような、そんなふうに感じることも、あるのではないでしょうか。

 早稲田教会は、地方を離れ、東京で暮らす人びと、すなわち「旅する人びと」に開かれた教会として、この早稲田の地に建てられて、これまで歴史を刻んできました。「共同体」というものが失われ、バラバラに散らされ、孤立しているように感じるわたしたちの暮らし、その課題にどのように向き合うのか。そのことは、わたしたちが生きるこの時代において、ますます重要なものとなっています。わたしたちが生きる「都市」という場所に、お互いが「根付いていく」こと。「旅する人びと」が集い、休み、力を得ることができる場所をつくること。このような、新しい「共同性」を生み出していく働きは、この時代の「教会」に与えられた、大切なミッション、役割なのではないかと思うのです。

 「教会」という場所が、いつの時代も「旅する人びと」のための家であることができるように、
知恵を出し合いながら、話し合い、共に働いてまいりましょう。