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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2018年3月25日

「鶏が遠くで」 ルカによる福音書22:54〜62
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉

54:人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。 55:人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。 56:するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。 57:しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。 58:少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。 59:一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。 60:だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。 61:主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。 62:そして外に出て、激しく泣いた。
 

○棕梠の主日を迎えて
 今日は受難週の始まり、「棕梠の主日」です。この主日を記念して、礼拝の最初には「棕梠の入堂」というものを行いました。
 「棕梠の主日」は主イエスのエルサレム入城から導かれており、この記事は、4つの福音書のどれにも記録されています。群衆たちは「自分の服を道に敷き」、また「木の枝を切って道に敷いた」というのです。この時に人々が持っていたのは棕梠の枝と葉、今日、聖餐台に置いたナツメヤシの枝と葉でした。
 棕梠は、イスラエルにおいては“勝利のしるし”との意味を持っている樹木でした。群衆たちはこの枝と葉とを花道として、イエスを新しい王として都エルサレムに迎えたのです。かつてダビデが強大な力で王国を建設したように、新たな王イエスによって再び我々は栄光を取り戻すことができる、そんな喜びの場面です。
 人々は、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びました。ホサナとは「主よ、救いたまえ」という意味の言葉です。
 ダビデ王は、イスラエル史上で最も輝かしい存在でした。その即位は紀元前1000年頃のこと。ダビデの活躍によって、小国イスラエルは大いなる繁栄を獲得しました。その子ソロモンの時代を含めて僅か70年間ではありますが、イスラエルは周辺国をも従えるほどの強国となったのです。
 しかし、こうした繁栄は一時的なものに過ぎなかったのです。ソロモンの死後、王国は南北に分裂し、以降、苦難の歴史が続きます。こうした中、「ダビデ王の再来」の希望が形成されていきます。ダビデのような王が再び登場し、我々はかつての繁栄を取り戻すことができる、との願いが強くなっていくのです。この願望は、バビロン捕囚を経てさらに高まります。長年、待ちに待った王が今こそ現れたのだと、人々はイエスをダビデの町エルサレムに喜び迎え入れたのでした。
 歓喜の声をあげた群衆たちは、この後すぐにイエスに躓きます。なぜなら、イエスはダビデ王国の再建など志してはおらず、軍事的な力で支配者を打ち破るというのとは、全く異なるあり方を神の御心として取り継いだからです。
 自分たちの期待を裏切られた人々は、イエスを「十字架につけろ」とヒステリックに叫ぶようになっていきます。イエスの弟子たちも、師を見捨てて逃げ去っていきます。そうした中で、主イエスは十字架に磔とされ、殺されていきました。
 多くの人々の歓喜の声が、即座に失望・絶望の嘆きへと暗転し、こうした中に主イエスの苦難・十字架の道が始まった、そう「棕梠の主日」は告げています。
 群衆たちのいとも簡単な心変わりの様は、私たちの不信仰にも直接に重なり合います。「棕梠の主日」は、御心にしっかりと的を定めて、歩み続けることができない、そんな私たちの罪と改めて真剣に向き合う時でもあります。
 
○人間の眼差し
 さて、今日は「ルカによる福音書」から、一番弟子であるペトロが主イエスを否む場面を読んでいただきました。これも四福音書のどれにも残っている記事ですが、私はこの「ルカによる福音書」の記述を最も印象深く受けとめています。
 「ルカによる福音書」はこのように証言しています。54節以下をお読みします。
 「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った」。
 大祭司の家の中庭で、イエスの審きの結果を待った多くの人々。そこに炊かれた焚き火の炎がペトロの顔をほのかに照らし出したのです。ペトロはきっと心に大きな恐れを抱え、周囲に自分がイエスの弟子だと知られないように、そっと群衆に紛れ込んでいたことでしょう。そんなペトロの顔が炎の光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっていたのです。
 ひとりの女性が、ペトロの顔をじっと見つめます。そして、ある確信を得て、「この人は、今捕らえられたイエスという男と一緒だった」と告発したというのです。
 フランスの哲学者サルトルは、「人間の眼差しは、地獄である」と語ったそうです。この言葉がどんな文脈に語られたのかを詳しく知りませんが、今日の場面からも、「人間の眼差しは、地獄である」という言葉の響きを感じ取ることができるように思います。私たち人間の眼差しは、しばしば非常に厳しい意味合いを帯びます。そこに何らの言葉は発せられなくとも、冷たい眼差しを注がれることにより、私たちは侮蔑の言葉を浴びせられるよりも、深く傷つくことがあります。
 今日の箇所、ペトロへ注がれた周囲の眼差しも全く同質でしょう。相手の動揺を見透かし、告発し、貶めようとする冷酷な眼差しが注がれたことでしょう。
 告発を受けたペトロは大いに焦って、「わたしはその人を知らない」と必死に弁明します。しばらくして、また他の人が彼に冷たい眼差しを向け、「あなたもあの仲間のひとりだ」と再び告発します。ペトロは「いや、それはちがう」と否定します。一時間の後、他の者が「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」と言い張ったと書かれております。ペトロの言葉に強く残るガリラヤ訛りが指摘されたのです。焦ったペトロは「あなたの言っていることは、わたしにわからない」とイエスとの関わりをさらに否定します。
 彼が三度目の否定の言葉を言い終わらないうちに鶏が鳴いたと記されています。
 
○主イエスの眼差し
 有名なペトロの裏切り、三度の否認の場面です。この場面に、「ルカによる福音書」は印象的な一節を証言しています。60節以下をお読みします。
 「だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」。
 主イエスと、大祭司の中庭に紛れ込んでいたペトロ、二人の間にはどれ程の距離があったことでしょう。その視線の間に多くの人々が存在し、夜更けの闇の中での出来事です。普通に考えるならば、起こり得ないことではないでしょうか。その距離にも、人混みや雑踏にも、そして闇に覆われているにもかかわらず、この二人はひとときしっかりと視線を合わせたというのです。この時、ペトロを見つめた主の瞳には、どのようにペトロの姿が映し出されていたのでしょうか。
 少し前、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と胸を張って言い募ったペトロ。その舌の根の乾かぬ内に、三度も主イエスを否んだこの人。主イエスの瞳には、この弟子の姿はどのように映ったのでしょうか。
 恰好の良い言葉を語り、虚勢を張って、外面を整えても、結局は主に従い得ない自分の弱さや欠け、罪の真実が、主の瞳にはっきりと写し出されている、そのようにペトロは痛感したに違いありません。
 ニューヨークのユニオン神学大学で長く教えられた小山晃佑さんという神学者がありました。1960年に教団の宣教師としてタイへ派遣され、以後、タイ、シンガポール、ニュージーランドの各神学大学で教え、ユニオン神学大学へ。2009年に79歳で天へとお帰りになった、そんな方です。ある著作の「『自業自得』から十字架へ」という一文において、小山牧師は今日の箇所に記されているペトロへ向けた主イエスの眼差しについて、次のように語っておいでです。
 “ところがここで主はふりむいてペトロを見つめられた。どんな顔付きで見つめられたか書いていない。怒りをもってであるか、赦しをもってであるか。どんな顔付きでか、私たちは知らない…私たちに分かっていることは、主が振り返ってペトロを見た後で、ペトロが外に出て激しく泣いたということである”。
 群衆に紛れることで、ペトロは傍観者を貫き通したかったのだと、この方は分析しています。しかし女性はじめ、その場の人々に次々にやっかいなことを言われ、群衆の一人として紛れ、隠れていることができなくなったペトロ。
 “はっきりと自分の立つところを言い表すことを迫られた。ペトロは主を否んだ。(しかし)主(は)ペトロを見た。(そして)ペトロは激しく泣いた。この主の目付き・顔付きの中に教会の土台がある。それは…愛そのものではなかったか”。
 私たちの信仰が、私たちの歩みが何によってこそ支えられているのか、それを言い表した、実に印象的に語りです。
 
○鶏の鳴き声をどう聴くか
 昨年、話題になった映画『沈黙』というものがあります。原作は言うまでもなく、同名の遠藤周作さんの小説です。
 この小説のクライマックスは、宣教師フェレイラが、自らの弱さに強く引きずられて、ついに踏み絵に足をかける場面です。この場面はペトロの裏切りを踏まえて描かれています。少しだけ読んでみます。
 “司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む。この足の痛み。
 その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた”。
 サルトルは、「人間の眼差しは、地獄である」と語りました。確かに、私たち人間の眼差しは、厳しい意味合いや底知れぬ冷たさを帯びることがあります。罪と闇の深みへと私たちを突き落とす、そんなマイナスの強い力としても働きます。
 これに対して、主イエスの眼差しとはどんなものでしょうか。どんなことがあってもあなたに従い抜くと胸を張って言い募ったペトロ。そんなペトロの裏切りを予見しつつ、今日の招詞、22章31節以下でこう語りかけられました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。 この祈りの内に、三度も自分を裏切ったペトロを、主イエスは責めることも見限ることもなく、祈りをさらに深めて、群衆の中にあっても「振り向いて…見つめられた」というのです。
 その眼差しは、小山晃佑牧師が語られたように、あたたかな愛の眼差しであり、また『沈黙』の銅版から響いた、深い赦しを含んだみ声であったことでしょう。こうした愛と赦しに立って、私たちは何度躓いても立ち上がって、信仰へと向かって歩みを進めることを許されています。そして教会は、この主イエスの眼差し、祈りに込められた愛と赦しを土台とし、福音宣教の業を続けていくのです。
 遠くから聴こえる鶏の鳴く声は、私たちの罪や裏切り、不信仰を確定する審きの響きで届きくるのではなく、愛と赦しによる新しい出発の朝を確かに告げるもの、私たちは主にあってそのように聴きたいと思うのです。
 受難週の間、自らの罪をしっかりと見つめ、悔い改めを深く祈りつつ、主の愛と赦しをこそ信頼し、イースターを共に喜び迎えたいと願います。