説教
早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します。
2018年4月15日
「芽吹く杖」 ローマの信徒への手紙6:1〜14
古賀 博牧師
〈聖書〉ローマの信徒への手紙6:1〜14
1:では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2:決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。3:それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4:わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5:もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6:わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7:死んだ者は、罪から解放されています。8:わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9:そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10:キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11:このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。12:従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。13:また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。14:なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。 |
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○ローマの信徒への手紙について
今年の2月から「ローマの信徒への手紙」からの学びを始めています。最終章に至るまで、この手紙から聴くことをしばらくは続けていきたいと思います。
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「ローマの信徒への手紙」はパウロ書簡の中で最後に書かれたものです。パウロはおよそ20年に亘り、イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。
この手紙の1章を学んだ際、そこに最古の信仰告白が記されていることをご一緒に確認しました。1章3〜4節にこうありました。「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。
実に短い文言ですが、これは初代教会で確定されていた新約聖書で最も古くからの告白と言われています。この告白に結実している神の真実、イエス・キリストこそ神が遣わして下さった独り子であり、救い主であることを、パウロは伝道者として自らの力の限り、広く小アジア地域に宣べ伝えてきました。
この福音を伝えるため、幾度も伝道の旅を為していく過程で、パウロは多くの人々と出会い、自ら宣べ伝えている内容に関して対話や厳しい論争をも経験しました。時として大きな成果を与えられ、その地にキリスト者が誕生し、教会が成立していく、そんな恵みも与えられました。しかし、全く相手にされない、アテネなどではそんな辛く厳しい経験もしたと、使徒言行録17章に記されています。
各地で行ってきた対話と論争は、パウロの信仰の論理と理解を鍛え上げていきました。このような長年の経験を余すところなく生かして、まだ会ったことのないローマに暮らすキリスト者たちに、主イエスの福音を丁寧に証するために、「ローマの信徒への手紙」を書き送ったのです。こうしたところから、この手紙は、伝道者パウロの経験と思索、神学の集大成であると言われています。
○「古き自分」に死に、新たに生きる
さて、多くの人々と対話、論争を経験は、この手紙の文体にも反映されています。ディアトリーベというギリシャの対話の形式がこの手紙には用いられています。ディアトリベーというのは、ギリシャ・ローマの哲学者たちが教えを広める手段とされた語り方で、仮想のパートナーを想定して行う対話的スタイルでした。
今日の1〜2節、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」と仮想の相手に問いを発し、「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」との答えを導く、これがディアトリーベという対話の形式なのです。
この箇所での問い、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべき」とは単に仮想の相手の意見というのではなく、想定した相手がありました。パウロの「信仰義認」の主張に対して、無償で義とされるのなら、何をやってもよい、罪を重ねても救われるとの誤った理解に立っていた人々、身勝手で無軌道な生き方を主張・推奨する者たちがあり、彼らの誤った考え方への反駁となっている語りです。
「信仰義認」について、再度、ごく簡単に確認したいと思います。パウロが宣べ伝えている「信仰義認」のあり方とは、人間は自らの善い行いや正しい業によって救われるのではなくて、全くの罪人であり、罪に支配されてしまっている人間が、ただ主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられる神の義、罪の贖いと赦しの恵みをいただくことによってこそ救われる、これが「信仰義認」ものです。
2節にまず「決してそうではない」という強い否定の言葉を置き、さらに「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と、「なおも罪の中に生きる」あり方との訣別すべきだと、パウロは語っています。
「罪に対して死ぬ」、同様の言葉は11節にも登場しますが、これは罪の支配から解放されることを意味しています。キリスト者は、生来の自分を支配していた罪に死んだ者であり、罪から解放されて新しく生かされている者だというのです。
2節から少し飛びますが、パウロは6節にこうも語っています。
「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。
「古い自分」、これは罪に支配され続けてきた生来、そのままの自分です。そのような「古い自分」は、キリストと共に十字架につけられたというのです。十字架で主イエスは死なれたと同じように、私たちも一旦は死んだ、ただしただ死んだのではなく、罪から解放され、罪の奴隷となることから解き放たれ、新しい生を生きる、このための新しいいのちを与えられたのが、キリスト者だというのです。
○新しいいのちの恵みと洗礼
罪から解き放たれ、新しいいのちに生きるという神の恵みについて、今日の箇所でパウロは、洗礼との関連で論じています。3〜5節にこうありました。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
洗礼、バプテスマ、この言葉はバプティゼイン(浸す)というギリシャ語に発しています。水に浸される、つまりは沈み込むことを意味していました。一旦、水の中に沈み、そこから起き上がってくる、こうした様がイエス・キリストの死と復活とに重ね合わされて受けとめられてきたのでした。
この洗礼、バプテスマによって人間がどう変えられるのか、このことを論じたのはパウロが最初だと言われています。11節にはこうあります。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。この言葉からも知ることができますように、強調点は、罪に支配されていた自分が一度、キリストと共に死んで、キリストと共に新しい復活のいのちに与り、信仰新たにキリストと共に生きていくことを促される、こうしたキリスト者の生の出発が宣べ伝えられています。
○クリストフォロスの伝説
洗礼に与って生きていく、このことを考えるのに、ある説教者が「クリストフォロスの伝説」に触れていました。「クリストフォロスの伝説」、あるいは「クリストファー伝説」とも言われる、3世紀半ば頃の伝説的人物についてのお話です。
レプロブスという名前のローマ出身の大男がおりました。この人は最初は異教徒でしたが、我が師と仰ぐにふさわしい存在を求めて放浪の旅に出ます。その旅の過程で、これはと思った者たちに仕えますが、彼は満足できませんでした。
レプロブスは、ある出会いを通じてイエス・キリストを知り、この人こそ仰ぐべき対象だと信じて、キリスト者となります。そして、我が師とキリストを仰ぎ、彼を愛し、キリストの教えに応答していく道を追い求めていきます。
ある時、ひとりの伝道者から、キリストを愛するとは人々に仕えることによって表現されると教えられます。どのようにして人々に仕えていくことができるか、大男であった彼はその体格を活かそうと思い、大きな川の畔に小屋を作り、旅人たちを背負って川を渡る、そんな働きを担うようになっていったというのです。
ある大雨の夜、小さな子どもが川を渡りたいと申し出ます。目の前にはいつもとは違って、川が氾濫せんばかりに荒れていましたが、子ども一人なら何とか向こう岸に渡し切ることができるだろうと、子どもを背負って川に入りました。
ところが途中で、子どもはずしりずしりと重くなっていったのです。彼は濁流をかぶりながら、時として川に沈み込みながらも、子どもが流されないように必死の思いで踏ん張り、一歩一歩進んで、やっとの思いで川を渡り切りました。
その時、背負っていた子どもはこう語ったとのこと。「わたしはキリスト。あなたが担ったわたしの重さは、この世の人々の苦しみ、悲しさ、罪の重さだったのだ」。 レプロブスは悟ります。「もしキリストのあの重みがなければ、自分は完全に濁流に飲み込まれ、流され、いのちを失ってしまっていたに違いない。キリストを持ち運ぶ際の沈み込むほどの重さが、結果、私のいのちを救ってくれたのだ」。
キリストはレプロブスに新たな名前を与えます。「クリストフォロス」(クリストファー)で、キリストを背負った者、キリストを運ぶ者という意味の名前でした。
さらにキリストは彼が持っていた杖を地面に突き刺すように命じます。そうすると、その杖から枝と葉が生え出して巨木となり、後にこの出来事を記念する樹木として、多くの人々へキリストを証しするものとなったというのです。
○芽吹く「クリストフォロス」の杖
ヒエロニムス・ボスの「聖クリストフォロス」という絵があります。1500年頃のもので、後に旅人の守護聖人となったクリストフォロスを描いています。
この絵で大男が背負っている子どもがキリスト、大男が持つ杖に吊り下げられた血を流している魚は、十字架のキリストを暗示していると言われています。大男が持つ杖は、よく見るとその先端が芽吹いています。キリストを背負って歩む彼の持つ杖の先の方から、新たな若枝・若葉が芽吹き、生え出でているのです。
今日の箇所、6章4節5節にこうありました。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。このみ言葉に重ねて、芽生える杖を見つめたいと願います。洗礼を通じて復活の主が豊かに働かれ、私たちからも新しい生命、新たな芽吹きを導いてくださるのではないでしょうか。
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招詞とした箇所にありましたように、荒野・砂漠の地を進む出エジプトの40年、それはとても厳しい旅路でしたが、その経験をモーセはこう語っていました(申命記1章31節)。「また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」。このように、神が、イスラエルの民たち同様に私たちをも背負って、どんな時も人生を共に歩んでくださる、この恵みに深く感謝したいと思います。
同時に、促しを受けていることも確認したいと思うのです。それは、キリストを背負い、運ぶように、あのレプロブスにクリストフォロス、クリストファーとの名前が与えられたように、私たちにもキリストを背負い、持ち運ぶ、そのような歩みが求められていることを、それぞれの使命として確認したいと思うのです。
私たちがどれほどに罪深く、弱く、欠け多い者であるとしても、洗礼を通じて神のものとされ、新しい命、新たな使命に復活の主イエスと共に歩みを進めていく者としてくださっています。私たちに何らの力もないとしても、レプロブスの杖が芽吹いたように、私たちも新しいいのち、芽吹きへ導かれていく、このことを信じて進みたいと思います。神の招きと促しの内に、一人ひとりがクリストフォロス、クリストファーとしての歩みへと踏み出す、これを課題にと願います。