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説教

早稲田教会で語られた説教をテキストと音声データで掲載します


2020年4月26日

切り拓かれる暗い時」 出エジプト記14:5〜20
 古賀 博牧師

 
〈聖書〉出エジプト記 14:5〜20

(5)民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは」。(6)ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、(7)えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。(8)主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、(9)エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。(10)ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、(11)また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。(12)我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」。(13)モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。(14)主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」。(15)主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。(16)杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。(17)しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。(18)わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」。(19)イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、(20)エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。  

 
 今日は、旧約聖書の「出エジプト記」14章から少し長く読んでいただきました。
 「出エジプト記」は、旧約聖書で「創世記」に続く第二の文書で、モーセに導かれてエジプトを脱したイスラエルの民たちの「荒野の40年」の旅を記録しています。この出エジプトという長い年月に亘る旅の体験は、イスラエルの信仰の原点であり、荒野・砂漠において何と40年にも及ぶものでした。
 
 「荒野の40年」の出エジプトの旅には、二つの意味合いがあると捉えられています。
 第一には、40年とは当時の人間の一生の長さだという理解です。紀元前1200年代に起こったのが出エジプトという出来事ですが、40年とは当時の中近東で一般の人の平均寿命だったとのこと。そうしますと、イスラエルの民たちは、その人生の全ての期間に亘って、生活手段や条件に何かと事欠く荒野・砂漠に置かれて、苦しみながら厳しい歩み続けたということになります。
 第二に、40年とは聖書における象徴的数字だとの理解です。40という数字を用いて、聖書は神の求めが完全に満たされたという事実を表現しています。出エジプトの旅には、極めて不信仰な人間が真の信仰を経験的に学んでいく歩みという意味があり、信仰の真実を学ぶに必要な苦難の期間を神が備えてくださった、それが40年という形で表現されているのだと言われるのです。
 
 今日の「出エジプト記」14章には、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民たちに、いきなり大きな危機が迫ったことが証言されています。
 王ファラオの命令で、エジプトの戦車と騎兵が逃亡したイスラエルの民たちを追ったというのです。馬に乗って追いすがる尖鋭のエジプト兵たち、それに対してイスラエルの民たちは丸腰、しかも徒歩による逃亡。民たちの中には、当然、老人や女性・子どもたちがおり、何と家畜も引き連れていました。こうした歩みは、軍隊の追撃に比べて、何とも遅く、実に心許無いものです。
 エジプト兵たちはすぐにイスラエルの民たちに追いつきます。人々は一気に追い迫ってくるエジプトの軍勢を恐れ、神とモーセとに次のような悲痛な叫び声をあげたと、11節以下に証言されています。
 「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死よりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」。
 奴隷のままで良かったとは、何とも後ろ向きな嘆きです。エジプトの軍勢によって我々全員が無残にも殺されるに違いない、人々はそのように考え、事態を深く嘆き・悲しみ、モーセを恨み、神を呪ってこのように叫んだというのです。
 
 ところが、この時に不思議なことが起こったのだと、「出エジプト記」は証言しています。14章19節以下をお読みします。
 「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった」。
 最後尾の人々にエジプト軍が襲いかかろうとしている、その時にイスラエルの隊列の先頭に立って、彼らを導いていた神の御使いは、一番後ろへと移動したというのです。今まさにエジプトの軍勢の餌食になろうとしている最後尾に御使いが移って、イスラエル人とエジプトの軍勢の間に立って、一日中、暗い夜の間もしっかりと彼らを守り、民たちに軍勢を近づくことができなかったと記されています。
 
 逃げていくイスラエルの民たちの最後尾、そこはどんな状況だったでしょうか。誰もが我先にと必死になって逃げている、そんな人々の一番後ろには、共同体の内で最も弱い人々が否応なく吹き溜まっていたに違いありません。年老いた者、病の者、障がいを抱えた者、また女性たちや幼い子どもたちなど、急ぎたくてもスピードを上げることができない者たちが取り残され、最後尾に追いやられ、とぼとぼと歩みを進めていたに違いないと思います。共同体の内、最も弱い人々がそこに群れ、うごめき、嘆き・呻きを漏らしていたのではないでしょうか。そして、すぐ後ろまで迫り来ているエジプトの兵を見て、「もうだめだ」という拭えない諦めに支配されていた、そのようなことを想像します。
 14章19節の「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った」との語りは、そうした場所に神の御使いが移ったとの証言。そのようにして、共同体の最も弱い人々は守られたというのです。
 この証言に私は深い感動を覚えます。この御使いのあり方を通じて、慰め主なる神の真実、私たちと共に歩んでくださる神の姿が告白されていると感じるからです。
 慰め主なる神とは、私たちの遠く、高みに立って私たちに教えや訓戒を垂れるような方ではなく、私たちの傍らに寄り添い立って、あたたかな呼びかけ励ましを与え、私たちの内の誰をも豊かに執り成してくださる方です。この慰め主なる神は、最も弱い人々を見捨てることなく、取り残されてとぼとぼと歩かざるを得ない悲しみや嘆きに応えて、彼らのところへと移り、彼らを守り導いてくださいました。

  本日の招詞とした「申命記」1章29〜31節にモーセの語りが残されています。これは、出エジプトの旅の全体を振り返り、自分たちが経験した神の真実について告白です。次のようにありました。
 「わたしはあなたたちに言った。『うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た』」。
 もう歩めないと嘆く人たちと共にあり、彼らを背負い歩んでくださった、そんな神を私たちは見た、そんな神の真実を経験したのだと、モーセは語っています。
 こうした告白を導くに至った旅の一場面が、「出エジプト記」14章に残る最後尾に神の御使いが移ったという恵みの出来事だったのではないでしょうか。
 ここに証言されている神の配慮と愛とは、現代を生きる私たち一人ひとりにも向けられていることを、感謝して受けとめたいと願います。
 
 左近 淑(きよし)という旧約聖書学者がいらっしゃいました。私が東京神学大学を卒業した時の学長の任にあった方でしたが、1990年、ちょうど私が卒業した年の9月にクモ膜下出血で急逝されました。
 この方が、「出エジプト記」14章を巡る説教に語り残されている言葉を忘れることができません。今日の箇所を踏まえて、こう語っておいでです。
 〝聖書の神、キリスト教の神は、われらの救いのために、何の取りえもない、何の力もない者のために、ひとり闘い抜く神であって、最大の危機を最大の救いに、事態を一変する〟。
 左近牧師は、大野晋さん(日本語学者)の説から導いて、日本人は〈時〉や状況を存在するものが緩み流動していくことだと捉えていると、私たちが決定論・宿命論に支配されていることを語っています。この決定論・宿命論に立つと、厳しい〈時〉や状況に直面した際に、人間は無気力になっていくというのです。「どうせだめだ、先は見えている」、こうした見方や考え方に深く支配されがちだというのです。
 
 ご存じの通り、私たちの暮らす東京では、新型コロナウイルスの感染拡大が極めて深刻です。教会の活動は3月初旬から全て中止・延期、4月5日よりは礼拝も無会衆とすることを決断しました。一日も早く全ての業を再開できるようにと神に祈り願っていますが、どうも今回の闘いは長期に亘りそうな気配です。私たちは、また早稲田教会はどうなっていくのか、共に集って礼拝や交わりを再開することはいつ可能となるのか… 先が全く見えず、不安で押しつぶされそうになっています。
 こうした事態の只中にあって、エジプト兵に追いすがられているイスラエルの人々の嘆きや呻き、その現実に深く思いを馳せています。「どうせだめだ、先は見えている」、不信仰な私の心にもそんな想いが尽きることなくわき上がってきます。
 
 「しかし」と左近 淑牧師は切り返しておいでです。
 〝これらに対して、聖書宗教、キリスト教の〈時〉や状況の理解は、…〈時〉はきりひらかれていく、と見ます。神が時間の中に働き、闘いとるというのは、神が今のこの絶望的な暗い時と見えるものを〈きりひらく〉ということです〟。
 出エジプトの旅、荒野を40年(当時の人間の一生の長さに等しい期間)も彷徨い歩く中で、人々は何度も苦境に立たされました。それでもこの旅を最後まで貫徹できたのは、絶望的な暗い時を、神が何度もきりひらいて、新しい状況、希望へと人々を導いてくださった故ではないでしょうか。
 神は、私たちの生きている現実に確実に働きかけられ、力強く闘われて、私たちのために新たな道をきりひらいてくださるのだというのです。こうした「荒野の40年」を導かれた神を深く信じて、「どうせだめだ、先は見えている」との不信仰な想いを変化させていきたいと願っています。
 
 そして、現在、この状況の最中で自らことだけではなく、日本・世界で最後尾に追いやられている人々を、私たちはできる限り想像し、深く憶えたいと願います。
 昨日の『朝日新聞』に、新型コロナ関連情報として「追い込まれた人 支援したい」という特集が組まれていました。日本各地で生活困窮者への支援を行っているNPO団体等が3つの分類で−①フードバンク、②生活困窮者・ホームレス、③子ども・若者−紹介され、、団体の名称・活動内容・連絡先・寄付先が記されていました。こうした事態の中でも、今、苦しみ、痛む立場の弱い人々を憶えての取り組みや支援が継続されていること、私たちは決して忘れてはならないのではないでしょうか。
 私たちの教会の青年たちも加わっている「ちかちゅう給食活動」。渋谷のホームレス支援の活動ですが、緊急事態宣言が発令され、都内での炊き出しが半減しているため、本郷ルーテル教会にて毎週日曜日に準備し、実施していると、片岡平和さんから連絡を受けています。そのような取り組みを行っている青年たちが、この教会にあることに感謝しつつ、その活動に連なっていく者でありたいと願います。
 
 最後にもう一つ、左近 淑牧師の説教から、私自身が改めて強く励ましを受けている語りを紹介します。
 〝聖書とキリスト教は、最後まで与えられた人生をあきらめない。〈時〉は必ず変わる。〈時〉は神様によって必ず変えられる〟。
 今こそこのことを堅く信じて、私たちは決してあきらめることなく、希望の神への信仰を強く抱き、日々の生活を大切に、誠実に送り続けていきたいと思うのです。
 そしてまた、この時、極めて厳しい状況、隊列の最後尾に置かれている人々のことを忘れることなく、神の寄り添いを深く祈りたいものです。青年たちの奉仕に励まされ、私たちもまた今できる支援・取り組みを為しながら進んでいきたいと願います。